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2006年9月15日 勉強すると叱られる、黒くなければ鴉でない、雪がとけたら春になる このエントリーを含むブックマーク

カラスを一羽も見ないでカラスについて語ることはできるか? 「雪がとければ水になる」と「雪がとければ春になる」は、何が違うのか? 今日は、論理学のトピックを紹介しながら、数学の「普遍性」について考えます。

 私は「ある時間、待ってみる力」をふるい起こすことが、子供には必要だ、といいました。それは、子供にはもちろん、大人にとっても、生きてゆくうえで、本当に難しい問題にぶつかったとき時、一応それを括弧に入れて、「ある時間」おいておく、ということなのです。そうやって、生きてゆくという大きい数式を計算し続けるのです。初めから逃げる、というのとは違います。

 そのうち、括弧のなかの問題が、自然に解けてしまうことがあります。括弧のなかの問題をBとすれば、「ある時間」待っている間も、とくに子供の時、私たちはそうしてもすっかりそれを忘れていることはできません。そうしながらも、いつも心にかかっていて、思い出されます。しかし、その苦しい時、具体的な問題や特定の人のことじゃなく、Bという記号に置きかえて、――Bがまだ解決できていないけれど、もう少し待ってみよう、と考えることにするのです。

 それだけでどんなに気持ちが軽くなるか、私は幾度も経験してきました。いまもある記号に最悪の「いじめっ子」の顔が代入できるほどです。

 そして「ある時間」たって、括弧をといてみても、まだ問題がそのままであれば、今度こそ正面からそれに立ち向かってゆかなければなりません。しかし、子供のあなたたちは、なんとかしのいだ「ある時間」のあいだに、自分が成長し、たくましくなっていることに気づくはずです。そこが数学の場合と違います。私はとくに高校のころから大学を卒業するあたりまで、そのようにやってきました。そして、現にいま、生きています。

大江健三郎「『自分の木』の下で」より

大江健三郎らしい、透明にして美しい比喩です。

確かに、数学においては、数式のある部分を「括弧に入れる」ことで計算が簡単になることがあります。方程式の両辺に同じ式が現れて消去できたり、分子と分母に同じ式が出てきて約分できたりする。人生もまた同じく、「難しい問題」を括弧に入れて置くことで、解決できることがある。

しかし、ここには数学と違う点がある、と大江健三郎は指摘します。

難しい問題を括弧に入れて計算を続けるうちに、「自分が成長し、たくましくなって」いく。だから、結局、括弧の中が消えずに残ったとしても、「今度こそ正面からそれに立ち向かって」いける。そこが数学と違う。

数学の立場から言えば、括弧の中に入れた部分が消えず残り、そのまま計算するはめになったとしたら、それは失敗です。まあ、計算の見通しがよくなったりはしたかもしれませんが、ともかく本質的な解決にはなっていない。ところが、大江健三郎は、この数学的には無意味な場合でも、人生という数式においては、ちゃんと本質的な解決になっている、というのです。

ここには、数学にはないけれど、我々の生においては確かに存在するものが、はっきり姿を見せています。それを考えるのが今日のテーマです。

話をかえまして、みなさん「対偶」という言葉をご存知ですか? あー、なんか高校のときやったかも、というぐらいの記憶はありますでしょうか。

簡単におさらいしましょう。「星が見えるなら、夜である」というような「Pならば、Qだ」という形の文章を考えます。今、「夜でない」状態だったとしましょう。「星が見える」のなら必ず「夜である」のですから、今「夜でない」のなら「星は見えない」はずですね。ということは、「夜でなければ、星は見えない」ことが分かります。……あったり前ですな。

これを一般化すると、「Pならば、Qだ」という命題(真偽のはっきりした主張)が成り立つときは、必ず「Qでなければ、Pでない」という命題も成り立つ、ということです。この「Qでなければ、Pでない」を、元の文章の「対偶」というのでした。「やさしくなければ生きていく資格がない」の対偶は「生きていく資格があるやつはやさしい」です。元の命題が正しければ、対偶も正しくなります。

ネコは可愛い」の対偶はどうでしょうか。これは「その動物がネコであるならば、その動物は可愛い」ということですから、対偶は「その動物が可愛くなければ、その動物はネコではない」です。すなわち、「可愛くなければ、ネコではない」。

「対偶」とよく似ていて、間違えやすいのが「逆」です。「Pならば、Qだ」という文章のP,Qの順番を交換して「Qならば、Pだ」としたものが「逆」です。「星が見えるなら、夜である」の逆は「夜であれば、星が見える」ですが、これは正しいとは言えません。曇ってれば見えませんね。「ポチならば、犬」ですが「犬ならば、ポチ」ではありません。つまり、逆は必ずしも真ならず、というわけです。

また、「Pならば、Qだ」という文章に対して、「Pでないならば、Qでない」を「裏」といいます。「裏」は「逆」の「対偶」です。「星が見えるなら、夜である」の「逆」は「星が見えないなら、夜ではない」ですが、これもやはり正しくありません。

なんだかいろいろ出てきて混乱してきたと思いますが、とりあえず、元の命題と対偶は同じことを言っている、ということだけ確認してください。逆とか裏は適当に理解しておいてください。私も、どっちが逆でどっちが裏だかすぐ忘れます。

さて、このような「対偶」とか「逆」とかの区別は、ある程度の論理思考に慣れた人なら別に難しくない思われるのですが、どうもそういうわけでもないようです。このあたりから、「数学的思考」と世間一般の「論理的思考」のギャップが想像できて、なかなか興味深いです。

