2006年8月24日 ギャンブルに「流れ」はあるか、物語を作る生き物、煮つめられた人生 
例えば、麻雀をやっていると「ツイてる」とか「ツカない」という感覚に襲われることがあります。「流れ」。はたして、そんなものは存在するのでしょうか。今日は、人間に「流れ」が見えてしまうことの意味について考えます。
賭博 という、冷静に考えれば損にきまっている遊びが、しばしば人々を夢中にさせるのは、そこにいわば煮つめられた人生があるからでしょう。偶然というか、運というか、あるいはつきとよぶか、ともかくそれを支配する、眼にの見えぬ何かにいどみ、金銭というはっきりした形で勝ちをしめようとするとき、人は人生の大事を決行するときに似た、
戦慄 と快感を味わうはずで、この日常生活では得られぬ充実した生の感覚が(たとえ本当は偽物であっても)賭博の最大の魅力なのでしょう。( 中村光夫『知人多逝』
まずは次のサンプルデータを見てください。これは、○と●がほぼ同数出現するように、乱数を使って作成した200個のデータです。101個の○と、99個の●を含んでいます。
【サンプルデータA】
○○●○○●○●●●○○○○●●●○○○●○●○○○○●●○●○○●○●○●●●○○●○●●○●○●●○●●○○○○●●●●●○●○●○○●○●○●○○●○○●●○●○○●●○●●○●○○●●○●○●○●○●●●○●●○●○●○●●○●●○●○○●○○○○○●●○○●○●○○●○●○○●●●○○●○●●○●○●○○○●○●○○●●○●●○●○●○○○●○○●○●○○●●○●○●○●●●●●○●○●
○や●に大きな偏りがなく、まんべんなくバラけているのが見てとれると思います。これは今日の話の基点となるデータなので、よく観察しておいてください。
さて、今日のテーマは、ギャンブルに「流れ」はあるか? です。
ここでは、「流れ」という言葉を、「ある現象が極端に連続すること」というような意味で使うことにします。例えば、先ほどのデータで言うと、○や●が連続で出現するような現象ですね。上のデータはプログラムによって作成したので、極端な好調も不調も見られませんが、現実にはどうなのか? ということです。
「流れ」という言葉は、ギャンブル、例えば、麻雀でよく使われます。麻雀漫画の至宝、片山まさゆき『ノーマーク爆牌党』から例を取りましょう。この劇中で、主人公が「流れ」について論じているシーンがありました。
主人公は、次のように語ります。赤と緑のビーズ玉をよく混ぜてビンに入れる。このとき、赤と緑は、きれいに混ざるだろうか? いや、ところどころに「ダンゴ」ができるはずだ。その色のかたまりこそが「流れ」であり、自分がどの「かたまり」の中にいるかをつかむことが「流れ」を読む、ということである。
なるほど、「色のかたまり」=「流れ」ですか。
そのことを具体的に考えてみるために、さきほど見たデータAから少し生成ルールを変更してつくったデータBを見てください。こちらにはちょうど100個ずつの○と●があります。
【サンプルデータB】
○○●○○●●●●●●●○●●●○○●○●○○●○●●●○●●○●○●○○○○○○○○●○●○●○○○●●●●●○●●○○●●○○●○○○○●○●○●●●○○●○○○●○○○○○○●●○○○●●●●●●●●○○○●○○○●●●○●●●○●○○○●●●●●○○●○●●●○●●○○○●○●●○○○●●●○○●●●○●●○○○○○●○●○○○●●○●○●●●●●●○●○●●○○○○●○●○●○●○●○○
データAと比べて、こちらのデータBのほうには、かなり明確な「流れ」を感じると思いますが、いかがでしょうか? ぱっと見て、「連勝」や「連敗」がとてもたくさん現れていると感じるでしょう。じっくりながめて、「好調期」や「不調期」などの「偏り」を探してみてください。
では、この「色のかたまり」はどうして生まれたのか?
