吹風日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006年6月24日 アローの不可能性定理、独裁者エルメス、正しい選択は存在しない このエントリーを含むブックマーク

さまざまな候補の中から一つのものを選ぶとき、合理的な選び方は存在するのでしょうか? 今日は、「アローの不可能性定理」という脅威の定理をもとに、人生で何事かを選ぶときに、最も重要なことは何なのかについて考えます。

 ねずみの、むすめをまうけて、天下にならびなき婿むこをとらんと、おほけなく思ひくはだて、日天子こそ世を照らし給ふ徳、めでたけれと思ひて、朝日の出で給ふに、「女ももちて候ふ。みめかたちなだらかに候ふ。まゐらせん。」と申すに、「我は世間を照らす徳あれども、雲にあひぬれば光もなくなるなり。雲を婿にとれ。」と仰せられければ、誠にと思ひて、黒き雲の見ゆるにあひて、このよし申すに、「我は日の光をもかくす徳あれども、風に吹きたてられぬれば、何にてもなし。風を婿にせよ。」と言ふ。さもと思ひて、山風の吹けるに向きて、このよしを申すに、「我は雲をも吹き、草木をも吹きなびかす徳あれども、築地ついぢにあひぬれば力なきなり。築地を婿にせよ。」と言ふ。げにと思ひて、築地にこのよしを言ふに、「我は風にて動かぬ徳あれども、鼠に掘らるる時、たへがたきなり。」と言ひければ、さては、鼠は何にもすぐれたるとて、鼠を婿にとりけり。

『沙石集』より

いやあ、面白い。最高です。大意をとっておきます。

あるねずみが娘のために、分不相応にも、天下一のおむこさんを探そうとした。まずは、太陽こそ最高だと思い、朝日にむかって「娘をさしあげます。美人ですよ!」と言ったら、太陽は「いや、オレ雲に隠されると光れないから」と言われた。そこで雲に話をすると、「いや、オレ風に吹かれたら何もできないから」と言うし、風はというと「いや、オレ壁には勝てないから」と言う。最後に壁に話をすると、壁は「いや、オレねずみに掘られると耐えられないから」と言うので、なるほど、ねずみが最高なんだ、と思って、結局、ねずみをおむこさんにとった。

この話の魅力は、「風が吹けば桶屋が儲かる」*1式に次々におむこさん候補が変わっていくスピード感、あるいはチルチルとミチルの「青い鳥」のような寓話っぽさなど、いろいろあるわけですが、私には、娘のために奔走する父親ねずみの可愛らしさが実に捨てがたく思われます。

さて、ここで、あなたが父親ねずみだったとしまして、娘のために最高のおむこさんを選ぼうとしている、と思ってください。みんなの意見をもとに「理想の男性」を選ぶのです。そこで、あなたは、たくさんの人にインタビューをして、それぞれの「理想の男性、2番手の男性、3番手の男性……」を聞き、その結果をもとに「理想の男性総合ランキング」をつくることにしました。

娘のためには、できるだけしっかりしたランキングをつくりたいところです。そのためには、どんな条件が必要でしょうか?

まず、どんな意見が出ても、それを無視せずにランキングに反映させることが必要でしょう。オヤジの好みを娘に押しつけては、嫌われるかもしれません。どんな好みが出てきても「それはありえない」とは言わないことにします。

それから、意見を聞いた全員が、男性Aより男性Bのほうがいい男だと答えたとしたら、「理想の男性」ランキングでもAよりBのほうが上位にくるべきです。当たり前ですね。

また、ある2人のランクづけを考えるときは、その2人以外の男性のランクについては考えないことにします。言いかえると、ある2人の優劣を決めるときは、それ以外の人間を無視して考えるのです。「ワールドカップ中田英寿が評価を上げているようだから、レイザーラモンHGの順位も上げておくか……」というような第三者の影響は考えません。

