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Danas je lep dan.

2008-11-11 ボスニアで何が起きたのかを明らかにする為に

[]どう見ても強制移住です,本当に有り難うございました

 今回のテクストは,『わしズム』の「国民としてのアイヌ」(p.11-50)のPart18「戦争で同化してアイヌの英雄も出た」(p.36-38)。

樺太アイヌの山辺は樺太千島交換条約の際に9歳で北海道対雁(ついしかり)に移住する。


サヨクはこれを「強制移住」と糾弾するが,山辺の叙述では移住はアイヌ自身の選択であり,しかも移住後3年間は食料を支給され,学校卒業後に働いた漁場も豊かで,何一つ不足はなかったという。


しかし明治19年にコレラ天然痘で樺太アイヌ移住者の1/3ほどにあたる三百数十人が死んでしまう。サヨクはこれを,和人が樺太アイヌを強制移住で死に追いやったと喧伝する。


だがこの年は全国でコレラと天然痘が大流行し,14万人もの死者が出ているのだ。(p.37)

 ああ,確かに移住は「樺太アイヌの選択」だね。途中までは。

 サハリンアイヌは,もともと暮らしていたサハリンに残るか,それとも日本の領土へ移住するかを選択するように求められた。〔千島樺太交換条約締結〕当時,サハリンアイヌの多くは漁場で雇われており,雇い主である伊達,栖原ら漁場請負人が漁場を閉鎖して引き揚げることを決めたことから,全体の約三分の一に相当するサハリンアイヌが対岸の北海道・宗谷地方への移住を決心したといわれている。


 「このころまでに,彼らの生活は漁場がなくては成り立たなくなっており,漁場主との深い関係,そして日本政府の保護を信じたことが,サハリンアイヌを移住に踏み切らせた」と,この問題に詳しい田崎勇氏は述べている。


 また,日本政府の理事官長谷部辰連が島民に出した布達では,日本人は日本国籍のままでサハリン島に残って自分の職業を営むことができたが,先住民国籍の属する領土内に居住しなければ権利を得ることができなかったために,日本国籍を選んでサハリンに住み続けることはできなかった。このこともサハリンアイヌの決断に少なからぬ影響を与えたものと思われる。


 移住は翌一八七六年(明治九年)の九月から十月にかけて行われ,宗谷に旅立った人数は八百四十一人にも上ったといわれている。しかし,開拓使は当初から彼らをさらに内陸の北海道中央部・石狩地方対雁(現在の江別市)に移し直して,農業に従事させる方針であった。説得が続けられたが,どうしても内陸への移住は聞き入れられない。


 逆にサハリンアイヌの側から「石狩の地は海に遠く,生活ができない。集団での生活は病気の流行には危険である。強行するなら単独で樺太へ渡り,途中海で死んでもいとわない」などとの強い請願書が提出されるほど,反対は強硬であった。


 サハリンアイヌの人々が「石狩か厚田地方の海に近いところならば」とまで譲歩したことから,開拓使は彼らを船に乗せることに成功し,銭函沖辺りで対雁移住がもはや変更できないことを申し渡した。船中は騒然としたという。しかし,この時サハリンアイヌには既に抵抗する余地は残されていなかった。


 開拓使は,移住させた人々が農業に意欲を示さないのを見て,労働に耐える者は海の近くに出して漁業に従事させる。しかし,最初は順調だった漁場経営ものちに不漁続きで困難に陥り,一八八六年(明治十九年),一八八七年(同二十年)とコレラ,天然痘が流行すると人口も一挙に半減して,労働力も失われた。*1

 幾ら言葉を繕っても,「騙し討ち」としか表現の仕様がないだろこれは。

 で,食糧を支給したとか言ってるけど,上に挙げた状況で食糧支給しない国家ってどれだけ鬼畜なのさ。んな当たり前の事持ち出されて正当化されるような事か,これが? 病気の件にしても,アイヌ自身が「集団で住んだらいずれ病気が大流行しかねない」って危惧している訳で,「仕方ない」で済む話じゃないだろう。