タネ明かしをしますと、さっき見たデータは、わざと「前のデータの影響を受ける」ような乱数を使ったんですね。直前が○●のどちらなのかによって、次に出る○●の確率が変化するようにしたのです。だから、データBは、データAに比べて「流れ」がはっきりあるように見えるのです。
要するに、非常に偏った、通常ではありえない配列だったのです。データAは。
え? 書き間違い? 「偏っていたのはデータBだろ」ですって? いや、間違ってないですよ。偏っていたのは、データA、最初に見たほうです。
最初に見たデータAは、直前が○だと次は●の出現確率が高くなり、逆に直前が●だと次は○の出現確率が高くなる、すなわち、「流れ」をわざとぶった切るような法則で作成したデータです。一方、あとに見たデータBのほうは、単純に2分の1の確率で○と●が出現している、真の意味でランダムなデータ列です。
ここで、「えー!?」という反応があると嬉しいのですが、ど、どうでしょうか? わざと紛らわしい書き方をして、すいませんでした。でも、嘘は書いていませんよ。
ちょっと言葉を一個、定義しますね。データ列の中で、「○のあとに●」または「●のあとに○」が来たとき、「チェンジ」と呼ぶことにします。ランダムデータの場合、チェンジする確率は当然2分の1です。200回のデータ列の場合、チェンジが生じる可能性がある場所は、全部で199箇所あります。
データAでは、129回のチェンジが行われています。2分の1の確率で生じる出来事が、199回中129回以上起こる確率は、およそ0.0015%です。最初に見ていただいたサンプルAは、そのぐらいありえない偏りをもったデータなのでした。ここまで、「流れのない」データが偶然発生するのは、奇跡に近いです。
一方で、データBのチェンジの回数は、101回です。ほぼ理論平均値通りです。要するに、データBは、「流れ」のあるなしで見た場合、完璧なまでに平均的なデータなのです。
ところが、多くの人は、データAのほうが、データBより「まんべんなくバラまかれている」「ランダムである」と感じると思います。ちなみに、聞くところによれば、人間に手でランダムなデータ列を書かせると、データAに近いものを書くそうです。
さて、いったい何が起きているか? ここで生じたことを一般化して書けば次のようになるでしょう。
人間は、ランダムなデータに偏りを見る生き物である。
要するに、人間は、ただのランダムなデータ列を見ると、そこに「流れ」を読んでしまう、ということです。
「最近、〜を見ることが多くなった」という感慨を、我々はよくもちます。そのうちのいくつかは真実であるかもしれませんが、実はほとんどは単なる偶然の偏りなのかもしれません。なにを馬鹿な! 明らかに、〜が増えているだろうが! そうでしょうか? 我々は、単なるランダムデータに「流れ」を見てしまう生き物なのです。なんか、自信がもてません。
では、最初の質問の答えはどうなるのでしょうか? 「流れ」ははたして存在するのか? 私の答えは、「イエス」です。「流れ」は存在します。
存在するに決まってるじゃないですか。だって、実際みなさんにも「見える」でしょう。もう一度、データAとデータBを見てください。明らかに、データBには「流れ」が「見えます」。見えるものは存在するに決まってます! サンタですら存在するのですから、「流れ」が存在しないわけがありません。
では、なぜ、人間には「流れ」が見えるのでしょうか?