例えば、芥川龍之介の「侏儒の言葉」にこんな箴言が出てきます。「艱難かんなんなんじを玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。」 ってことは、自分からトラブルを招きよせる粗忽者だけが玉になれるというわけですか。なるほど、これは面白い。

面白いですが、論理的には間違っています。「艱難汝を玉にす」というのは、「艱難を味わったならば、玉のように輝く人になれる」ということでしょう。「侏儒の言葉」で言っているのは「艱難を味わったことがなければ、玉のように輝く人にはなれない」ということですから、これは「裏」です。裏は必ずしも正しくありません。艱難を味わわなくとも、玉になれるかもしれないからです。

小谷野敦は、著書『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』の中で、「何の罪もない人を殺してはいけない」の対偶は「罪のある人は、殺してもいい場合がある」である、と書いたそうです。これは「裏」ですね。また、内田樹はブログで「対偶」の意味を知らなかったことを書いています。

このような論理的思考に対する理解のなさは、ちょっと不思議な感じがします。

単に、思考力が不自由だからでしょうか? 例えば、「個人情報保護法」をテーマにしたある講義の中で、「法曹学界の第一人者」の論理的思考力が非常にヤバかったという事例。その「第一人者」は、「過去6月以内のいずれの日においても5千を超える」の否定を「過去6月以内のいずれの日においても5千を超えない」としたそうです。マジっすか。こりゃ単なる馬鹿です。

しかし、芥川はもちろん、小谷野敦や内田樹といった思考の手練たちがこぞって間違えているのを見ると、どうも単なる能力の問題でもなさそうです。むしろここは、数学的な論理と異なる論理の存在をかぎつけるべきでしょう。

では、数学的論理とは異なる論理とは何でしょうか?

まず非常に有名な例から。「彼は、叱られないと勉強しない」というのは、多くの人にとって身におぼえがあることでしょう。では、この対偶は何でしょう? 「Pならば、Qだ」の対偶は「Qでないならば、Pでない」でした。ということは? えーと、「彼は勉強すると叱られる」。あ、あれ?

タネ明かしは、時間の流れに注目することです。最初の「叱られないと勉強しない」では「叱られない」という出来事が前にあり、「勉強しない」が後でした。ところが、「勉強すると叱られる」では、「勉強する」が前、「叱られる」が後のように読めてしまいます。つまり、時間構造が壊れていて、正しく対偶になっていないのです。

そこで、時間の流れも含めて正しく対偶を取ると次のようになります。「彼が勉強していたとすると、その前にだれかに叱られてたはずだ」。これなら、まったく問題ないですね。

この例から分かるのは、日本語の「Pならば、Qだ」という文章には、時間の前後関係が入っているということです。

さて、次は、「ヘンペルのカラス」という話です。「すべてのカラスは黒い」という命題の対偶は「黒くないものはカラスではない」です。では、この対偶を「観察」によって確かめましょう。

とりあえず、あなたの部屋にあるものを一つずつ拾って、この対偶命題が正しいことを確かめてください。「黒くないものはカラスではない」証拠が次々に見つかるはずです。おそらく、部屋から一歩も出ることなく、何千個もの例が見つかるでしょう。しかし、それによって、元々の「すべてのカラスは黒い」という命題を確かめたことになるのでしょうか?

部屋から出たって同じことです。世界中をかけまわって「黒くないものはカラスではない」ことを確かめたところで、結局、カラスを一羽も見ていないかもしれないのです。つまり、カラスを見ずにカラスについて語ることができるのは変ではないか?

このような例を見ると、対偶がもとの命題と等しい、というのは本当なのか?という疑問が湧きます。カール・ヘンペルによって提起されたこの問題を「ヘンペルのカラス」といいます。

数学においては、「ヘンペルのカラス」はまったく問題になりません。なぜなら、数学においては、「すべて」を確認できるからです。数学では「どんな整数nを取っても……」とか「任意の連続関数f(x)に対して……」とか「pを勝手な素数とする」などの言葉が頻出します。「すべて」について語れる、というのは数学の大きな魅力です。

ですから、数学においては、「すべての黒くないもの」を観察し、それがことごとく「カラスでない」ことを確認できるわけです。このとき、当然、「すべてのカラスは黒い」と言っていいことになります。カラスを一羽も見ていないのにです!

余談ですが、Wikipediaの「ヘンペルのカラス」の項には、「『全てのカラスは黒い』と『カラスは存在しない』という、論理的に全く相反する仮説が、共に否定されずに残される。これは明らかにナンセンスである。」と書いてありますが、この2つの命題は「論理的に全く相反する」わけではありません。「カラスが存在しない」とき、「全てのカラスは黒い」は常に真となり、両立するからです。まあ、「ナンセンス」ではありますが。

ふつう、現実世界で何ごとかを主張するとき、それが世界の「すべて」のものに対して通用することを確認するのは、ちょっと難しいです。「まだ100%確認できていませんが、今のところ99.9999%は正しいことが分かっています」というレベルで話をするしかないわけです。ですが、数学だけは、その命題が「今」どこまで確かめられているか、という思考から抜け出ています。数学にあるのは、その命題が真か偽か、だけです。

これらの例を見ていくと、どうやら、数学的な論理には「時間」というものが存在しないのではないか、ということに気づきます。

今までに見た3つの例は、すべてそのような例でした。もっと分かりやすい部分を取り出せば、「1+1=2」は、いつでも、何年経っても「1+1=2」である、ということです。これは数学の普遍性と言えます。