さらに、だれかある人の意見だけをうのみにするのはよくないでしょう。もちろん、ある人の好みと最終結論が「たまたま」一致するのはかまいません。しかし、あるエライ人がいて、まわりの人がどんなに反対意見を出しても、その人の好みと最終ランキングが一致してしまう、というのでは、公平なランキングとは言えませんね。このような、最終結果を一人で決めてしまう人を「独裁者」と呼びます。なんだか変な言い方ですが、そういう習慣ですので我慢してください。「独裁者」がいないこと、これも当然の条件でしょう。

どれも当たり前の条件ですね。さて、このような条件のもとで、父親ねずみは、「理想の男性総合ランキング」をつくりたいと思っています。候補者が2人なら簡単です。多数決を取れば終了です。3人以上の場合も同じようなことができるでしょうか? はたして、「理想の男性総合ランキング」をつくる方法は存在するのでしょうか?

答えは、存在しない、です。これを、アローの不可能性定理と言います。この衝撃的な定理について、以下、解説いたします。

まず、父親ねずみがみんなの意見を聞いてまわったところ、ある一人の男性の評価が圧倒的に低く、全員から最低評価をもらっていたとします。その男性を、とりあえず「電車男」と呼ぶことにしましょう。このとき、当然ですが、「電車男」は、総合ランキングでも最下位です。

ところが、ある事件がおきまして「電車男」が見直されはじめたとします。その事件を知った人たちが、次々に、「電車男」の評価を、最低ランクから最高ランクに変えていったのです。こうして、「電車男」は少しずつブレイクしまして、ついに、ある一人の女性が彼への評価を最低から最高にあげた瞬間に、「電車男」は総合ランキング最下位を脱出したとします。

その女性を「エルメス」と呼ぶことにします。あとで証明しますが、彼女は「独裁者」です。

さて、「電車男」が最下位を脱出した瞬間、だれかが最下位に転落しているはずです。そいつを「酔っ払い」と呼ぶことにします。「電車男」と「酔っ払い」の関係だけに注目すると、「エルメス」のランキングが「酔っ払い>電車男」から「電車男>酔っ払い」に変わった瞬間、総合ランキングでも「電車男>酔っ払い」に変化したということになります。

ところが、よく考えてみると、「電車男」に対する「エルメス」の評価は最下位から最上位に上がったのですから、この「電車男」のランキングの変化のしかたは「酔っ払い」に対してだけでなく、それ以外の人に対しても、まったく同じはずです。ここで、「ある2人の優劣を決めるときは、その2人以外を全員無視して考えてよい」という条件があったことを思い出してください。ということで、総合ランキングにおいて、「電車男」は「酔っ払い」を抜きさるだけでなく、それ以外の全員を一気に抜いてしまいます。

すなわち、「電車男」は、「エルメス」に認められた瞬間、総合ランキング1位に踊り出るということです。

さて、ここまでは「エルメス」が一気に電車男に惚れた(最下位→最上位になった)と考えたわけですが、これではドラマになりませんね。こんどは「エルメス」の気持ちが中途半端な状態を考えてみます。例えば、「ひろゆき」と「としあき」という2人の男性がいまして、「エルメス」は「ひろゆき」のほうが好ましいと思っていたとします。さあ、そこに、「電車男」が入ってきて、「エルメス」の個人ランキングが「ひろゆき>電車男>としあき」になったとします。このとき、総合ランキングはどうなるでしょうか?

「電車男」と「ひろゆき」の関係だけに注目してみます。このときの「エルメス」の評価は「ひろゆき>電車男」です。「電車男」は「エルメス」に認められるまでは総合ランキング最下位だったわけですから、この状態では当然「ひろゆき」に勝つことでできません。総合ランキングは、「ひろゆき>電車男」となっているはずです。

同じことを「電車男」と「としあき」について考えてみると、総合ランキングのほうも「電車男>としあき」となることが分かります。ということは、総合ランキングは「ひろゆき>電車男>としあき」となりまして、「電車男」がいなければ「ひろゆき>としあき」です。

この結論は重大です。これは、「エルメス」の個人ランキングで「ひろゆき>としあき」だったとしたら、総合ランキングでも「ひろゆき>としあき」でなければならない、ということです。「ひろゆき」とか「としあき」とか名前をつけていますが、別にどの男性についても話は同じです。すなわち、「エルメス」の個人的な好みが総合ランキングを支配してしまうということです! 彼女は「独裁者」でした!

