I’m here
ef - a tale of memories. の第10話。エンディングテーマと同じタイトル。つまり、宮村みやこ編の区切りに合わせてあるってことだろう。
びっくりするほど動かない。宮村みやこの話のハイライトだったのに。しかし、そんなことは関係ない。動きをひたすら抽象化している。京アニとはまるで逆のベクトルだが、印象に残ればそれで正解なのだ。
作中の広野紘のセリフじゃないが、今回はとにかく自分のことをしゃべりまくる話で、とにかくしゃべりまくっている印象こそが重要だったのだ。特に変な風には感じなかったから、全体の演出としては全然問題ないと思う。まあ、手を抜いているように見えるというか、動かす方には力入ってないなとは思うけど。カード残数の演出は、ちょっとチカチカさせすぎていて、別に夕陽でみやこが消えていく演出だけでも良かったなとも思う。広野の口調が変わるのと、最後まで広野の画を出さないのは良かったと思う。あと、だんごっぽいカードとか。
しかし、今までだと新藤姉妹は姉妹揃って報われてないなというのと、湧いては消える雨宮優子に登場人物が普通に会話しているのがまるっきり謎なのが、こなれてない印象。
頭内定位ったって、耳で聞いてるんだし。
描きたい絵が描けるとは限らないし、時間的連続は読者が決めるのであって、作家がコントロールできるわけでもない。第一、そのレベルの低い読者がいるとするならば、レベルの高い漫画家の画を見ても、どうせろくに見もせずに自分のレベル分の情報しか受け取らないと考えるべきだろう。そんなの、小説でも映画でもゲームでも漫画でも同じなんだぜ? 見たことしか見えないし、右手を動かそうと思う2秒前には、右手の筋肉が準備を始めている世界なんだぜ?
あと、個人の想定しなかった世界を、多人数の意識の共有が生み出す可能性も無視したくない。
つまり、ぼくはあんまり漫画読まないし、そんなの知らねーよ、と。知らないなら語らない方がいい。大体、漫画って大抵モノクロじゃん。作家の頭の中はモノクロなのかよ。ドットと網掛けは色なのか模様なのか。まあ、モノクロフィルムにこだわる映画監督とかカメラマンとかもいるから、漫画に限ったことじゃないけど。