女性聖職者禁止変わらず


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 ローマ法王によると、カトリックの女性聖職者禁止の方針は永久に変わらないという。
『ロイター通信によると、フランシスコ・ローマ法王は1日、女性の聖職者を禁じているカトリックの方針が変わることはないとの見通しを示した。訪問先のスウェーデンからローマに帰る機中で記者団に語った。
 1994年に当時の法王ヨハネ・パウロ2世が女性の聖職者を叙階しない原則を確認。フランシスコ法王は「これは有効だ」と述べた。「永久にか」という記者の問いには「その方向だ」と応じた。(2016/11/02 時事ドットコム)』(http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110200140&g=int
 こういうのは、あって良いだろう。


 今年、国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案の中で、皇位継承権が男系男子の皇族だけにあるのは女性差別として皇室典範改正を求めるものになっていた事が話題となったが(男系継承を「女性差別」と批判し、最終見解案に皇室典範改正を勧告 日本の抗議で削除したが…)、宗教や独自の文化の領域にまで、女性差別の考えを持ち込むのは、全くそぐわないと思う。余計なことなのだ。
 勿論、いわゆる典型的な男女差別のようなものは改善されるべきと思うが、男性と女性には、異なる特徴があることに留意すべきだ。
 何でもかんでも男女同じにしないといけないというのでは、かえっておかしな世の中にしてしまう。男女平等は、ほどほどにすべき。
 というか、女性差別反対を主張するグループは、どうも男性的価値を持ち上げ、女性的価値を卑下する傾向があるようにも思うのである。
 例えば、女性の社会進出に価値があると主張することで、逆に主婦のような存在には全く価値が無いかのような社会的誘導が行われている。
 男女平等と言いながら、実際には女性の貶めをやっているのだ。
 そういうのがおかしい。


 女性は、男女差別撤廃を唱える団体が、実は男性的な社会的価値体系に酷く汚染されている事に気づくべきだ。
 富や名声というものに、本当に価値があるのか疑問を持つ事が大切。だって、イメルダ夫人みたいになることが女性の成功なのか?
 そうじゃないと思う。哲学者のシモーヌ・ヴェイユが無名性・匿名性の価値というようなことを主張していたけれど、この世界の価値は、正に、そういう無名的な場や人にこそ、あると思うのだ。
 異論はあるだろうが、誰も知らなくても神や宇宙は全てを見通していると思う。
 ターシャ・テューダーのように庭に花を咲かせ、美味しいスープを作ったり、クッキーを焼いたりすることに、大きな宇宙的価値がある。何処ぞの権力闘争など、本当に子供っぽい事だ、、、ぐらいに見下すくらいが健全。要は、本来なら男性的価値観と女性的価値観を、社会が同等に価値あるものとして捉えるべきなのだ。
 女性が男性の役割を果たすことが男女平等なのではなく(実は、それは男女平等に見せかけた男権の強化)、女性が普通にしている役割に価値を与えること。それこそが、真の男女平等だと思うのである。



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