 小林がソースとして挙げた本はまだ読んでいないので,その本についての論評はしないけれど,小林の言い分は明らかに史実を歪めている。ああ確かに樺太アイヌの移住は自らの意志だったさ(国籍規定の先住民差別を除けば。それともこの規定も「国防上の理由」とやらで正当化されるのだろうか?)。けれど対雁移住までのプロセスを見ると,開拓使が彼らの意志を無視して強引に彼らを希望とは違う場所に移住させてしまった事は明白であって,それを「強制移住」というんじゃないか。

 いつもの事だけど,本当に史実の歪曲が大好きな人だよなぁ。

*1:小坂洋右『流亡――日露に追われた北千島アイヌ』北海道新聞社道新選書),1992,pp.25-27。強調引用者。〔〕内は引用者が補った。

久間知毅久間知毅 2008/11/12 22:22 日本近代史の暗部ですね……
あの時代、侵略しなけりゃ生きていけなかったことは確かですが、それへの後ろめたさなのか、強固に否定したり、かと言ったと思ったら仕方なかったと言い出したり。
仕方なかったと言ったとしてもその主張は歪められていて、さり気なく事実の歪曲がちりばめられ……

時代というものに勝てなかった。それは仕方ないにしても、そこから導かれる未来への教訓を得ない彼らのやり口には本当に閉口するというか、なんというか……。仕方ないならなんでも免責されると思ってるのでしょうかね^^;

MukkeMukke 2008/11/13 20:07 久間知毅さん>
最初宗谷に移住したアイヌは,樺太よりも環境が良いと喜んで,そこに定住する決意を固めていたようです。けれど,無理矢理黒田清隆開拓使長官が移住させてしまった(反対する官吏もいました)。その結果,多くの死者を出した――。日本近代史の暗部としか言いようがないですね。

>時代というものに勝てなかった
反対していた官吏もいたので,「仕方なかった」というレヴェルではなく,明白な国家犯罪だろうと思います。

>仕方ないならなんでも免責されると思ってるのでしょうかね
こういう,被害者側を顧みない発想には無性に腹が立ちますね。

と 2012/05/23 14:48 北海道新聞に平成21年6月21日付けで強制移住とされている

まず、始まりとして1875年の樺太・千島好感条約があるね
これで樺太アイヌが日露どちらかに帰属することを自らの意思で決める、ということになった

ロシア人のチェーホフによれば、当時、樺太アイヌの生活は和人の請負人との交易で
昆布を売って、結構潤って裕福だった。でも、ロシア領になってからは虐殺事件・婦女暴行も
起きるようになり、日本人が樺太から退去して以来、漁業をする人が激減した
(魚を取る人は一人も居なかったとか)

稼ぎが無くなったのでアイヌ女性が奴隷として売られて犬以下の扱いを受け、飢えるようになり、
樺太に残留していたアイヌ達は北海道へ移動し続けて、樺太のアイヌ人口は半減してしまった

開拓使は日本への帰属を希望したアイヌを宗谷で落ち着かせたのだけれど、
自然環境が厳しく、樺太近くの土地にアイヌを置くと国際紛争の元になると看破して
現在の江別市へ移住させた。さて、この江別市への移住が強制移住かと思いきや、それは違う

開拓使はまず(元)樺太アイヌ達に移住を提案したのだけれど、異議を唱えられた
そこで話しあい「酋長格の者達が江別を実地調査して結果が良ければ応じる」でまとまった
調査の結果「移住しない」という結論が出たのだけれど、開拓使が厚田と石狩の漁場を与える
条件を出したことで合意に至り、樺太アイヌは江別へ移住することとなった

更に「樺太移住土人ニ対スル救護並ニ授産計画」で保護育成をはかった
・移住から3年間の食糧保証(2万8千円。一人当たり年11円弱)
・住宅建築費(5千5百円。一戸当たり55円)
・石狩と厚田の漁場買い上げ費用予算(8千4百円)
・アイヌの自治組識をそのまま利用して酋長や幹部を役職につけ月給を支給
(当時江別(その頃の地名は対雁。ついしかり)に赴任した小学校教員の年俸が10円だった)

以上の様に、樺太アイヌが樺太を出たのは自分達の意思
江別(対雁)へ移住したのは、ちゃんと合意の上で破格の条件を示した上でのこと

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