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・札幌国際芸術祭2017

16日の記者会見と17日パブリックミーティングの様子が、北海道新聞朝刊に掲載されました!
大友さんのトークでも度々話題にしていた北海道との関わりについて拙文ですが寄稿しました。
いよいよスタートですね🎶♬

●「大友さんはいつも僕の予想を裏切り、未知のシーンへ導いてくれる」
 
札幌国際芸術祭企画チームのエグゼクティブアドバイザーに選ばれた札幌の企画団体主宰沼山良明さんは、30年以上にわたり芸術監督の大友良英さんと交流があるという。大友さんのこれまでの活動や札幌とのかかわりについて、沼山さんに寄稿してもらった。

大友良英さんとの出会いは1984年11月、
孤高のギタリスト、高柳昌行さんのただ一度となった北海道ライブツアーの時だった。ライブを映画に残すため帯同したジャズ評論家副島輝人さんとともに、高柳さんと副島さんのアシスタントとしてやって来たのが弱冠25歳の彼だった。
 札幌では宿泊費節約のため、当時ひとり暮らしだった僕の部屋に、大友さんだけ泊まってもらった。2人で深夜まで熱く語り合い、朝は起床するとすぐにギターの練習に励むひたむきな姿に、彼の非凡さを直感したことを覚えている。
 その後、近況を伝える手紙がたびたび届き、同時期「ジャズライフ」誌にジョン・ゾーンやクリスチャン・マークレーら、世界最新の音楽シーンについて執筆したコラムを読み、ますます彼の動向が気になっていた。
 ある日、「札幌で今僕がやっている音楽を聴いてくれませんか」という手紙が届き、90年3月、ターンテーブルとギター・ソロによる大友さんの札幌初ライブが実現した。
 その後、大友さんが共演者として国内外から札幌に紹介してくれたミュージシャンは、道内では全く無名ながら、世界最先端の即興演奏家たちばかりで、僕の音楽観や僕が主宰する企画団体「NMA」のライブ活動に、多大な影響を与え続けてくれている。
 93年5月、ドイツのメールス・ニュージャズ祭に、大友さんが出演することになったので4年ぶりに観に行った。3日目に登場した「大友良英GROUND ZERO」は、ノイジーかつ驚異的パワーで大観衆を圧倒し、アンコールの後も鳴りやまぬ拍手の中で、「世界の大友良英」誕生の瞬間を目の当たりにし、思わず目頭が熱くなった。
 その後、欧米各地で開かれる前衛的なフェスティバルやライブの常連としてツアーを重ねた。時には企画を担い、日本の優れたミュージシャンたちを次々と紹介する、貴重な役割も果たしてきた。またそんな多忙なツアーの連続の最中に札幌を訪れ、わが家でくつろぎ疲れを癒やしたこともあった。
 いつも僕の予想を良い意味で裏切り、1カ所に留まることなく、常に未知の新しいシーンへと導いてくれる。93年から映画やドラマの音楽、2005年からは100台ほどのポータブル・レコードプレーヤーを使った、音の出る展示作品など次々と新しい分野へ活動を広げた。さらに東日本大震災を機に、さまざまなプロジェクトを立ち上げて活動の幅を広げ、日々進化し続けている。そんな大友さんの姿を、古希を過ぎた僕のこれからの人生で、どこまで見届けられるか興味は尽きない。
 「芸術祭ってなんだ?」をテーマに、大友さんが目指す札幌国際芸術祭とは何か? 市民を巻き込みみんなで創(つく)る芸術祭とは何か? 
 わくわくする2017年が楽しみだ!
  (ぬまやま・よしあき=NMA主宰)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.13(最終回)