「雪がとければ水になる」と「雪がとければ春になる」の違いは何でしょうか? 前者の対偶をとると、「水になっていなければ雪はとけていない」ですから、これはいつでもどこでも正しい命題でしょう。一方、後者の対偶は「春にならなければ雪はとけない」ですが、よく考えてみると、この命題が意味をもつのは、冬、雪にかこまれて春をまつ季節の中で、だけなのです。

時間を超えた論理と、時間の中で意味をもつ論理の2つがあるようです。一般に前者の論理は数学的な、普遍的なものを目指す論理といえるでしょう。

ところで、大江健三郎が、ノーベル賞を受賞したころだったと思います。彼がテレビのインタビューで、「スピノザを読みたい」と言っていたのを聞いて、私はちょっと違和感がありました。スピノザと言えば、17世紀の哲学者じゃありませんか。例えば、現代の物理学者が、ニュートンの『プリンキピア』を研究したい、と言うことはまず考えられません。

帝京大学助教授の小島寛之の話です。彼は若い頃、数学科に所属していました。指導教官に研究の方向性を聞かれ、フェルマー(17世紀の数学者)の数学について研究したいと言ったところ、指導教官に「そんな古いことをやってどうする」と一笑に付され、「楕円曲線」や「モジュラー形式」などの、より新しい理論を薦められたそうです。「殺意」が芽生えた、と小島は書いています。

しかし、フェルマーが残した二十世紀数学最大の難問、フェルマーの最終定理は、まさに「楕円曲線」や「モジュラー形式」などの理論の進歩によって解かれたのでした。してみると、やはり、フェルマーの残した問題はともかく、その数学的業績は今では「古い」ものであり、あらためてふり返る価値のないものなのでしょうか。

こうなると、「普遍」とは、なんなのだろうという気がします。その定理は未来永劫真実であるにしても現代の数学者にはもはや顧みられることのないフェルマーと、21世紀の大文豪によって今も新しい意味を汲み出されるスピノザは、どちらが「普遍的」なのか。そんなことを考えてしまいます。

というわけで今回は、数学的論理は「時間」を超越している、ということを見てきました。人は、時間の中で生きる存在でありながら、しかし、同時に時間を超えたものに憧れる存在でもあります。その考えてみると、このようなさまざな論理の形は、どれも人間の一つの姿なのだと、私には思われます。

kohekokoheko 2006/09/17 16:22 論理学においてこれ以上分かりやすく書かれた文章を私は知りません。恐れ入りました。

エポケー(判断中止),対偶,「ない」ことの証明などは,分かるまでは苦しいですが分かってしまうと物凄い武器になりますね。このへんの理屈を知っているといないとでは議論の際大きな差が出ると感じています。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/18 17:03 kohekoさん、「武器」になる、という言葉にはまったく同感です。思うに、「対偶」などの言葉が人口に膾炙されているとは言えないのは、今の学校教育が、論理というものを数学の枠組みの中だけで教えるようとしているからだと思います。「x+y≦0ならば、x≦またはy≦0」の対偶は……などとやるから多くの人は混乱するのであって、本エントリのように日常言語で説明すれば難しいことはないはずです。要するに、国語で教えればいい。

ところで「エポケー」ってもっと普及していい言葉ですよねえ。ある程度の誤解を経た上で、日常生活で使われまくっていい哲学用語だと思う(「予定調和」とか「世界観」みたいに)。でも、それほど普及しているように見えないのは、たぶん、その馬鹿っぽい語感に原因があるのでしょう。「ぼける・ほうける」がかつて「ほける」であり、さらに古くは「ぽける」と発音していた時代の民族的記憶は、今でも「ポケーとしている」などの表現に残っていて、それが「エポケー」の宿痾となっているのでしょう。何べん聞いても頭悪そうですもんね。エポケーって。不憫な子や……。

jun-jun1965jun-jun1965 2006/09/19 03:38 いや、それでいいのです。「何の罪もない人を殺してはいけない」の裏は「罪のある人は殺してもいい」です。対偶は「殺してもいいのは、罪のある人だ」ですが、この表現は誤解を招くので「殺してもいい場合がある」と言い換えたのです。これは三浦俊彦に相談して書いているので違っていません。また記号論理学が必要である所以も、三浦の『論理学入門』に書いてあります。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/19 06:42 げげ、御本人ですか。とりあえず『もてない男』は最高でした。

で、なるほど、「裏」や「対偶」の意味を誤解してあのような書き方になったわけではない、ということは了解しました。

しかし、「殺してもいいのは、罪のある人だ」と「罪のある人は、殺してもいい場合がある」は、やはり論理的には違う命題なのではないでしょうか。

これは本記事で紹介したWikipediaと同じ構造の誤解だと思います。まず、数学的論理では、Pが常に偽であるとき、「PならばQ」という命題は常に真になります。ですから、この論理にしたがえば、たとえば、「絶対にだれも殺してはいけない」と考える人にとって、「殺してもいいのは、罪のある人だ」は真であり、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」は偽な命題です。

しかし、日常言語的論理では、「PならばQ」と言った場合、Pが真となる場合が少なくとも可能性としては考えうる、というふうにみなされているようです。ですから、「殺してもいいのは」という言葉から、「殺してもいい場合がある」という言葉が出てくるのだと思いますが、これは論理的に間違いです。もし仮に、このような日常言語的な論理にしたがうのであれば、そもそも対偶は、もとの命題と同値にはなりません。

たとえば「小泉首相以外の日本人は、身長5m未満だ」は真です。ここでその対偶を、「身長5m以上の日本人は、小泉首相だけだ」と書いてしまうと、まるで「身長5m以上の日本人がいる」と言っているかのようです。ここは、「身長5m以上の日本人がもしいたとすれば、それは小泉首相だけだ(でも、そんな日本人はいないから、別に嘘は言ってないもんね)」と書くべきです。