さきほどのデータBには「8連勝」(○の8個連続)が1回登場します。「ある8回中に○が8個続く確率」は、256分の1ですから、これは発生確率0.4%程度の大きな「偏り」です。自分の高校が甲子園でベスト16になるぐらいの確率です。
それでは、「200回中に○が8個続く部分が1回でもある確率」はどのぐらいでしょうか? 計算機に10万回ほど実験させてみたところ、およそ32%ぐらいのようです。別にめずらしくもなんともない出来事でした。
さらに、そもそも数学的には、「8連勝」する確率も、「○●○○●○●●」というパターンになる確率も別に違いはありません。ただ、人間の側が「○○○○○○○○」というならび方を特別あつかいしているだけです。
すなわち、人間に「流れ」が見える、ということの意味は、人間には、この「8連勝」という「特別な」出来事を、200個ならんだデータ列の中から一瞬で見つけだす力がある、ということに他なりません。
この能力。ランダムに発生する大量の出来事の中から、ある一部分を切りとり、それに意味づけをする能力。これは「物語をつくる」能力といえるのではないでしょうか。すなわち、さきほどの主張は次のように書き直すことができます。
人間は、物語を作る生き物である。
したがって、「流れ」はあるか? という質問は、つまるところ、こう聞いているのと同じです。「物語」はあるか? そんなもんあるに決まってます。我々人間にとって、世界とは、単なる事実の集積では断じてない。それは、無数の「物語」によって意味づけされて、初めて世界となるのです。
ですから、「流れ」を読めば麻雀の勝率が上がるのか? などという問いは愚問です。我々は、勝つために「流れ」を読んでいるのではなく、「物語」をつくろうとして「流れ」を読むのです。いや、あの、勝つために「流れ」を読んでいる人もいらっしゃるようですが、その、なんというか、えー、がんばってください。
ところで、もし「流れ」を読むことが、「物語る」ことであり、それが「出来事の中から、一部分を切りとり、それに意味づけする」ことであるという私の考えが正しいのであれば、「流れ」は過去にのみ存在するということになります。
「流れ」は常に過去形で語られる、ということです。キーワードは「やっぱり」です。
さて、「麻雀における流れ」というネタでは、やはり、この方を紹介しないわけにはいきません。麻雀研究家、という肩書きでいいんですかね、とつげき東北さんです。そのHPは、麻雀に強くなりたい方は必見。とりあえず一つだけ読むなら「最強水準になるための麻雀講座:技術的精神論」を推します。
とつげき東北さんの著書『科学する麻雀』のあと書きにこんなことが書いてあります。いわく「『ムダなものにいかに全力を注ぐか』が人生においてもっとも大切なことである」。
『科学する麻雀』というタイトルで想像できると思いますが、この人は「麻雀に流れなんてない」という立場です。そういう、一見バリバリの合理論者、麻雀戦術書に数式が飛びかっているような人が、なぜこんなことを書くのでしょうか。
私はこんなふうに思います。意味づけをする、物語をつくることは、対象が「ムダなもの」であればあるほど楽しいのです。彼は、いわゆる「流れ」という凡庸な物語では満足できず、麻雀を使った、もっと豊かな物語をつくろうとしたのだ、と。
要するに、我々が「生きる」というのは、つまるところ「物語をつくる」ということなのではないでしょうか。だから、冒頭に引用した文章で中村光夫は、賭博の魅力を「煮つめられた人生」「充実した生の感覚」と呼んだのだろうと思います。そういう意味では、ランダムな配列に「流れ」を読んでしまう、というのは、人間の一つのいとおしさではないかと、私には思われます。
また、数学的に見ると、勝率二分の一のゲームの場合、負けるたびに、前回の二倍のチップをかけていけばマイナスになりません。問題は、鼠算式に増える掛け金が持ち金をすぐに超えることです。大金持ちなら負けない、か。
プログラムを組んでみました
●が12個連続して出ましたww
tanahataさん、カウンティングの話、ではないようですね。理論的には、バカラのカウンティングでは、ポジティブエッジ(ギャンブラーに有利な状態)になっても0.1%程度のリターンしかなかったと記憶しています。それから、後段の「マーチンゲール法」に関しては、萌え理論Blogさんのエントリhttp://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060515/p3が、だいたい私の考えと同じです。
7743さん、あそこで「えー!?」と反応していただけると、作者冥利につきます。ところで、●12個連続というと4096分の1ですか。今、ざっとシュミレーションしてみたら、200回中だと、発生確率約2.3%ですね。○が12個連続でも同じように驚いたでしょうから、だいたい確率4.5%程度の異常です。なかなかの「ヒキ」ですね。
もし仮にそれが擬似乱数によるものであるのなら,真の意味でのランダム性とは言うことができないはずです.
