2008-11-29 俺は永遠の中学二年生です。
■[虹][ネタ]「これがッ……厨二病の力かッ……!」
この歳になっても未だに厨二病を患っている俺としては,何というか臓腑にグサグサ突き刺さってくる替え歌です。痛い痛い。
それでも,上で挙げた動画はまだWIMの替え歌として笑えるツボとかも装備されているから(オチが秀逸),そこまで痛くはないのだけど,次の動画は致命傷。
■[読書][ナショナリズム]東欧はわれわれに重要な視座を提供する
ソ連の研究者である塩川伸明氏がナショナリズムについての本を書いたと聞いて,早速読んでみた。ナショナリズムを論ずるというのは世界中で起きた事象を総括する訳で,そこには自ずから著者の個性――つまり,どのようなフィールドを専門としてきたか,という事が滲み出る。東欧に関心を持つ人間として,旧ソ連をフィールドとする研究者が執筆したナショナリズム論が出るというのは素直に嬉しい。
- 作者: 塩川伸明
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/11/20
- メディア: 新書
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本書では,まず,エスニシティやネイション,ナショナリズムといった概念の解説が行われる。二つの概念は決して同一の発展段階上にあるのではなく,例えば多様なエスニシティを包含するネイションというのも有り得る。著者は,ヨーロッパ諸言語における「ネイション」の用語法について説明する。原初主義や構築主義について触れているのも親切だ。
そして,一般論を述べた後に世界の個々の事例を紹介し,世界各地の「国民国家」や「民族自決」に言及する。そこで強調されるのが,旧ソ連・東欧におけるネイションの不安定さである。それらの地域において,建国された国家は必然的にマイノリティを多く抱え込む事になった。彼らをどのように「統合」するか,あるいは差異を固定していくか,という流れが概説的に示されており,日本人にとって馴染みの薄い(であろう)それらの地域が内包する問題をわかりやすく解説している。
最終章ではナショナリズムとどのように向き合うべきか,という事についての著者なりの答えが示されている。
概説書としては,旧ソ連・東欧にスポットを当てネイションとナショナリズムについて論じようとした点で,良書といいたいところなのだが,何箇所か疑問点を憶えずにはいられなかった。
まず,中国のナショナリズムを論じた箇所において,著者はこう言う。
もう一つ重要なのは,一七世紀から二〇世紀初頭の中国を支配した清朝はまさしく外来王朝だったという事実である。儒学と漢字文化を最上位におく「華夷思想」においては内陸アジア世界があくまでも「夷」の世界にとどまり,「華」の世界に組み込むことができなかったが,元来が「夷狄」の出身だった清朝の支配者は「華夷思想」を批判して,「中外一体」という一種独自の多元主義的統合原理をとることで,漢人中心の世界と内陸アジア世界(モンゴル,新疆,チベットなど)を結びつけ,後の中国に引き継がれる領域統合を進めた。その広大な領土には,多数の異なった文化・言語が存在し,宗教的には儒教,シャーマニズム,チベット仏教,イスラームが併存していたが,その全体が一つの領土に統合されたことは,その後の中国における「国民」形成への一つの歴史的前提となった(平野聡『清帝国とチベット問題』,同『大清帝国と中華の混迷』)。(p.75)
平野氏の本を参照しているのは,本書の信頼性を貶めるものだろう。何故なら,彼の『清帝国とチベット問題』は歴史学の世界では歯牙にも掛けられていないからだ。
チベット・モンゴル・満洲史の研究者である石濱裕美子氏は,以下のような痛烈な書評を寄せている。
http://tibet.que.ne.jp/okamenomori/qing.html
しかし、ここで問題となるのは、本書のどこを探しても、肝腎の「多民族統合」「版図統合」なるものの実体が説明されていないことである。[……]
本書は清朝の他民族の支配原理や価値などをモデル化して示す、数々の図式に彩られている。しかし、学術研究というものは、そのジャンルの如何に拘わらず、個別の事例研究を積み重ね、それらを演繹ないし帰納することによって普遍的観念などを抽出したり、モデル化なりを行うものであろう。本書が主張する、清朝によるチベット・モンゴル等との統合という問題は、特にその存在の有無自体が議論されている研究対象であり、このような場合はなおさら、政治、法制、宗教、外交などの様々な分野における各時代の各事件ごとの具体的な事例研究を行った後に、両者の関係像を論ずることが求められる。しかるに、本書においてはこれらの検証も行わないまま「統合」の存在を所与のものとして扱い、実体なき観念論をそのまま実在世界へとあてはめようとする。これは歴史学、政治学という学問のジャンルの相違以前に、学術研究の姿勢として問題があろう。
[……]チベット、モンゴル、新疆、満洲史の研究者たちは、みなこうして一次史料に基づいて史料批判を行いつつ、事例研究を積み上げる努力を行ってきた。平野氏が「外部に強制力を伴った」実効的な「多民族統合」なるものを主張するのであれば、統合の当事者である民族の言語――漢文のみならず、満洲語やチベット語やモンゴル語――の、それも一次史料を批判的に用いてその存在を証明することが要求されよう。
片方は『東洋史研究』に掲載されたものなので,ソ連現代史を専門とする著者が知らないのも無理はないが,『歴史学研究』に寄せられた書評くらいは押さえておいてもよかったのではないかと思う。それだけでなく,別の研究者が『史学雑誌』において平野氏の著書を批判しているのだ*1。著者が,せめて『史学雑誌』に寄せられた書評だけでもチェックしていれば,彼の著書を引用して清朝を論じる事はなかっただろう*2。著者の専門外の対象について,著者が真に適切な説明をしているかどうかがもはや疑わしく思える。
次に,著者は明治時代にアイヌ,琉球という二つの別個のエスニシティが日本に組み入れられた事について扱っているが(pp.79-80),ロシアとの駆け引きの為に「日本人・アイヌ同祖論」が持ち出されたと説明する。しかし,日本側の用いたロジックは「アイヌはわれわれに朝貢している日本の属民であり,日本の属民たるアイヌの居住する土地は日本領」という,中華思想的世界観に基づいたものではなかったろうか*3。この観点は日本の国家形成を考える上で興味深い観点だと思うが,著者はこれを採用していない。ぼくは日露交渉史について多くを知っている訳ではないから誤りとまでは言わないが,残念な事である。
【12/5追記】
最大の疑問点を書く事を忘れていた。著者の論じる「ナショナリズム」が,学問的なそれを指すのかそれとも通俗的に言われるそれを指すのかが時々不分明になる。著者の中でも整理がついていないのではないかと心配になってしまう。大風呂敷を広げるあまり対象が曖昧になってしまってはどうしようもない。
【追記ここまで】
これらの不満点はあるが,総じてよく纏まった書籍であるとは言える。新書でナショナリズムを扱おうというのであるから,内容はメタ議論的なものに成らざるを得ないが,その点も巻末に邦語文献に限った読書案内を附しており,これから学ぼうという人間にとっては良いガイドといえるだろう。ただし,著者の専門分野である旧ソ連や東欧以外についての認識は疑ってかかった方が無難である。
