あなたに価値はありますか?、人間の不完全性定理、振り向かないこと

「若者は若さの価値に気づいていない」とはよく言われるところです。しかし、それはいったいなぜなんでしょうか? 今日は、人間が自分の価値に気づくことが、はたして可能なのかについて考えます。

  新しい刃     安西均

むすこが たどたどしい手つきで
新しいカミソリを使っている
初めておとなに変装するので
儀式かなんぞのように両肘を張って
気むずかしく脇目もふりません
こめかみに 小鳥の舌ほどの血が
拭いても拭いても垂れるので
ちょっと びっくりしています
彼の内部で何が傷ついたのでしょう
はだかの背が 皮のむけた樹の幹みたいに
まぶしく濡れています
むすこには聞こえないようですが
その若い幹のあたりで
小鳥たちがいっせいに さえずっています
彼には見えないようですが
鏡の中では潮がうねっています

安西均「機会の詩」より

成長する息子を見守る父親の詩です。「皮のむけた樹の幹」「小鳥のさえずり」「潮のうねり」にたとえられる若き命の脈動は、しかし、息子自身には「聞こえない」「見えない」とされています。若者は自分の価値が見えていない、というのです。

もちろん、ここでいう若さの価値とは、恋愛市場における商品価値のことではありません。若さの経済的な価値であれば、それを自覚していない若者は、特に女の子には、少ないのではないでしょうか。ここでいう若さの価値とは、オッサン臭いと言いますか、説教くさいと言いますか、そっち系の話でございます。

例えば、作家の宮本百合子は「悔なき青春を」と題した文章の中で、「下らないエロ雑誌に刺戟されて、働く若い人たちが人間としてならずもののような無責任な男女関係に入ることはあんまり青春の価値を知らなすぎます。」と書き、若者たちを糾弾しています。本当に最近の若者はけしからんですね! ちなみにこの文章が発表されたのは、1948年です。

宇宙刑事ギャバン」の主題歌に「若さ、若さってなんだ? 振り向かないことさ」とあるのはけだし至言です。とはいえ、大人ほどではないにせよ、若者とて振り返る価値のある過去はあるのではないでしょうか。しかし、それをしないのが若さであると、この歌は教えています。ちなみにこの歌によれば「愛ってなんだ? ためらわないことさ」だそうでして、いや、それは愛じゃないと思うんですが。

山口県光市の母子殺害事件の、事件当時18歳だった被告に関する共同通信の記事で、この被告のことを「元少年」と表現しているのは、面白いと思いました。かつて少年でなかった男性などおりますまい。おそらく、これは、この記事中で弁護士が「ようやく事実と向き合い、反省している」と述べたことと呼応しています。「少年」だった当時は事実と向き合うことができなかったが今は違う、そういう記者の思いが「元少年」という言葉を選ばせたのでしょう。

白川静漢字百話』によれば、「若」という漢字は、神霊の憑坐よりまし(神が降りてくる相手)となった若い巫女が、髪をふり乱し、もろ手を上げて狂乱する姿。下においてある口は、「のりと」(神器)であると説明されています。とすれば、「若」とは、もうその字の出自からして、自分自身に対する内省を欠く宿命にあると言えそうです。

早い話、若者には自分が見えていないのです。おのれの未熟さが見えていないのは、まあ分かるような気もします。シャア曰く「認めたくないものだな。自分自身の、若さ故の過ちというものを」というわけです。しかし、若さのきらめきすら目に入らないというのは、どういうことなんでしょうか? 「若いってそういうことでしょ?」「ぼうやだからさ」などと片付けず、もう少し考えてみることにします。

「若者は自分の価値に気づいていない」ということなんですが、ではいったい若者は何に価値を見出しているのでしょうか。自分の記憶をさかのぼって、ふと愕然としますが、それはやっぱり「大人」だったのではないか。大人の経験が、自信が、洗練が、洞察が、若き自分には価値あるものとして写っていたのではないか。ということは、今の自分は、あの頃の自分が憧れていた存在なわけです。ああ、ごめんなさいごめんなさい。

ということは、私は思うのですが、「若者は自分の価値に気づいていない」という主張は正しいものの、真実の半分でしかない。正しくは、「人間は自分の価値に気づいていない」ということではないのでしょうか。「本当に大切なものは目に見えない」(星の王子さま)。それは自分自身の価値にあっても、同様なのではないか。

「生きてるだけで丸もうけ」とは明石家さんま座右の銘ですが、まったくその通りだ、と思うものの、普段の生活において「自分が生きている」ということを素直に喜べる人はいないのではないでしょうか。日本語で「私が生まれる」、英語なら"I was born."。「自分がこの世界に誕生した」という、これ以上価値のある出来事などないはずのことですら、人間は受動態で理解するのです。「生まれる」は「生む」の受け身の形になっています。

私は以前、「「幸福とは何か」、幸福のパラドックス、答えられない問い」というエントリを書きました。そこで、私は「「幸福」を人間は理解できない」「「幸福とは何か」という質問には納得できる答えはない」ということを書きました。そのこととかぶる内容です。人間は、自分の価値が理解できないように生まれついているのではないか。

「若者は若さの価値に気づいていないッ」と、若者だけがひとえに責められるのは、一つには単に大人のほうが声が大きいから。そして、人は、あとに考えたほうを真実の考えだと思うからでしょう。しかし、大人だって自分の価値に気づいていないのだと私は思います。

人間にはだれしも価値があります。どんなに自分はダメだ愚かだと思ったとしても、必ず人間には価値がある。しかし、それは自分の目からは見えない。

私はこのことが世界の本質に属することがらだと思います。それは、ゲーデルの不完全性定理があるからです。技術的な詳細は重要ではないので、この定理の意味するところを寓話的に紹介します。

遠い未来、科学が進歩して、とても優秀なロボットが生まれました。このロボットは、さまざまな問題を解決する知性をそなえていました。ある日、ロボットは自分の知能がどのように設計されたかを教えられます。人間がニューロンの発火現象でものを考えるように、ロボットは自分のCPUの最奥部でどんな演算が行われているかを知ります。そこで、ロボットは考えます。自分の思考が矛盾した結論を出すことはないのだろうか? Aであり、同時に、Aでない、などといった馬鹿げたことを言い出す可能性はないのだろうか? はたして、自分は正常なのだろうか? さて、ロボットはどう答えるでしょう?

ゲーデル不完全性定理によると答えはこうです。「もしこのロボットが正常であるなら、ロボットは『自分は正常なのだろうか?』という質問にyesと答えることは、けっして出来ない」。これは数学的に完全に証明された定理です。

おそらく人間も同じです。「正しく思考する人間は、自分の正しさを確信できない」のです。あるいは「本当に幸福な人間は、今の自分が幸福だと感じることはできない」(幸福のパラドクス)。あるいは「本当に価値のある人間は、自分自身の価値に気づくことはできない」。

ところで面白いことに、さきほどの話で、ロボットが正常でない(矛盾している)とすると、ロボットは、「自分は正常か?」という質問にyesと答えることが可能になります。これは、なかなか勇気づけられる話ではないでしょうか。価値のない人間だけが、「自分には価値がある」と言えるのです。自分に確信をもてないとしたら、そのことこそが、自分という存在の価値の現れなのです。