同じように、「何の罪もない人を殺してはいけない」の対偶は、「殺してもいい人がもしいたとすれば、それは罪のある人だ」とすべきです。「殺してもいい人がいる」かどうかはこの命題からは出てきませんから、これを「罪のある人は、殺してもいい場合がある」と言い換えるのは、やはり誤りだと思います。

という感じで、いかがでしょうか。

PON丸PON丸 2006/09/19 13:51 例え話にミスリードがありますよ。
「小泉首相以外の日本人は、身長5m未満だ」と「日本人は、身長5m未満だ」はイコールの関係です。「何の罪もない人を殺してはいけない」と「人を殺してはいけない」がイコールでないでない(死刑反対でない立場の場合)対偶が「殺してもいい人がもしいたとすれば、それは罪のある人だ」とするなら例えは、「身長5m以上の日本人がいるとすれば、それは小泉首相ではない」になりますよ。

考え方に大きな穴があるとすれば、それはそのことのおよぶ範囲を無視していることです。
「罪がある人」と「罪のない人」の罪の二元論が殺人(この場合死刑)を容認する範囲とあまりに違いがあるため、「場合によっては」みたいに範囲を追加しなくてはならなくなるのです。つまり、話(考え)をあまりに定量化したため、本質にある大きさ(量)・広さ(面積)・向き(ベクトル量)が無視されたので、実情に合わない部分を別に追加する必要が出てくるのです。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/19 15:43 PON丸さん、実に興味深いコメントです。

まず、前段の

>「小泉首相以外の日本人は、身長5m未満だ」と「日本人は、身長5m未満だ」はイコールの関係です。「何の罪もない人を殺してはいけない」と「人を殺してはいけない」がイコールでないでない(死刑反対でない立場の場合)対偶が「殺してもいい人がもしいたとすれば、それは罪のある人だ」とするなら例えは、「身長5m以上の日本人がいるとすれば、それは小泉首相ではない」になりますよ。

という部分ですが、私の脳ミソでは、内容もさることながら、その文法構造すら理解できません。きっと、自動翻訳機というのは、こういう気分で働いているのでしょうねえ。どうしてこのようにお考えになったのか、もう少し詳しく話していただければ参考になります。ところで、申し遅れましたが、「小泉首相」というのは、私の知りあいの「こいずみ かみすけ」という男でして、彼の身長は5m40cmです。

それから、後段の

>つまり、話(考え)をあまりに定量化したため、本質にある大きさ(量)・広さ(面積)・向き(ベクトル量)が無視されたので、実情に合わない部分を別に追加する必要が出てくるのです。

という文章は、非常に刺激的です。まず、「……あまりに定量化したため、……大きさ(量)……が無視された」というロジックは斬新ですね。戦いを極めたあげく戦いを超越してしまった木鶏を思わせます。それと、この「大きさ(量)・広さ(面積)・向き(ベクトル量)」というのは、どのような集合に対して、どのように定義されているのでしょうか? 特に「向き(ベクトル量)」が何の向きなのか、大いに気になります。ちなみに、私は左向きです。

ともかく、大変学ぶことの多い文章です。さらなる書き込みをお待ちしております。

77437743 2006/09/19 17:57 >「こいずみ かみすけ」
ちょwwwおまwww
その発想は無かったわw

いのしろういのしろう 2006/09/19 23:40 いつも楽しませてもらっています。

全く関係ないですが、なぜかビューティフル・マインドの
「なぜ宇宙の広さが無限と断言できるのか?−信じているから。」
を思い出しました。関係ないですが…

PON丸PON丸 2006/09/20 10:56 「罪のない人は殺してはいけない⇒罪人は殺してもよい」
これがイコールと感じないのは、論理的とかではなく、罪の有る無しの2元と
殺人(この場合死刑)の有無がイコールでないからですよ。
もちろん無罪の人を殺す事はいけない事(これはイコール)ですが、
罪人全部を殺す事は肯定されません。(死刑廃止論の方々は全て否定かな)
文章の構造・・・がと言う事ですが、
身長5m以上の日本人がいるという仮定を「小泉首相は5mはない」では説明出来ない
点で、文章の構造というより文章そのものが意味をなさないものです。
単に肯定・否定を揃えてみただけですから・・・
「小泉首相以外の日本人は、身長5m未満だ」は確かに真ですが、
小泉首相も5mないので真、つまり「小泉首相以外」の仮定に意味がありません。
つまり、小泉首相は日本人(母集団)である(含まれる)ので、
先の罪の有無とでは、範囲(罪の有無は異なる集団)が
明らかに違うのですからミスリードと言ったのです。

小泉首相というのは、私の知りあいの「こいずみ かみすけ」という男でして、
彼の身長は5m40cmです。

・・・詭弁ですか?では、「こいずみ かみすけ」方が身長5m40cmであること
を証明してくださいな。一度、詭弁のガイドラインでも検索してみてはどうです?

