腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

でかすぎ

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インパクトのあるタイトルだな。ていうか腑抜けて言葉、久しぶりに聞いた気がするわ。よく考えると凄い言葉だし。今時「この腑抜けが!」てな台詞を日常的に使う人いるんだろうか。
  
と、タイトルからしていかにも演劇的な映画だけど、それもそのはず、原作となったのは演劇会で今最も注目を集める若手戯曲家、本谷有希子の代表作。「劇団・本谷有希子」による青山円形劇場での公演は、かなり話題にもなった。これまで戯曲、舞台、小説(三島由紀夫賞候補)と様々なスタイルで発表されてきた作品なので、知っている人も多いかと。
  
てことで、粗筋の詳細は省略。両親の訃報を受けて実家に戻ってきた超ゴーマン女・澄伽と、かつて澄伽の秘密を暴露したことのある妹・清深。姉妹にとっての義兄で過去に澄伽とやっちゃった宍道、そしてそんな家庭の事情をなーんも知らない、超お人好しの(宍道の)妻・待子。この腑抜け揃いの「和合家」が、壮絶なる崩壊ドラマを展開する…まあ、簡単に言えばそんな話。違ったらゴメン。
 
映画版での配役は長女・和合澄伽に佐藤江梨子、義兄の和合宍道永瀬正敏、その妻の待子に永作博美、そして次女(妹)清深に佐津川愛美
  
映画版に対する感想は、「やはり舞台演劇向きの話だな」てこと。キャラがどれも単純明快、濡れ場で役者が脱がない、てなことは舞台上だったら何も問題ないんだけど、こと映画となると非常に不自然。佐藤江梨子が脱がないのは事務所の方針もあるのだろうけど、だったらそーゆー役者を選ぶべきじゃなかったかも。背中だけとか上半身の下着までとか、状況に対して構図が不自然なので興を削がれるのよ。別に裸が見たいワケじゃなくて、明らかに「あーこの役者は裸NGだからこのアングルなんだろうなあ」と察せられるとドラマに集中できないからね。宍道と待子夫婦のカラミも男の脚で目隠ししたりするし。昔のピンク映画か!
長く撮る(見せる)必要はないんだから、艶めかしいシーンはそれなりに描かないと、本作のドロドロした世界が引き立たないだろうに。ていうかさ、不自然なカメラアングルでリアリティが壊れるのは勿体ないことだよ。
  
キャラの単純化も、いかにも舞台演劇的。というか、ここまでいくと漫画的か。遠くから全体を眺める舞台と違い、映画の場合、登場人物を単なる記号として扱うには生々しすぎる。原作と異なるエンディングはすごく良かったが、そこに至るまでも、もう少しリアルな質感が欲しかった。ような気がする。
 
とはいえ、これは映画版に限った事じゃないけど、やはり澄伽のキャラは面白い。自分は他人とは違う特別な存在であって、自分が成功しないのは周囲のせいだ、という全く根拠のない自信が笑える。失敗したら何でも他人のせいにして、自分が悪いとは決して思わない。実にアメリカンなキャラで、ここまで徹底してると見ていて気持ちいい。友達にはなりたくないけど(笑)。そう思うと、本作の面白さは「リアリティ」なんてものを超越した所にあるのかもしれんな。よく分からんけど。
 
あと映像的には田舎の風景きれいだった。役者では借金取り役の谷川昭一郎が、軽さの中に酷薄さが滲む名演。
  
初夏頃(いつだよ)公開。
 

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