文章がひっかかったので質問させていただきました.
あと,最低でも,Aはソースを,Bは生成法を公開しないと追試ができないので,フェアではないと思います.
論文でもなんでもないので,そこまでする必要があるのかという考えもわかりますけどね.
文章の趣旨自体には概ね同意します.
なお、ソース公開は別に不要ではないですか? ソースを読めるような人ならば、御自身でワンライナーでも書いて追試すれば、ただちに本エントリのごとき結果を得られると思います。ちなみに、データAは、○の直後は●が65%、○が35%の確率で出現する(●のあとはその反対)ように生成し、○と●がほぼ同数になったものを取りました。
それでも「流れを読んでギャンブルに勝つ」というギャンブラーを見ることが多い(偶然の偏りなのかもしれませんが)のは何故なんでしょうか。私はギャンブルを良く知らないのですが、私の知らない奥深い何かがあるんでしょうか。
ところで今回の「物語」のくだりですが,心理学者のやまだようこさんは従来の物語論の流れを整理した上で,物語を「2つ以上の出来事を結びつけて筋立てる行為」と定義しています。偏りに興味を示すというのはあくまで「意味づけ」であって,もう1つ先に「物語る行為」があるのではと感じました。厳密な検証は難しいでしょうけどね。個人的に,勝手に因果関係を見出すのが物語る行為であると理解してます。
このあたりの議論は恐らく完全に理解しておられると思いますが,文章に少し違和感を抱いたのでコメントさせていただきました。あしからず。
・確率的に言えば、どんなにデタラメな賭け方でも、運のみで平均より高い収益を上げる人というのは必ず出るわけです。その人たちは、過去の自分の賭け方が成功していると考えるでしょう。
・自分の過去の成績のうち、成功したものだけを記憶して「ギャンブルのうまい自分」という「物語」をつくってしまうのかもしれません。「流れ」を生んだメカニズムと同じです。
・実はそのギャンブラー「流れ」以外の要素を使って勝っているのだけれど、その情報処理の過程が無意識下で行われており、それを言語化するときに「流れ」という言葉を使って説明している、という可能性もあります。
・最後に、「流れ」は存在し、それを読める人がいる。
おっしゃるとおり、私の「物語」という言葉の使い方はかなり雑です。このあたりをきちんと理論化するというのは、そうとう面白そうです。その意味では、門外漢には「心理学者のやまだようこ」などのタームは非常に貴重でして、実にありがたいです。
で、「勝手に因果関係を見出すのが物語る行為である」ということですが、確かに麻雀で「流れが悪い」という言い方がされるときは、同時に、「前局のフリコミが原因だ」などの因果関係が推定されることが多いようです。ゲームのプレイヤーにとっては、ただ「流れが悪い」と言っていてもしょうがなくて、それを変える手段があって初めてこの言葉は意味をもつわけですから、因果関係のない「流れ」は存在しない、と言っていいかもしれません。
・ある一部分を切りとり、それに意味づけをする能力。これは「物語をつくる」能力<MrJohnny
・2つ以上の出来事を結びつけて筋立てる行為<やまだようこ(koheko)
■例「出目が三回以上続く、これは偏りだ。」
・「出目が三回以上続く」<「ある一部分を切りとり」「2つ以上の出来事を結びつけて」
・「これは偏りだ。」<「意味づけをする」「筋立てる行為」
■「筋立てる」というのはストーリー化だが? 「意味づけ」「筋立て」に差異が?