後段については、貴方の考えが「短絡」過ぎるという突っ込みを貴方に
合わせた物言いをしたまでですよ。
貴方が左向きであることはこの場合問題でなくて、「
短絡」思考だと思ったわけで、別段指摘した事が判らなければ仕方ない事です。

まぁ〜無理に自分を高みに持って行かずとも、
身の丈にあった思考をされた方がいいですよ。
貴方が左向きとかなんてどうでも良くて、
論理のすり替えはいただけないと言う事です。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/20 19:24 7743さん、いえいえ、私は事実をありのままに書いただけでして。「発想」などという言葉でおほめいただくものではありません。ともあれ、コメント、いつも助かります。

いのしろうさん、なぜあのシーンを思い出されたのか、私にも、ちょっと想像がつきません。しかし、内田樹曰く、「いっしょにいると「オチのない話」を次々に思い出してしまう相手のことを「親友」とか「恋人」と呼ぶのです。」(『先生はえらい』)ということだそうです。もし、吹風日記が、いのしろうさんにとってそういう存在になりつつあるのだとしたら、書いている人間としては、こんなに嬉しいことはありません。

PON丸さん、今回のコメントでだいぶ分かった気がします。PON丸さんの思考においては、「現実にそうであること」と「論理的に証明されること」の区別というものはないのですね? なるほど、これも数学的論理と日常言語的論理の大きな違いと言えるかもしれません。

franzfranz 2006/09/21 02:24 はじめまして。
コメントまで一通り読ませてもらいました。
やりとりが噛み合っていないように思います。johnnyさんに反論している方々は、現実に具体的な話をする中に論理学を当てはめようとしているのに対し、johnnyさんは論理学そのものを考えているように感じます。
論理学(あるいは数学)的な考え方が絶対的に正しいとすればjohnnyさんが正しいと思います。(というか、普通に読めばjohnnyさんが正しいと思います)
ただ、やはり論理学や数学を論じるのに国語を使うという方法は、論理学や数学の記号を使う方法と同じように、大多数を理解させるのは難しいのかもしれません。なぜなら、国語(日本語)では、わざわざ恒真命題とか恒偽命題とかナンセンスな命題を扱うことはしないからです。

あと、いくらなんでもまず『5m以上の日本人なんていない』と言っておきながら、その後のコメントで『5m40cm』ではPON丸さんがあまりにもかわいそうじゃないですかwPON丸さん用に僕も一例挙げておきますね。
『10の約数のうち10以外は1桁』真
その対偶『1桁でない10の約数は10』真
これはPON丸さんも理解しているところです。
『8の約数のうち8以外は1桁』真
その対偶『1桁でない8の約数は8』真
意味はないでしょうが、下の2つも真です。


邪魔でしたら削除してください。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/21 06:34 franzさん、こんにちは。いろいろお気遣いをいただいたコメント、ありがとうございます。

やりとりが噛み合っていない、ということですが、まったく同感です。しかし、この記事のテーマからして、コメント欄で噛み合わないやりとりが行われるというのは、それはすなわち、2つの異質な論理がぶつかっている、ということですから、まさに理想的なのではないかと思われます。エントリのみならず、このコメント欄自体にブクマが入った(http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/MrJohnny/comment?date=20060915%23c)ということが、それを示しています。とりあえず、現時点で、このコメント欄は私の中では大成功です。

>なぜなら、国語(日本語)では、わざわざ恒真命題とか恒偽命題とかナンセンスな命題を扱うことはしないからです。

うーん、例えば、「嘘ついたら、針千本飲ーます」において、「針千本飲む」というのは一般的な人体の構造からして恒偽命題かと思いますが、だからこそこの言葉は「嘘つかないでね」というメッセージに換言できるのではないでしょうか。まあ、しかし、論理を教えるのに国語を使う難しさ、という点については、franzさんのおっしゃる通りかもしれませんね。

>あと、いくらなんでもまず『5m以上の日本人なんていない』と言っておきながら、その後のコメントで『5m40cm』ではPON丸さんがあまりにもかわいそうじゃないですかw

いや、それがですね、前のコメント書いてから、次のコメント書くまでに、小泉のヤローが成長しちゃったんですよ……などと書くと、また「詭弁だ」と言われそうですが、しかし、論理的であるためには、こういう「可能性すべて」に目を配る必要があるはずです。いや、そんなカタイこと言わなくても、「小泉首相」が「こいずみかみすけ」だったり、彼の身長があっという間に5mになる「かもしれない」世界のほうが楽しいじゃありませんか。論理の力ってのは、想像力ですから。

pon丸pon丸 2006/09/21 09:50 話がかみ合っていない事はその通りですね。ただ、論理云々を指摘しているのではなくて、
自論を正しく見せる(と思わせる)事に正しくない例題を持ってくることが
いただけないと言っているのです。
罪の有無と日本人・小泉・身長5m(以上・未満)では、明らかに関係が違うでしょ?
まぁ同じ可能性が有るって言われるのなら、これ以上言う事はありませんよ。
可能性全てに目を配る必要があるは、まったくその通りですが、
何が可能なのか不可能なのかの基準があまりに異なれば、話は一生平行線ですよ。

無駄な詭弁に、それならどうするの?って言ってみただけですよ。
貴方の想像力を否定するつもりはありませんが、明らかに違う例えでは、
単に自論を正当化するのに何でも有りかよ!!って思いましてね。。
まぁ〜重箱の隅をつつくような書き込みをしたのは申し訳ありませんが。

論理を教えるのに国語使うのは・・・って、論理のすり替えを教えたいのですか?