ここに父親ねずみの野望は頓挫いたします。彼は、みんなの意見を取り入れた「総合ランキング」をつくりたかったのに、ある一人の独裁者の意見に、どうあがいても一致してしまうのです。

今お話したことが、大ざっぱに、「アローの不可能性定理」と呼ばれるものです。より、きちんとした言葉での簡明な説明は、KODAMA Satoshiさんの「哲学・倫理学用語集」の「アローの定理」の項を、上記の証明でごまかしたところは、tazumaさんのブログ「Essay, dated.」の2006-04-182006-04-22の記事を見てください。

まとめておきます。どのやり方がいいかを決めるために、「個人の意見」を集めて「みんなの意見」をつくろうとしています。このとき、次の性質をすべて満たすことはできません。

  • どんな意見も許される。
  • ある2つのやり方のどちらがいいかについて、「個人の意見」が全員一致したら、「みんなの意見」もそれと同じになる。
  • ある2つのやり方のどちらがいいかについての「みんなの意見」をつくるときに、その2つのやり方以外のやり方については、考える必要がない。
  • だれか一人の「個人の意見」と、「みんなの意見」が、いつも同じになるということがあってはいけない。

このことは、大ざっぱに言うと、みんなの意見を集めて何かを決める、民主的かつ合理的なやり方はない、といういうことです。驚異、いや脅威的な定理ですね。

はてさて、ねずみの父親はどうやってこのピンチを乗りこえたのでしょうか? 彼の選択過程を見ると、上記の4つの条件が破られた形跡はありません。

実は、アローの不可能性定理には、ここではわざわざ書かなかった前提があるのです。それは、選択が推移的だということです。すなわち、A君がB君よりいい男で、B君がC君よりいい男ならば、A君はC君よりいい男である、というものです。ったり前ですね。しかし、父親ねずみの話をよく読んでみると、この前提が破れていることが分かります。

彼は最初、「天下にならびなき」おむこさんとして太陽を選びました。この時点で、ふつうのねずみより太陽のほうがいい男だ、と父親ねずみは考えているはずです。ところが最終的に、ねずみが最もいい男だという結論になっています。普通の論理からすればめちゃくちゃです。

しかし、この話は人生に対して重要な示唆を与えているように私には思えます。我々の人生には無数の選択肢があります。その中から「最もよい」選択肢をさがさなくてはいけません。しかし、ほとんどの場合、単一の評価基準で選ぶことはできないでしょう。人間はさまざなな顔をもっていいます。動物的な欲望を求める自分、社会人としての自分、家族の一員としての自分、だれかの恋人としての自分……。

かくして、たった一人で選択をするときですら、アローの不可能性定理が成立します。ですから、自分が「最もよい」選択肢を選んだ保証、などというものはハナっからないのです。自分の選択に、正当性とか合理性とかいうものを求めても無駄です。その選択が「正解」だから信じるのではなく、その選択が「正解」であると、根拠もなく確信できたものにだけ、それは「正解」となるのです。

父親ねずみは、太陽・雲・風・壁など、さまざまな存在たちと話をする中で、その確信を深めました。彼の選択を非論理的に感じつつも、それでもこののち、ねずみ一家は幸福になるであろうと我々が予感するのは、父親ねずみの行動が「論理」を越えたレベルで「正しい」からだと思います。

*1:ところで「風が吹けば桶屋が儲かる」って、「風が吹く」→「桶ふっとんで大破」→「桶屋が儲かる」じゃダメなんですかね?