人と在る。


アルテピアッツァは過ごして実に気持ちが良い。
いつ訪ねても、自分は充実した時間を過ごせる。


冬の誰も居ない風景も好きだけれど、
暖かくなった頃に人の集う風景は素敵だ。
特に子供のある風景は見惚れてしまう。


なぜ、あれほど納まりが良いのだろうか?


ここの野山も他聞に漏れず、楽しい場所に違いない。
ただ、一般には「何もない」と形容される風景でもある。


そこに彫刻が介在する。ここの彫刻はそれが主役とは
ならず、野山と人とを結びつける役割を担う。
(・・・ように自分には見える。)


子供なら(今の子は難しいこともあるかもしれないけれど)、
教えずとも野山の遊びは知っている。
大人は照れてしまうことも多いだろうか。


例えば単純に順路を示す、ここに何かある合図となり、
それが地図の様々な記号のように点在するなら、
そしてそれを主役とはならない彫刻が担うなら、
野山を遊ぶ「標」になれたりするだろうか。


印象的である幾つかの大理石の「門」型の彫刻は
単純な幾何学で明快な造詣故に、その白さを自然と
強く対比させて「標」となっている。
それらが拠り所となり、風景を引き立てるものと思う。


ただ、自分にはもう一つの興味を、初めて訪ねた時から
覚えていた。幾度も訪ねた末に、今は確信もしている。
それは、彫刻の「大きさ」。そこに強い関心があった。


子供が並んでも威圧せず、大きな大地、自然の中でも
小さくは見えない。その最適と思える大きさこそが、
ここの魅力の最も重要なことではないか?と思う。


何年か前、そう気が付いて、居ても立っても居られず、
メジャーを持って訪ねたことがある。


実地計測。しばしば出会う、敷地内を清掃などの
管理をされているお兄さんに「計る人は初めてです。」
のようなことを言われた覚えがある。


秘蔵のパース。大きな3つの白い「門」型の
大理石の彫刻を並べてみた。


芸術鑑賞では意味があるとは思えないのだけれど、
自分の興味を計る上では非常に重要な資料となった。
計測は、実に素敵な経験であった。






実際はこの彫刻と子供が並ぶ風景が良い。
では、どのような大きさで並ぶと良いのか?





建築模型やパースでしばしば、その大きさを
確認、伝えるために人を置く。試しに、大きさを
違えて大中小を並べてみる。


人と彫刻の関係は、その大きさによって印象が
随分異なることが分かる。


1枚目は威圧的過ぎるし、3枚目はおもちゃみたいだ。
アルテの彫刻は2つ目が大体の目安である。





大きさを決める、という作業は実は膨大な作業だ。


建築なら工業製品の規格、木造なら標準寸法体系、
人から導かれる緒寸法など、最適を知らず求めずとも、
誰にでも直ぐに使える寸法は用意されてはいる。


彫刻のような一般的な機能を担わない造詣には、
なんら根拠はないだろう。自由な寸法が使える。


しかし、人との適当な関係を作る大きさを導くとなれば、
これは、実は想像を絶する作業に他ならない。
なんら基準がないのだから、ただ人を知るのみ。


この正解など存在しない問い、「スケール感覚」とは
実は建築においても重要な設計要素、そのものでもある。
最適な大きさは、機能を備えていてすら、やはり困難だ。


なぜ難しいのか?


例えば「居心地が良い」とは良く聞くうたい文句だ。
しかし、どうすれば居心地が良くなるのかは、誰も
言及することが出来ない。言葉はあっても答えがない。


好きな椅子があったり、飲み物があったり、陽射しだったり、
様々なものが充実しても、居心地悪るくすることは実に
容易であり、良くする術は確立されず、得るのは実に難しい。


アルテで導かれたこれらの大きさは、ここでしか通用しない。
心地良いと感じる、この上なく良質な事例であると確信している。




昨年の札幌での屋外展示、気になったのはやはり大きさだった。
アルテのサイズをそのまま市街に持ち込み設置するなら、おそらくは
小さく、石の重みを加えても軽い存在になるだろうと予想していた。


で、あるものはここで見られるよりも一回り大きいサイズとなっていた。
・・・大きかった!


流石だなと感心させられた。そういうことをキチンと知って
取組める人だからこそ、アルテのような素敵な空間を創造できる。


ここで書いたことはあくまで自分の問題意識であり、
共有する問題意識なのか、確認したことはない。
どういう意識されているのか、作者と話してみたい。