OMIOMI 2006/09/21 11:49 コメント欄で行われている議論がまったく理解できません。
「何の罪もない人を殺してはいけない」の対偶は「殺してはいけなくない人は何の罪もない人ではない」のはずだし、「小泉首相以外の日本人は、身長5m未満だ」の対偶は「身長5m以上ならば、小泉首相以外の日本人ではない」のはずでしょう。
コメント欄で行われている論議は、与えられた命題の日本語を読んだままではなく、ごく一般的に誰もが捕らえる「言外の意味」を読み取ってしまって、それを前提に話しているからと思われます。

「小泉首相以外の日本人は、身長5m未満だ」と「日本人は、身長5m未満だ」はイコールではありません。少なくとも数学で使われるイコールではないことは確かです。イコールと言ってしまうのは「小泉首相なる人物は5m未満だ」という、“命題のどこにも含まれていない”前提を勝手に含んでいるからです。
Johnnyさんが言っておられるように、「小泉首相」が「西暦2006年9月21日午前9時現在日本国総理大臣である小泉潤一郎」であるとは限らないのですから。
叙述トリックではありますが、数学と国語の違いを良くあらわしていると思います。

数学的に論理の話をするならば、命題に日本人が100人中100人が頭に浮かべる言外の意味が存在したとしても、そこに数学で得られる絶対性が求められないならば前提とすべきではないでしょう。
逆に、国語的に話すのであれば数学のような厳密さは得られないし、上記のような叙述トリックも可能となります。

自論の中で、都合のいいときに都合のいい方を用いているのではまったく「論理的」ではありません。
小泉首相が5m以上に成長する可能性はあっても、8が何の演算もなく時間がたてば10になる可能性はないのですから。

jun-jun1965jun-jun1965 2006/09/22 02:52 「「絶対にだれも殺してはいけない」と考える人にとって、「殺してもいいのは、罪のある人だ」は真であり、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」は偽な命題です」
 当為命題に真や偽があるのでしょうか? あるとしても、なぜ前者が真?

PON丸PON丸 2006/09/22 09:43 >OMIさん
元々今回のコメントは、数学的手法で命題を理解することに
ケチをつけたわけでないくて、誤ったというより意図的に自分の思想に誘導する
ようなすり替えについて指摘したので、方法論が数学だろうと、国語だろうと
私は問題とはしていません。
叙述トリックは、お話としては別に楽しいものですが、主義主張に使用すると
不快なものです。「小泉首相が5m以上に成長する可能性はあっても」これは
可能性はないと言っておきます。もちろん、5m以上の人がいないことを
証明することの難しさもまたメートルという単位がある日突然1/4になるなんて可能性が
「0」でないことは確かです・・・が、扱っている命題が現実社会の事象について
である以上、国語・数学の違い以前の問題です。
数学であっても、扱っている事象がどの位置であるかは重要で、
ユークリッド幾何学では三角形の内角の和は180度であることは、真
であるが非ユークリッド幾何学では必ずしも真ではありません。
二つは相反するものではなく、取り扱う範囲が変わっているだけです。

>JUN−JUN1965さん
文章をあくまで対偶として持ってきたもので、
罪のない人⇒罪のある人
殺してはいけない⇒殺してもよい
を組み合わせた結果でしかないのです。
罪の有無の判断・ランク分け・殺人についての是非など
は各自の思想信念で変わりますので、同疑問が出てくるのは当然ですね。

私も的確な文章で理論の矛盾を突けたらよかったのですが、
無駄にコメントが多くて、指摘が頓珍漢なのはすみません。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/22 16:19 PON丸さん、こんにちは。

PON丸さんの主張が、「小泉首相といえば総理大臣で、彼の身長は5m未満に決まっている。そういう常識的判断があって初めて我々は対話ができるのであって、人間は裸の論理だけで意思の疎通をしているわけではない」ということでしたら、私も納得しています。ですが、このコメント欄で議論されていることは、ある「論理的判断」の妥当性についてです。どのような「論理的判断」がなされているかを浮き彫りにするために、わざと「常識的判断」と異なる例を挙げているのです。そのあたりを、どうかご理解ください。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/22 16:20 OMIさん、こんにちは。

ほぼ納得できるコメントでした。「殺してはいけなくない人は何の罪もない人ではない」という表現には、ちょっと虚を衝かれました。なるほど、二重否定が肯定になる、という数学的には自明な論理は、言語では成り立たないのでしたね(まあ、この文の場合は肯定にしてもいいかな、と思いますが)。

ただ、1点だけ。「8が何の演算もなく時間がたてば10になる可能性はないのですから」というご指摘の意味が分かりにくいです。とりあえず私は、「小泉首相」などの日常用語と違って数学の用語は意味が確定しており動かない、という指摘だと理解しましたが、よろしいですか? franzさんのあげられた例にも8と10が使われていましたが、franzさんの例と直接の関係はない(別の数字でもかまわない)、という理解のしかたでいいでしょうか?

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/22 16:21 jun-jun1965さん、こんにちは。

「当為命題」というとらえ方は、すこっと抜けておりました。数学にはない論理の形という話では、まっさきに出てきてもいいものでした。しくじりました。ここは、用意していただいた逃げ道を使うことにしまして、事実命題である、として話をさせていただきます。すなわち、人間という集合を定義域として、「罪のある/なし」「殺してもよい/悪い」という真偽値をとる関数が固定されているとします。

「殺してもいいのは、罪のある人だ」という文について考えます。日本語で「AはBだ」と言ったとき、「A=B」「A∈B」「A⊂B」のどれかですが、ここでは、意味上、「A=B」と「A∈B」はありません。ここだけは数学的論理ではありませんが、まあ、問題ないと思います。したがって、「殺してもいいのは、罪のある人だ」という命題は、「mが殺してもいい人である、ならば、mは罪のある人だ」という命題と、数学的には、同値です。

私の主張は、「どんなmについても、mを殺していい、は偽」という仮定のもとでは、この「mが殺してもいい人である、ならば、mは罪のある人だ」という命題はmによらず真、というものです。この根拠は、数学において「PならばQ」という命題は、Pが偽ならば、Qによらず常に真になる、ということです。