やまだようこは意味を与えてもストーリーにならないと観るか? やまだようこは物語に思い入れがある、MrJohnnyさんより、ということか。あるいは、もう一層砕くと反論(底まで砕いたらストーリーではない)が増えてうっとうしいと判断したか。
でも、「結びつけて」しまったということは「意味づけ」であり、「結びつけて」しまった時点ですでに「物語」が発生してしまっていると砕天も考えるのだが。
* * *
■“●”“○”200個くらいのサンプルで擬似乱数と真の乱数の見分けはつかない。
■サンプルAとサンプルBを並べ乱数を論じればAは操作されていることが自明。しかも、操作の仕方も詳細は不明ながら見当がつく。
※ソースは不要。この程度の乱数の性質をソースがわかる人に説明する必要はない。さらに、この程度の処理の詳細すなわちソースまで書く必要もない。もしリンクで別枠としてソース提示されていても一般向け読み物としては「なんだ、そんな小難しい話か」となるので不可、再提出だ。
◆真の乱数? ありえない。いやいやいやいや、ありえなくてもサンプルBを現実のモデルとして際立てるためには「真の乱数」以外の言葉はダメだな。
* * *
どうも人様に読んでいただくための文章技法にかかわりがありそうだ。想定読者とずれていると違和感が発生する。歌が下手だと耳障りで歌詞が耳について売れたりするのと同様、違和感で読者を釣るというのもありだ。
読者が考えている印象は実は違うのかもしれない、方向を変えたら、もうひとつ掘り下げたら、というのがMrJohnnyさんのエントリの大きな「釣り」の仕掛け。
で、そのうえで、違う切り口や詳細補足のコメントがあると面白くて、接続コストパフォーマンスが上がって満足感が上がる。トラックバックはコストパフォーマンスが悪いので読まないけどね。
「釣り」ができるのが書き巧者、意識せず「釣り」が書き慣れ、「釣り」と読み楽しめるのが読み巧者。
「真の」という表現ですが,わかってる人間はいいのですが,わかっていない人間が誤解してしまうのがあれだなあと思い,一応言わせてもらいました.
本当に真の乱数としてやろうとしたら,サイコロでも振って,偶数と奇数でカウントでもするしかありませんね.
非効率極まりないですけどw
ところで、すると鏡の「左右は逆に映るのに、上下はそうならない」というのも、人が作り上げた物語という事になるんでしょうかね?これについても語って下さると嬉しいです。
「流れ=かたまり」だったはずが、いつの間にか「流れ=偏り」になっている気がします。
流れが読めるかどうかはともかく、サンプルBが平均的なら「流れ(かたまり)はある」ということになりませんか?
以前、私も全く同じテーマでコラムを書いたことがあります。
ただ文章で表現するのが思いのほか難しく、
「うまく説明できないなあ…」
と思っていたことを、見事なまでに的確に表現されていますね。
感動しました。
私が書いた駄文はこちらです。お時間があればぜひご覧ください。
http://home.att.ne.jp/zeta/gen/celljong/fc/34.htm
他のエントリーもおもしろそうなものばかりですね。
ゆっくりと読ませていただきます。
> ランダムデータであれば、 ... 次に出るものを予測することは出来ないはずですよね。
>「流れ」はあくまで、結果そうなった、というだけですし。
>
> それでも「流れを読んでギャンブルに勝つ」というギャンブラーを見ることが多い
> のは何故なんでしょうか。
御大がこのblogで言っているのはまさにそのことです。
客観的事実は「Aさんは200回コインを投げて100勝100敗した」。
ところが、Aさんの記憶(「物語」)の中では、
「35回目まではトントンだったんだけどよー、そこから8連勝だぜ!
