2008-08-22 彼らは何故戦ったのか
■[歴史][日露関係]占守島の戦いで,北海道が救われた訳ではない
先日は終戦記念日だったが,8月15日以降も戦闘は行われていた。8日に突如対日参戦したソ連軍との戦闘である。
ソ連軍は「満州国」侵攻後,千島・南樺太に侵攻した。11日,ソ連軍は樺太国境を越え,古屯で日本軍と交戦,19日に真岡,25日に大泊・豊原を攻略し,南樺太はソ連占領下に置かれる。
いっぽう千島では,18日に最北端の占守島にソ連軍が現れ,21日まで日本軍と交戦,その後,31日に得撫島まで到達した。
ところで,現在,一部で「占守島で日本軍の守備隊が勇戦したからこそ,北海道分割は免れたのだ」という論がある。例えば,
語られることのない占守島の戦い 〜終戦後に日本を守った兵士達〜 − アジアの真実
[……]しかしこの占守島で苦戦したソ連は北海道まで到達できず、北海道北部がソ連に占領されることはなかったのです。
占守島の戦い(北海道分断を阻止した日本軍最後の大勝利) − 徳島の保守
もし、占守島守備隊の勇敢な防衛戦闘がなければ、ソ連軍は8月23日より前に侵攻、北海道の分断という悲劇を我々は味わっていたと思われます。
のような感じで。
一見正しいように思えるけれど,実はこれには根拠がない。占守島守備隊の勇戦はソ連軍から北海道を守らなかった。
何故か? そもそも,得撫島以北の千島に侵攻した部隊と,北海道占領を予定していた部隊は別だからだ。
それについて話す前に,まずは,ソ連側でどのように「北海道占領」が計画されたか,を,ボリス・N・スラヴィンスキーというロシア人研究者の研究*1に依って見ていく事にする。
北海道占領問題がソ連首脳部の間で討議されたのは,1945年6月26・27日だった。その席で,第1極東方面軍司令官K・A・メレツコフ元帥は北海道占領を提案する。フルシチョフもそれに賛成した。
いっぽう,モロトフ外相,ヴォズネセンスキー元帥,ジューコフ元帥らは反対する。モロトフ外相は述べた。「ソ連軍の北海道上陸は,連合国によってによって乱暴なヤルタ協定違反と糾弾されるであろう」と。二人の軍人は,軍事的見地から反対した。「強力な防衛線を敷く日本軍の攻撃のもとにソ連軍を『曝す』べきではない」とヴォズネセンスキーは述べた*2。
結局スターリンは,作戦遂行の準備ができている事を確認するに留める。彼が北海道占領を決意するのは,対日戦開始後であった。彼はトルーマン米大統領に手紙を送り,千島と北海道北部の日本軍をソ連軍に対し降伏させるよう要請した。
「周知のとおり,日本は,1919年から21年にかけ,ソ連の極東全体を占領下に置いた。もしロシア軍が日本領を占領しないとすれば,ロシアの世論は大いに憤激するであろう」*3
トルーマンは,スターリンを欧州での会議の経験から全く信用していなかった。ゆえに彼は,ソ連軍が千島を占領する事は認めたが*4,北海道はマッカーサーが占領すると譲らなかった。
スターリンはこの圧力に屈した。トルーマンの強硬な反対を押し切るだけの力はまだ彼らにはなかった。極東方面の総司令官A・M・ヴァシレフスキー元帥は,既にメレツコフ元帥,ノヴィコフ空軍元帥らに北海道占領の準備をさせ,部隊を樺太に集結させていたが,ワシントンの頑なな姿勢を前に,作戦を中止せざるを得なくなる。8月22日,ヴァシレフスキーは次のような暗号電報を発した。
「千島列島において降伏する用意があるという日本側の声明に関連して,北海道を避けて,第87狙撃兵団の先兵をサハリンから南千島諸島(国後島および択捉島)へ輸送することができるかどうかを検討するようお願いする。遅くとも8月23日の朝までにこの件についてどう考えるかを本官にお知らせ願いたい」*5