例えば、「晴れたら、外出しよう」という約束は、晴れでない天気のもとでは、外出をしてもしなくても守られたことになります。日常的な例だとまずいのであれば、これは田村三郎の例ですが、「12!=470091600ならば、13!=13×470091600」は数学的に真。しかし、12の階乗は479001600ですので、これは「偽ならば偽」のかたちです。

このような「偽ならば偽」の形を真であると認めるのは、極端な例を挙げれば「1=3ならば、5=9」は真、などを認めると言っているわけですから、かなりナンセンスな感じがします。しかし、これが認められないとなると、例えば背理法が使えなくなります。したがって、数学的には認めるのが妥当です。

ということで、「絶対にだれも殺してはいけない」という仮定のもとで、「殺してもいいのは、罪のある人だ」は真、です。数学的には。

以下、前回のコメントの内容とかぶります。

しかし、日常言語では、「だれも殺してはいけない」と考える人が「殺してもいいのは」と発言するのは奇異です。つまり、日常言語では、「殺してもいいのは」という発言の中に、「殺してもいい人が1人は存在する」という前提が含まれている、と考えられます。これは、数学では空集合も集合とみなすけれど、日常言語では空集合を集合とは言わない(無人の部屋に対して「男が集まっている」とは言わない)のと同じです。

すなわち、日常言語的論理では、「AはB」という発言の中に「Aは空でない」という主張が隠れているわけです。この隠れた主張を認めると、「対偶」という操作は使えなくなります。「AはB」の対偶は「BでないものはAでない」ですが、前者には「Aであるものが1つはある」が、後者には「Bでないものが1つはある」が、それぞれ隠れており、この2つは真偽の一致しない命題だからです。

したがって、日常言語的論理では、「何の罪もない人を殺してはいけない」という命題(これは「mが何の罪もない人であるならば、mを殺してはいけない」と解釈されています)の対偶として「殺してもいいのは、罪のある人だ」をとることはできない、ということです。もちろん、数学的論理としては、前半で述べたような解釈をする、という条件のもとで、このような対偶の取り方は妥当です。

以上より、私の考えは、「何の罪もない人を殺してはいけない」を「殺してもいいのは、罪のある人だ」と換言したのは数学的論理に基づいており、「殺してもいいのは、罪のある人だ」を「罪のある人は、殺してもいい場合がある」と換言したのは日常言語的論理に基づいているが、この2つの論理は両立しない、というものです。

通りすがり通りすがり 2006/09/24 04:33 ちょっと興味深い議論ですね

PON氏は[ 「罪がある」「ない」が互いに背反であること、に対して「小泉首相」と「日本人」が互いに背反でないこと ]が問題だと仰っていると理解しました。
確かに、この点に関しては、Johnnyさんの例は相応しくないのかもしれません。
OMIさんの
>小泉首相が5m以上に成長する可能性はあっても、
>8が何の演算もなく時間がたてば10になる可能性はないのですから。
という発言は「小泉首相は5mと競合する立場になく、8は10は排反事象であるんじゃないの?」という意味と理解しました。

自分の頭では何だかこんがらがってきたので、頭を整理する意味でもコメントさせて頂きます。
誤読があれば訂正してください

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/24 21:09 通りすがりさん、まず、そもそも問題となっているのは、「何の罪もない人を殺してはいけない」の対偶として、「殺してもいいのは、罪のある人だ」を取ることができるか? ということでした。

ロジックを抽象化すると、「どんな《人》についても、《何の罪もない》ならば《殺してはいけない》」という命題から「どんな《人》についても、《殺していい》ならば《罪がある》」という命題を引き出したことになります。

私の例は、「どんな《日本人》についても、《小泉首相でない》ならば《身長5m未満だ》」という命題から「どんな《日本人》についても、《身長5m以上》ならば《小泉首相だ》」という命題を引き出しています。これは、さきほどの「罪のある人は〜」と、論理的にはまったく同じ構造で、だから例として出したのです。

ここで、「罪のある/なし」に対応するのは「小泉首相である/ない」であり、「小泉首相/日本人」ではありません。

PON丸さんが問題にしているのは、前者の例「罪のある/なし」「殺していい/いけない」と、後者の例「小泉首相である/ない」「身長5m以上/未満」が切り分けている集合の「大きさ」があまりに違う、ということでしょう。PON丸さんは、「罪がある人」というのは人間のうちの不特定多数であり、罪がある人のうち死刑に値する人はさらに一部なのに対して、「小泉首相である人」というのは(常識的に)一意に特定でき、その人が「身長5m未満である」かどうかも(常識的に)特定できてしまう、したがって例としてあまりに違い過ぎる、ということを指摘されているのだと思います。

しかし、jun-jun1965さんに対する議論で問題となっているのは、日常言語的論理では、「PならばQ」と言ったときに「Pとなる場合がありうる」という前提が無自覚に侵入しているのではないか、ということです。私は、その前提の侵入が不当なものであることを示すために「Pとなる場合がありえない」ような極端な例をあえて挙げた、ということです。

通りすがり通りすがり 2006/09/25 02:41 なるほど、と思いましたが少し気になるので、さらに失礼して

そもそも「犯罪者であるか否か」というのはまじわりの存在しない互いに背反な集合であります。この点は同意いただけるでしょう。
ところで、この議論の場合、人は集合の元であるはずです。人は、「全ての人」という集合を余りなく二つに分ける集合のいづれかに属する元であり、無論まじわらない。