あのときはツイていたなぁ・・・」
と、同じ確率で起きる8連敗のことも、
トータルすれば勝ち負け5分5分なこともきれいさっぱり抜け落ちて、
楽しかったこと、興奮したことのみが残っているわけです。
これが、御大の
>「流れ」は常に過去形で語られる、ということです。キーワードは「やっぱり」です。
ということです。
砕天さん、「違う切り口や詳細補足のコメント」の効用、というのは本当に実感しています。たった一人の人間が文章にどんなに厚みを与えようとしても、それは所詮、同一平面をひたすら塗りつぶすようなもの。ところが、他者のコメントってのは、別の次元に文章を立ち上げてくれるんですよ。これは、非常にありがたいです。
mosさん、おかげさまで元エントリの曖昧だった部分をだいぶ補足できました。「真の」の部分は、やはり違和感をもつ人が多いと思いますので、mosさんにコメントしていだいて助かりました。ありがとうございます。
kikori2660さん、桜井章一の言葉というのは、麻雀にではなく麻雀を打つ人間に向かってますよね。本当に興味深い人です。また、「鏡の問題」はもう本当に何人もの方によって言及されているので、屋上屋を架すのはためらってしまいますが、いつかテーマとしてみたいと思います。
夏佳さん、その通りでして、サンプルデータBには、「流れ」があります(=人間にはかたまりが見えます)。ですが、「流れ」は読めません(=次も同じ記号になる確率は2分の1です)。
武藤さん、Cell_雀は存じ上げておりました。麻雀て、ルールをコンピュータに教えるだけでも本当に大変ですし、組み合わせの爆発も起きやすいので、プログラムを完成させる方というのは尊敬いたします。他のコラムも読ませていただきました。教えていない七対子を勝手に和了する、という話が面白かったです。
kagyuuさん、フォローありがとうございます。しかし、こう「御大」と言われるとどうしても、富野由悠季監督が頭に浮かぶ私です。
そうではなく「かたまり=流れ」だとするなら、どんな物語になるのでしょうか。
「偏り」は、確率上なかなか現れない結果が出ること。
と考えています。
MrJohnnyさんのエントリの後半で
>データBには「流れ」が「見えます」
と、“見える”にわざわざ括弧をつけているので、「8連続というかたまりがある」ではなく、「8連続というかたまり(実はよくある事象)を見て、偏っている(滅多にない事象)と思ってしまう」ということを表していると解釈しました。
>ランダムに発生する大量の出来事の中から、ある一部分を切りとり、それに意味づけをする
というのは、そういうことではないのでしょうか?
また、「かたまり」なら未来形でも語ることができます。
これから200回コインを投げると、片方が連続して出現する部分ができる(可能性が高い)だろう、と。
投げた後、実際に出現した「かたまり」を見て、偏っているかのように感じてしまうから、
>「流れ」は常に過去形で語られる
ということになると思うのですが。
このような理由から、エントリの後半では「流れ=偏り」になっているのではないかと思ったしだいです。
まず、私が上記エントリ中で「流れ」としたものは、夏佳さんの言う「かたまり」とは異なり、「かたまりが生まれやすくなる傾向」のことです。すなわち、「○が何個か続いたら次も○が出やすくなる、ある不思議な力」のことを「流れ」としています。
もう一つ言い換えると、「かたまりが生まれたのには、何か理由があるはずだ」と考えてしまったとき、その「理由」にあたるものが「流れ」です。もちろん、「かたまり」は、局所的に見れば「偏り」ですが、大局的に見れば「偏り」ではないので、「かたまり」が生まれた理由などはないわけですが。
「かたまり」は、「流れ」が存在すれば必ず発生しますが、「流れ」そのものではありません。ですから、「かたまり」があったとしても、それは「流れ」の存在を示すものではありません(逆必ずしも真ならず、というやつです)。現に、人間の目は、「流れ」がまったくないランダムデータにおいても、「かたまり」を探し出すことができます。
「流れ」が「見える」という表現において、「見える」に括弧をつけたのは、「(かたまりが)見える」と「(流れが)見える」がイコールではないことを強調したかったからです。
また、「『流れ』は常に過去形で語られる」という表現は、「『流れ』に基づいた未来予測はさっぱりあてにならず、『流れ』に基づいた言明が正しいのは常に過去について語るときのみである」という内容のレトリックです。本エントリは、「流れはあるか?ないか?」というフレーム(論争)を呼ばないように、こういう直截的な言いまわしを回避しています。ご了承ください。
どうも、夏佳さんの疑問にうまく答えられているかどうか、自信がありません。何かご不審な点があれば、さらに御質問をいただければ、と思います。
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