 昨年夏、初めて開催された札幌国際芸術祭の特別プログラムとして、「フェスティバルFUKUSHIMA! 北3条広場で盆踊り」が8月10日に開かれ、4千人の来場者で盛り上がった。
 福島発のこの盆踊りは、あのNHK朝ドラ「あまちゃん」の音楽を手がけた大友良英が、ドラマで親しまれた曲などを盆踊り風にアレンジし、16人編成の「大友良英スペシャルビッグバンド」の生演奏と、「珍しいキノコ舞踊団」の振りを手本に踊るという、この上なく新鮮で贅沢なイベントだった。
 また、前日夜はNMA主催で、念願だった同ビッグバンドのライブを実現。「あまちゃん」のテーマや挿入曲、フリージャズ、ノイズ、即興などのテイストが混沌とした大友流音楽に、超満員の聴衆が熱狂した。
 数日後に盆踊りダイジェストの動画が、札幌国際芸術祭公式YOU TUBEに公開された。大友良英がインタビューで、「札幌では30年前からNMAと縁があり、第二の故郷ともいえるこの地で盆踊りができ、大勢の皆さんに楽しんでもらえたことが嬉しい!」と答える姿に胸が熱くなった。長年彼の進化を見続けてきた僕にとっても、まさかいっしょに盆踊りに関わるなんて思いもよらなかった。
 大友良英のみならず、これまでNMAライブやフェスティバルに出演し期待に応えてくれたミュージシャンや、活動を支えてくれた仲間たちは数え切れない。出会いが出会いを生む連鎖は、人生をこの上なく楽しく豊かにしてくれると改めて思う。
 「されど音楽」も最終回。拙文ながらも読んでいただいた皆さんに感謝しつつ、「さっぽろ八月祭2015」と、名称を新たに開催される盆踊りや、NMAライブでまたお会いしましょう!
(NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.12



 日本のジャズが急速に進化した1970年頃から、北海道でも各地でジャズコンサートが開かれるようになった。主催するのは熱心なジャズファンたちで、「ネムロ・ホット・ジャズクラブ」に代表されるように、地域のジャズ喫茶などを拠点に、熱気に包まれていた。その要因の一つは、渡辺貞夫や日野皓正ら日本のミュージシャンが、アメリカジャズのコピーから脱却して、オリジナルな「日本のジャズ」を確立したこと。また山下洋輔らの先鋭的な「フリージャズ」が、世界の注目を浴びるようになったことなどと重なる。
 やがて83年に活動を始めたNMAも、国内外のミュージシャンを札幌に招聘すると同時に、負担が大きい航空運賃を分担する目的も兼ねて、道内各地に紹介するツアーを組み、僕自身何度も同行した。
 その音楽は先鋭的なので、誰もが初めて聴くことがほとんど。主催者やスタッフ、お客さんの反応が気になったが、多くの人々に未知の音楽と出会う喜びや衝撃、新鮮な感動を与えたようで嬉しい。また根室紋別などの打ち上げでは、豪快に山盛りにされた毛ガニや花咲ガニなど、北海道ならではの味覚がミュージシャンをもてなしてくれた。
 このようにNMAに共感して活動を支えてくれたのは、旭川西武スタジオ9や、旭川=志乃、根室=サテンドール、室蘭=ディディ、釧路=ジス・イズ、函館=バップ、新ひだか町三石=蓬莱音楽館、苫小牧=あみだ、などがある。ところが、旭川西武スタジオ9が92年頃に閉鎖したのをはじめ、過疎化やオーナーの高齢化などで、閉店を余儀なくされた拠点も多く活動は停滞気味。
 世代交代は時の流れ、次世代の新しい感性と熱意による新しいムーブメントに期待したい。

   (NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.11



 僕の音楽観に多大な影響を与えてくれた評論家といえば、このコラム1回目でご紹介した故副島輝人さんだが、もう一人忘れてならないのが「ジャズ・アヴァンギャルド」など多くの著書を残された清水俊彦先生だ。先生は60年代から80年代にかけて、フリージャズや即興音楽などの新しい音楽を次々と紹介し、時には鋭くまた詩的に批評されてきた。
 清水先生と初めてお会いしたのは97年。道新ホールで開催した「第2回ナウミュージック・フェスティバル」をぜひ見たいと言われ、すでに病弱だった先生を、加古隆さんのマネジャー竹川郁子さんがお連れした時だった。それから度々お手紙をいただいたが、数年後には年賀状さえ途絶えてしまい、後にペンを持つことすらできなくなったと伝え聞いた。
 2005年1月、新宿ピットインに「ONJO(大友良英ニュージャズ・オーケストラ)」を聴きに行ったとき、親友でプロデューサーの野田っち(野田茂則)が、「清水先生がどうしても聴きたい、と言っているので迎えに行ってくる」とお連れした。超満員のため椅子席は半分ほどでその後ろは立ち見席、酸欠状態で倒れる人もいたほど。
 清水先生には前半は野田っちが付き添い後半は僕が交代した。演奏はもちろん先生をうならせるほどの好演だった。大友くんの恩師・故高柳昌行さんが「俺だってこういう音楽をやりたかったんだよ!」という声がその辺りから聞こえそうですね。などと会話しながら、僕にとって夢のような時間を過ごした。その後「帰りはいつもこの店で餃子を食べるんだよ」と言われて数人で近くのお店へ。片手にビール、もう一方の手でたばこを美味しそうに吸いながら音楽を語る姿を最後に、2年半後の07年5月に永眠された。

(NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.10



 NMAライブの活動を支えているのはお客さま、集客にはあらゆる手段を駆使している。最近ではメールやネットが主流だが、昔はライブ会場の受付で、半券などの住所氏名欄を強引にお願いして記入してもらい、次回の案内を郵送していた。
 92年「大友良英GROUND ZERO+山塚アイ」の超過激な爆音ライブで、当時72歳だった門馬よ宇子さんのお名前を見かけた。それから毎回欠かさずライブに来場されるので気になっていたところ、受付をしている妻が気付き、名前とお顔が一致しお話しするようになった。
 門馬さんは画家だったが、現代美術に興味を抱き、スクールに通い始めた。その作品展に誘われた僕は、若い人たちに負けずひときわ目を引く作品に驚いた。また、ご自宅に招かれ「主人が残してくれたこの家にグランドピアノを置いて、美術や音楽の場として解放したい。」と熱く語られ、ピアノの購入をお手伝いしたこともあった。
 99年8月、道南・福島町の「かがり火コンサート」の魅力を話すと「行きたい!」と。「片道6時間もかかりますよ」と言うと、「平気平気!」と言うので僕の車でご一緒した。道中は染色家長谷川雅志さんと後部座席で、福島町では故常磐井宮司さんと意気投合する楽しい旅で、門馬さん80歳目前のことだった。
 その後、木々の緑に囲まれた閑静な自宅を改装した「スペースM」(現在のギャラリー門馬)をオープン。
 06年に実行委代表となって北海道立近代美術館で開催された現代美術展「FIX・MIX・NAX!」で、車椅子姿をお見かけしたのを最後に、翌年87歳で他界されたが、昨年の「札幌国際芸術祭」への布石となったことは画期的。おしゃれでバイタリティと好奇心溢れる門馬よ宇子さんは、多くの人々に永遠に愛されるだろう。

(NMA音楽プロデューサー)

・道新カルチャーplus 沼山良明の「されど音楽」vol.9



 ライブのチラシを配りに深夜のススキノを回っていたとき、ジャズバー・ジェリコで一人物憂げに呑んでいる青年が気になったのは85年の冬。彼こそが後に海外でも活躍する即興演奏家となったピアニスト宝示戸(ほうじと)亮二だった。「大学を卒業し就職したが、残業でライブ活動が思うようにできなくなり会社を辞めたんです」という。
 ちょうどNYのサックス奏者ジョン・ゾーンのライブが近かったのでチラシを渡すと、ジョンやイースタシア・オーケストラなど、毎回NMAのライブに来るようになり、あるとき「音楽って形にとらわれず自由にやっていいんですね!」と、何かを悟ったように目を輝かせて言った。
 5年後の90年3月、ギター&ターンテーブル奏者大友良英の札幌初ライブ終演後「一緒にやってみないか?」と勧め共演したところ、大友良英が大いに気に入り「宝示戸さんが必ず東京で演奏する機会を作ります」と約束。同年秋には大友良英、サックスの梅津和時らと、日本のジャズの拠点「新宿ピットイン」で共演を果たすことになった。
 それからはNMAが海外から招く個性溢れる強者即興演奏家たちとも共演するようになった。それにはさらに表現の幅を広げる必要に迫られ、ピアノの内部にトイ(おもちゃ)や発泡スチロール、空き缶などの小物を持ち込んで生じさせるノイズ音と持ち前の叙情性で、世界で稀に見る独創的な奏法を見いだした。そんな彼に注目した評論家副島輝人さんの推薦を契機に、毎年ヨーロッパやロシアのフェスティバルやツアーに出かけ喝采を浴びている。
 宝示戸亮二は「札幌に住んでいても音楽はできる」と、少ない演奏機会に全身全霊をかけている。

  (NMA音楽プロデューサー)