なんて、ここまで書いて気付きました。
私が一方的に間違っていました。
議論の途中の重大な発言をようやく理解したのです。

私は、小泉首相を元である、ととらえていました。
これが間違っていたと考えます。

不愉快な程の理系人間と思っていたのに、勝手な解釈と常識に縛られていたなんて恥ずかしいです。

MrJohnnyMrJohnny 2006/09/25 19:28 なるほど、通りすがりさん。私の例では、「小泉首相1人のみからなる集合」というものを考えなければいけないので、そこが誤解を招いたということでしょうか。確かに「要素が1つの集合」と「元」の違いというのは分かりにくいところですね。これは私の例のよくない点でした。参考にします。

スカイスカイ 2006/09/29 22:21 初めまして。
いつも楽しく読ませて頂いています。
見ている途中で少し変な事を考えたのですが、罪人を殺していいと言う事が真となるなら罪人が殺された後、その罪人に殺された人が生き返った場合罪人は人を殺さなかった事になりますよね?
にも関わらず罪人は殺された。
パラドックスが生じているように思えるのですが…。
的外れな事を言っていたらすみません。

jun-jun1965jun-jun1965 2006/10/02 00:56 きみい、本文を改訂したでしょ。「殺してもいいのは、罪のある人だ」と書いてあったのを、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」に直したでしょ。コメントの意味が不明になってるよ。

MrJohnnyMrJohnny 2006/10/02 06:02 スカイさん、簡単です。被害者が生き返ってしまった場合は、死刑執行された囚人も生き返らせればよいのです。これならパラドックスになりません。

真面目に答えますと、現在のところ、「人間が生き返る」という現象は脳死からの蘇生以外では確認されていないと思います。ですが、刑法上の死は三兆候説(呼吸・心臓・瞳孔反射の停止)に立っており、したがって脳死は刑法上の死ではありません(ただし、「臓器の移植に関する法律」では、脳死した者の身体を「死体」と定義しており、齟齬があるようですけど)。ですから、人を脳死状態にしても、傷害罪にしかならないわけです。以上のことから、被害者が生き返るかもしれない、という状況下で殺人罪、さらに死刑の判決が下ることは、現状ではありえないと考えます。

MrJohnnyMrJohnny 2006/10/02 06:03 jun-jun1965さん、御言葉ではありますが、ご指摘になった「罪のある人は、殺してもいい場合がある」という文章は、この文字列からリンクされている記事(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060702/p1)に書かれていた表現をそのまま引用したものです。したがって最初からこのようになっております。

というか、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」という表現については、jun-jun1965さん御自身によって、「『殺してもいいのは、罪のある人だ』ですが、この表現は誤解を招くので『殺してもいい場合がある』と言い換えたのです。」と解説していただいているわけで、むしろ、本文が現在の形でないと、コメントの意味が通らないと思います。「意味が不明になってる」コメントというのは、いったいどのコメントのことをおっしゃっているのでしょうか?

jun-jun1965jun-jun1965 2006/10/02 16:51 それは失礼しました。私はあなたが、私が「罪のある人だ」と書いていると勘違いして最初のコメントを書いたのです。だから私の目には私のコメントが意味不明になっているように見えるのです。どうぞ続けてください。

jun-jun1965jun-jun1965 2006/10/02 17:14 なお本論についてですが、「殺してもいい罪のある人」が空集合であることもあるという理解でよろしいですか。ならばあなたの議論が正当です。三浦俊彦に聞いたというのは途中までで、私はてんから「殺してもいいのは罪のある人だ」と「罪のある人は殺してもいい場合がある」とは同じものだと思い込んでいました。やはり理数系は弱いですね。

MrJohnnyMrJohnny 2006/10/07 11:51 万事了解です。このような細かい言葉の話におつきあいいただいて、ありがとうございます。

念のため記しますが、「罪のない人を殺してはいけない」という文はまともなのに、「罪のない人を食べてはいけない」という文は異常なわけで、これはやはり、我々の内心に「罪のある人は殺していい場合がある」という考えがあるからなのでしょう。このような隠れた意識は、理数系的な厳密な論理ではつかまえるのが難しいですが、確かにあるようです。その点において、『なぜ悪人を殺してはいけないのか』に書かれた「つまり人々は、……暗に、というよりはっきりと、『罪のある者は、場合によっては殺してもいい』ということを認めているのだ」という結論はゆるがない、と私も考えております。

猫猫ブログのプライベートモード移行は、まことに残念でした……。またお目にかかれる日が来ることを願っております。

克己克己 2010/02/27 20:35 興味深い議論を聞かせていただき、ありがとうございます。
わたしには、ちょっとついていけませんが。

島 2010/05/22 00:26

makimaki 2010/06/30 12:26 応援してます

たまたま 2010/06/30 12:27 熟読してしまいました

住宅ローン控除住宅ローン控除 2010/10/01 22:50 意外な見解でした。

yosiyosiyosiyosi 2010/10/04 22:29 いわれてみると確かにそうですね。

利尻昆布 白髪染め利尻昆布 白髪染め 2010/10/08 10:47 皆さんの意見、よく読んでみました。

aituaitu 2010/10/19 17:00 最初はそのようにはかんがえていませんでしたが、
納得しました。

バッシュバッシュ 2010/10/21 14:11 スタート時点でそれだけ相違があるのであれば、
いわれていることについても自覚ができるのかもしれません。

tokuteitokutei 2010/12/01 19:33 特定調停で借金を減らそう

ニキビとビキニニキビとビキニ 2013/05/26 20:41 大江健三郎は難解すぎる。背中ニキビ

momoっぴmomoっぴ 2013/11/30 23:48 なるほどです。いいものがありますね。