信じてもいいんじゃないのニセ科学

黒酢くらいなら薬のようなものだと思って続けることも可能かも知れないけれど、普段そこまで食べていないものを毎日しかも毎食食べれると思う思考に僕は興味がある。副食物とはいえ、存在感においては肉や魚にも決して劣らない納豆。いっせいに買い求めた人たちは果たして本気だったのだろうか。「そういえば最近納豆食べてないな」くらいの気持ちでもみんながいっせいに買いに行けば売り切れるような気がしなくも無い。ところで、かくいう僕も、昨年一年間、平日の大抵のお昼を蕎麦で軽く済ませ、それ以外の炭水化物を極力取り過ぎないようにするという言うなれば低炭水化物ダイエットにより痩せたが、蕎麦が好きで毎日食べるのが苦でなかったというかむしろ職場付近の蕎麦屋をいかにして制覇するかを楽しんでいたが、そうでもなければなかなか出来るものではない。
それはさておき。
何故「科学っぽい」説明をみんな信じてしまうのか。「科学的だから」。驚くべきことに、全国の端から端まで、科学というものは「信の置けるものだ」という考え方が浸透しているのである。これも学校教育の賜物であろうか。しかし、そこで信じられている科学というのは「科学的思考方法」でも「観測によって証明された理論」でもなく、「科学的」であることだ。ここでいう「科学的」と言うのは「思考法」のことではない。単に「科学っぽい」ということに過ぎない。「実験」「データ」「理論」という言葉が出てくればすなわち科学的であり、その信憑性や信頼性を疑うだけの思考法は身についていないのだ。「科学」という、物事の因果関係を解き明かす魔法があることを信じている。
つまり、大抵の人が信じている科学というのはほとんど迷信とかわりがない。
情報の氾濫の中、様々なことに全て自らの判断を適用するのは困難だ。だから、判断基準を他人の言葉に求めることが多い。教育の中で教わってきた極基本的な「科学」は社会に出た後めったにアップデートされない。「科学的」に太刀打ちできる素養を持った人がそもそも少ないのだ。「あんなの信じちゃってるよ〜」と嘲笑する人も、自分の不得意な分野ではあっさり騙されていたりする。提出されたものをそのまま信じるのは教科書的な教育を受けてきた我々としては当然のことなのだ。
極端に非科学的だと思える説にあっさりと服してしまうのはしかし、さすがに「写真を撮られると魂を抜かれる」くらいの知識しかないのではないかと思う。ほんのちょっとだけでも頭を使うことで回避できるはずだが、それをしないのは、科学ではなく精神の力によって技術を練磨することに長けた日本人の特徴なのではないかと思ったりもする。また、「説明がつく」ことを求める気配もある。その説明が、自分の領分でないとき、「そうかも知れないね」と肯定的に受け取ることも多いだろう。
これだけ何回も騙され続けてなお、「科学の精神」を学ぼうとしないのは、あるいは失敗したときに言い訳のために騙される余地を作っているからなのかも知れない。自分のわからないことについて人を信じて騙されるのは、全部「騙したやつらが悪い」程度で言い訳できると言うのは非常に楽なことだ。
結局、信じたいのは科学ではなく、「科学的」な、なんとなく信じてもよさそうな迷信であり、説明である。半ばありえないことに気付いていたとしても。逆に言うと、その程度しか信じていない人が大半なのだ。
科学が進化し続けると、説明できるものが増えていく。しかし、科学の進化で掘り下げられた新しい発見が続くのであるから、それは同じように説明できないことも増やしていくだろう。説明を求める人々がいる限り、きっとニセ科学はどこまでも続いていくだろう。そして騙されるのは自ら選んだ道だ。
科学の精神を全ての人間が持つというのは多分不可能だ。人はそれを必ずしも必要とするわけではない。ニセ科学にもっとも効果的なのはモグラ叩きなのだろう。撲滅できることを期待せず、ただ一つ一つ、出てきたものを叩いていくのみ。