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Danas je lep dan.

2008-11-11 ボスニアで何が起きたのかを明らかにする為に

[][]ムラディチの捜索は終わらない

 ボスニア戦犯ムラディッチ被告の捜索 - AFP通信

【11月11日 AFP旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia、ICTY)に起訴されているラトコ・ムラディッチ(Ratko Mladic)被告(66)の行方を追うセルビア治安部隊は10日、同国南西部バリェボ(Valjevo)にある大手企業Vujic Valjevoの工場を捜索した。内務省関係者が明らかにした。


 Vujic Valjevoは窓ガラスやペットボトル入り飲料水を生産している。工場のほか同社が管理する住宅の家宅捜索も行われた。

 セルビアの秘密警察を率いていたゴラン・ペトロビッチ(Goran Petrovic)氏の2006年の報告書によると、ムラディッチ被告は2001年、保安当局の電話傍受により、バリェボに潜伏していたことが分かっている。

 先日,スルプスカ共和国の二大戦犯のひとりラドヴァン・カラジッチが捕まって,セルビアは自分が戦犯追及に本腰を入れている事を見せつけた。今回のヴイッチ・ヴァリェヴォの捜索で有効な手掛かりが見つかる事を祈りたいが,カラジッチが拘束された今,全力でムラディチを守ろうとする人は大勢いるだろう。彼が逃げおおせ,どこかで人知れず死ぬというのは最悪のシナリオだ。

 早くムラディチが見つかり,法廷に引き出される事を望む。

[]どう見ても強制移住です,本当に有り難うございました

 今回のテクストは,『わしズム』の「国民としてのアイヌ」(p.11-50)のPart18「戦争で同化してアイヌの英雄も出た」(p.36-38)。

樺太アイヌの山辺は樺太千島交換条約の際に9歳で北海道対雁(ついしかり)に移住する。


サヨクはこれを「強制移住」と糾弾するが,山辺の叙述では移住はアイヌ自身の選択であり,しかも移住後3年間は食料を支給され,学校卒業後に働いた漁場も豊かで,何一つ不足はなかったという。


しかし明治19年にコレラ天然痘で樺太アイヌ移住者の1/3ほどにあたる三百数十人が死んでしまう。サヨクはこれを,和人が樺太アイヌを強制移住で死に追いやったと喧伝する。


だがこの年は全国でコレラと天然痘が大流行し,14万人もの死者が出ているのだ。(p.37)

 ああ,確かに移住は「樺太アイヌの選択」だね。途中までは。

 サハリンアイヌは,もともと暮らしていたサハリンに残るか,それとも日本の領土へ移住するかを選択するように求められた。〔千島樺太交換条約締結〕当時,サハリンアイヌの多くは漁場で雇われており,雇い主である伊達,栖原ら漁場請負人が漁場を閉鎖して引き揚げることを決めたことから,全体の約三分の一に相当するサハリンアイヌが対岸の北海道・宗谷地方への移住を決心したといわれている。


 「このころまでに,彼らの生活は漁場がなくては成り立たなくなっており,漁場主との深い関係,そして日本政府の保護を信じたことが,サハリンアイヌを移住に踏み切らせた」と,この問題に詳しい田崎勇氏は述べている。


 また,日本政府の理事官長谷部辰連が島民に出した布達では,日本人は日本国籍のままでサハリン島に残って自分の職業を営むことができたが,先住民国籍の属する領土内に居住しなければ権利を得ることができなかったために,日本国籍を選んでサハリンに住み続けることはできなかった。このこともサハリンアイヌの決断に少なからぬ影響を与えたものと思われる。


 移住は翌一八七六年(明治九年)の九月から十月にかけて行われ,宗谷に旅立った人数は八百四十一人にも上ったといわれている。しかし,開拓使は当初から彼らをさらに内陸の北海道中央部・石狩地方対雁(現在の江別市)に移し直して,農業に従事させる方針であった。説得が続けられたが,どうしても内陸への移住は聞き入れられない。


 逆にサハリンアイヌの側から「石狩の地は海に遠く,生活ができない。集団での生活は病気の流行には危険である。強行するなら単独で樺太へ渡り,途中海で死んでもいとわない」などとの強い請願書が提出されるほど,反対は強硬であった。


 サハリンアイヌの人々が「石狩か厚田地方の海に近いところならば」とまで譲歩したことから,開拓使は彼らを船に乗せることに成功し,銭函沖辺りで対雁移住がもはや変更できないことを申し渡した。船中は騒然としたという。しかし,この時サハリンアイヌには既に抵抗する余地は残されていなかった。


 開拓使は,移住させた人々が農業に意欲を示さないのを見て,労働に耐える者は海の近くに出して漁業に従事させる。しかし,最初は順調だった漁場経営ものちに不漁続きで困難に陥り,一八八六年(明治十九年),一八八七年(同二十年)とコレラ,天然痘が流行すると人口も一挙に半減して,労働力も失われた。*1

 幾ら言葉を繕っても,「騙し討ち」としか表現の仕様がないだろこれは。

 で,食糧を支給したとか言ってるけど,上に挙げた状況で食糧支給しない国家ってどれだけ鬼畜なのさ。んな当たり前の事持ち出されて正当化されるような事か,これが? 病気の件にしても,アイヌ自身が「集団で住んだらいずれ病気が大流行しかねない」って危惧している訳で,「仕方ない」で済む話じゃないだろう。

 小林がソースとして挙げた本はまだ読んでいないので,その本についての論評はしないけれど,小林の言い分は明らかに史実を歪めている。ああ確かに樺太アイヌの移住は自らの意志だったさ(国籍規定の先住民差別を除けば。それともこの規定も「国防上の理由」とやらで正当化されるのだろうか?)。けれど対雁移住までのプロセスを見ると,開拓使が彼らの意志を無視して強引に彼らを希望とは違う場所に移住させてしまった事は明白であって,それを「強制移住」というんじゃないか。

 いつもの事だけど,本当に史実の歪曲が大好きな人だよなぁ。

*1:小坂洋右『流亡――日露に追われた北千島アイヌ』北海道新聞社道新選書),1992,pp.25-27。強調引用者。〔〕内は引用者が補った。