かくしてソ連軍は北海道を占領せず,南樺太・千島を占領して今に至る。
さて――ここまで書けばおわかりかとは思うが,ソ連軍の意志決定において,重要視されたのは千島での惨憺たる光景ではなくアメリカの意志だった*6。
次に,占守島についても見てみよう。戦闘の経過はWikiの記事を見て貰えばいいが,確かに占守島守備隊は勇戦した。両軍の兵士の勇敢さは特筆に値する。だが,そもそも戦う必要性があったのか? となると,首を傾げざるを得ない。
既にポツダム宣言受諾は全軍に伝えられていた。ソ連参戦も知らされていただろう。ソ連軍がいずれ武装解除に現れる事を想定できなかったのだろうか? それとも,千島が失陥したら次は北海道だ,との恐怖があったのだろうか? 後者だとしたらそれは悲劇だ。
何故ならば,先述したように,得撫島以北の千島を占領する事になっていたのは,カムチャツカ半島から出立した部隊――カムチャツカ防衛区の諸部隊,ペトロパヴロフスク海軍基地の艦艇――であった。そして,択捉島以南の千島は,南樺太に侵攻した部隊――第1極東方面軍第87狙撃兵団,第2極東方面軍第113狙撃旅団,北太平洋艦隊の艦艇――が攻略する事になっていたのである。
極東ソ連軍は,まず要塞化された占守・幌筵両島を攻略し,その後北・中部千島を占領,そして南樺太からやってきた部隊で南千島(所謂北方領土)を攻略する事を目論んでいた。
つまり,どの道,ソ連軍は得撫島で反転していたのである。占守島の勇戦とは関係なく,予め定められた作戦行動として*7。
上で書いた事を纏めると,
・ソ連軍はいずれ得撫島で反転するつもりだった
・ソ連が北海道占領を諦めたのはアメリカの強硬姿勢のためだった
という事が言えると思う。
一部の右派,例えば自由主義史観研究会などは,占守島の戦いを「意義があった」としている*8。確かに,彼らの死を「無駄死に」と思いたくない気持ちはわかる。けれど,やはり事実を見つめ直すべきなんじゃないだろうか。彼らの死が「無駄死に」となってしまった事実を直視し,二度とこのような事が起きないよう最善を尽くす。それが,国のためと信じて死んでいった彼らの死を無駄にしない方法なんだと,ぼくは思う。
占守島と幌筵島の占領という千島上陸作戦の最初の段階はこうして終わった。この作戦は日ソ両軍の間の激戦を伴い,最も流血の多いものであった。日本とロシアの歴史学者は一度ならずこの戦闘経緯に立ち戻り,次のように問いかけるにちがいない。「戦争が既に事実上終了し,日本の無条件降伏文書が公式に署名される日を指折り数えて待つ状態にあるとき,双方が膨大な人的・物的損害を出す軍事的・戦略的必要性がどこにあったのだろうか」*9
*1:ボリス・スラヴィンスキー著,加藤幸廣訳,木村汎解説『千島占領――一九四五年 夏』共同通信社,1993。
*2:前掲書,pp.160-161。
*3:前掲書,pp.65-66からの孫引き。漢数字はアラビア数字に改めた。以下同じ。
*4:トルーマンは,ソ連軍が占領すべき場所のリストに千島を「うっかり」入れ忘れるというような事もやっていた。
*5:前掲書,p.78からの孫引き。
*6:ソ連軍が人命を軽視していた事は有名。
*7:ソ連軍の水先案内人を務めさせられた水津満少佐は,ソ連軍が得撫島で反転するのを見た。彼が問い質したところ,「あそこから先はアメリカの管轄だ」と言われたという。これはソ連が当時択捉島以南を本来の日本領と見なしていた証拠だ,とする解釈が大勢を占めている。
*8:平成19年度自由主義史観研究会全国大会レポート/授業案 占守島の戦い − 自由主義史観研究会。
*9:前掲書,pp.122-123。
