予習シリーズ、「女は馬鹿でいい」、すーっと脳に日本刀

私にはほとんど暴言にしか見えない文章が、『予習シリーズ』という中学受験用の超有名問題集に、掲載されています。今日は、トンデモな内容だからこそ際立つ熟練の文章の冴えとその際どさについて考えます。

 絶対音感を養うのは結構である。それまで手がまわるのだったら、いっそう大切な絶対語感を養うことにもっと熱心でなくてはおかしいのではあるまいか。もちろん、絶対語感などということばはないが、
「大阪の△△さん、おりましたら……」
という車掌も、
「ご本を受け取りました」
という若者も、つまり、この絶対語感がしっかりしていないのである。世の中にそういう人が多いから、変な日本語をきいても、妙だと思わない。それで、いろいろ新しい日本語が横行することになる。(中略)
 女性の教育水準が高くなったことはめでたいが、絶対語感の先生としては喜んでいられない面がある。というのも、いまの学校教育は目で文章を読む形でおこなわれる。耳の訓練はほとんどなされない。学校は話すことばについての関心があいまいであり、その程度は上級の学校へ進むにつれてひどくなる。
 大学出の人間は理屈をこねることは知っているかもしれないが、生まれたばかりのみどりごの絶対語感を養うための話すことばをしっかり身につけているかどうか疑問である。すくなくとも大学ではそんなことは教えていない。
 昔の「無学な」母親は、なまじむずかしい文章などは読まなかったから、語り部(かたりべ)であった。話すことばを大事にする。口のきき方が悪いといってしかられて大きくなった。絶対語感はしっかり身につけていた人がすくなくなかった。いまは教育が普及したけれども、口のきき方などをやかましく言わなくなって、ことばの感覚はひどく感念的になってしまった。

外山滋比古『ことばの作法』「絶対語感」より

「中学受験用テキストの定番」(Wikipediaの紹介文)である『予習シリーズ』からの引用です。この文章では、変な日本語を聞いて「妙だ」と思える感覚、「絶対語感」の重要性について述べられています。

さて、この外山滋比古の文章、みなさんはどう思われますか。中学入試のテキストに採用されるぐらいですから、特に問題はないでしょうか。もちろん、外山滋比古がこの随筆全体で言おうとしていることは、「言葉が乱れてるね、言葉を大切にしようね」ってことで、別にノープロブレムです。私も国語を教えて糊口を凌いでる人間ですんで、言葉は乱れていてくれたほうが全然都合がいい*1ですし。

しかし、さすがに今回引用した部分はくらくらします。ヤバいです。

この文章を素直に読むと、「母親の教育水準が高くなると、子の絶対語感が育たなくなる」と言っているわけです。これが本当なら驚愕です。例えば、親の学歴と子供の成績に正の相関があるのはよく知られています。また、OECD各国の女子の大学進学率と、OECD/PISAによる読解力テストの成績の相関をとると、そんなに強くはありませんが正の相関が見られます。私自身の経験からも、勉強をしていない子供のほうが言葉遣いがおかしい。そういう子供が親になるのですから、外山の主張が成り立つかは大変疑問です。

もっとも、外山は文字で表される言葉と話される言葉が対立するものであると考えているようです。しかし、TOEICテストがSpeakingを実施しない言い訳として、「ListeningとSpeaking、ReadingとWritingとの相関関係について検証し、それぞれが非常に高い相関関係を示す」と公式ページに書いたように、文章言葉と話し言葉の能力には正の関係があるのが当たり前なのではないでしょうか。だいたい外山が例としてあげている2つの敬語の誤用だって、座学で勉強できる内容じゃないですか。実際、この誤用をどう正せばよいかは『予習シリーズ』でも問題として出題されています。*2

しかし、私がこの文章の真の脅威と考えるものは、その内容がトンデモだからということでは、実はありません。あまりに文章が「上手すぎる」ことです。私はさきほど、この文章を「母親の教育水準が高くなると、子の絶対語感が育たなくなる」と要約しました。こうやって仮定と結論を無造作につなげてみるといろいろ反論できます。しかし、では、最初の引用文に戻って、議論のどこに誤りがあるか指摘せよと言われると、私などは少々考えないといけません。

例えば、外山滋比古は、「無学な母親」→「むずかしい文章を読まない」→「語り部」→「話すことばを大事にする」→「子の口のきき方をしかる」→「子に絶対語感が身につく」というふうに議論を展開します。実になめらかです。例えば、「語り部」という部分を飛ばして、「むずかしい文章を読まないから、話すことばを大事にする」とつなげてしまうと、「えっ?」と眉根を寄せたくなります。その違和感を、「語り部」という接ぎ穂をさしはさむことで、さらりと流しさっていきます。この手練が外山滋比古の文章の醍醐味です。

このように、ある主張を、比喩や具体例で次々に言いかえいくことは文章の常套です。外山滋比古は、離れすぎず近すぎず、絶妙の間合いで論理の間隙をひょいひょいと飛びこえていき、気がつくととんでもない結論にまで至っているのです。しびれます。

しかし、これは所詮、比喩でしかありません。「母親」は「語り部」ではないし、「話すことばを大事にする」のに「無学」である必要はないのです。また、これは所詮、具体例でしかありません。「絶対語感はしっかり身につけていた人」も一部にはいるかもしれませんが、みんながそうかどうかについては、何の保証もありません。

もちろん、この文章は論説文ではなく随筆です。そして、この世のほとんどすべての文章は、この文章のように論理的ギャップを果敢に飛びこえて結論にいたるわけで、それは今私が書いている文章とて例外ではありません。例外があるとすれば、数学の証明ぐらいではないでしょうか。その大胆さの中に文章の味わいが現れます。

ですが、この文章は中学受験問題集に掲載されているのです。これはかなり危ういと思いませんか。読者は小学生です。この文章の内容を批判的に読める小学生はそんなにいないでしょう。

脳ミソがまだ柔らかい時期に、「女は馬鹿でいい」「高学歴女は母親にむいていない」と言わんばかりの思考パターンを、子供たちは刷り込まれているわけです。それも、外山滋比古という攻撃力255はありそうな文章の手練によって、骨のスキマからすーっと脳に日本刀が差し込まれるように。

せめて、同じく国語によって培われた論理的思考力によって、いつかこの文章が相対化できる日が、彼ら・彼女らに来ることを願ってやみません。

*1:明治時代には「全然」は肯定表現に使われていました。夏目漱石「全然破れてしまった」、芥川龍之介「全然孤立してゐる」などの用例があります。もっとも現在では「最近の若いモンは正しい言葉遣いを知らん」と言われてしまう使い方になってしまいました。

*2:模範解答では、それぞれ「△△さん、いらっしゃいましたら……」「ご本をいただきました」と直します。