今年最後の打合せ。

結局、判断は年越しなのだけれど、
年の終わりの見える今日は案外、
気ままで時間猶予の許される、
緊張の抜ける感も時折否めないものの、
それは次への課題を膨らませるチャンス、
しかも幅広く話す事の出来る有意義さ、
何をしたいのか? 想いを伝えられただろうか。
・・・道が見えてきたところであり、
悩む事が出来るにまでに漸く至る。
これが今年最後の打合せだろうか。





「選ぶ道がなければ、迷うこともない。
 私は嫌になるほど自由だった。」

・・・『鞄』という短編の最後の文。
打合せへの往来の地下鉄で読み終えたのは、
阿部公房の『笑う月』。


『発想の種子』から・・・
「だから不安なのだ。明確に、発芽の状況を
 見きわめるまでは、はたして自分が今も
 作家であるのかどうか、どうしても確信を
 持つころが出来ない。ただ、知らぬ間に
 取り込んだかもしれない種子に期待して、
 その時がくるまで待ちつづけるしか
 ないのである。」と記されていて、
それが心からの言葉に感じられ読み出した本。
短編にはふくよかさはないけれど、
骨格はしっかりと在り、読み応えがある。


前述の「嫌になるほど・・・」と言う表現は、
如何にも小説的、実際に使ってみたくなる。
ちょうど今日の打合せ、現実的な断面の梁で
無柱空間の出来る居室が事が判明、その際に、
「嫌になるほど・・・」と使おうか?迷った。
カッコ良過ぎて照れ、使えなかったけれど。
木造の性能はE(=材の強度は材種)と
I(=断面性能は断面の大きさ)との関係、
材種はコストに、断面の大きさは室内に、
様々に影響するものの中からベストを、
少なくともベターを探し選ぶ作業は結局、
創り上げるとしか言えない途方の無い仕事。



因みに、『自己犠牲』の話は、白熱教室の功利主義
サンデル先生と議論したくなる。





と、意味不明な事を書き込みたくなる程に未だ、
今年が終わって欲しくはないのに意識はしていて、
「でも年賀状は送ってね!」と記された古い友人の、
喪中のハガキがプレッシャーにもなっていて、


昨今贔屓にしている珈琲店で、
打合せの際に思いついたアイディアを絵にし、
この夜更けにCADで寸法を当ててみると、
二つに絞り判断を年越しとした部位が実は、
三つの考えに増えて複雑化しただけで、


今年最後だから美味しくと注文したのに、
それが本当に美味しかったなら、
日常が何だったのか?という事になるし、
特別が日常であって欲しくあり、
日常が特別なら嬉しい事であり、
「でも、気合は入りました!」と出された
珈琲は美味しかった。



・・・嫌になるほど自由過ぎるので、
出来るだけもう少し自分を整理したい。