議論にならない

もっとストレートに言うとあたまがわるい
ここ最近傍観していたのだけれども、ここ最近余りにあれだ。なので今日をもって諦めることにした。つまり、完全に理解不能な別個の生き物として愛玩するにとどめるべきだと思ったわけだ。コミュニケーションというのは共通の言語があっても成立し得ないということは良く分かった。非常に興味深い事例であるし、実生活で出くわしたら大変なことになるだろう。いや、余談になるが現にそういう人はいた。必然的に相手はそこを去ることになった。彼は自分が正しいと未だに思っているだろうけれども、周りは皆どちらが悪いか分かっていた。もしかしたら、彼のほうがが正しいという世界はあるのかも知れない。でもそれは僕がいたそのコミュニティーではなかったと言うことだ。なんか前にも書いたような気がする
さて、今問題になっていることはその人とは切り離して別途議論することにしよう。

言葉の使い方に拘泥しない

論旨について議論したいのに、言葉の枝葉末節を捉えて全体をも否定する議論となってしまうことはままある。非常に勿体無いと思う。ときに、指摘された方も逆切れし、完全に話が逸れてしまう。ときに印象操作といわれる。全体を見回してみれば決してそんなことを言っているとは思えないのに、ただその一点のみが非難の対象になる。
言葉の選択を誤ってしまう事は結構ある。例えば、それが社会に対して責任のある立場であれば、言葉の取捨選択を出来なかった時点でその責任を一部果たしえなかったと言って非難の対象になるのはある程度仕方がないことだと思う。本気で言っているのでなければ速やかに謝罪し、議論を元の位置に戻すべきだ。本気で言っているのであれば思う存分非難しよう。
最近の一部の議論を見ていると、指摘する方も意味がないと思うし、指摘される方もそんなところで受けてたたなくても良いのに、と思わせる反応をしている。やっぱり勿体無いと思う。

マスコミって世論誘導装置じゃないの?

もともとマスコミってのはそういうものだと思っていた。だから、「捏造」はさすがに態度として問題だろうけど、「誇張」して「誘導」するのは至極当然の行為だと思うのだ。我々は最初から色眼鏡で見つつ、その誇張されているかも知れない、それでもその誇張のおかげでクローズアップされた問題についてマスコミの尻馬に乗るのか、それともその矛盾を追及していくのかが取るべき態度なのかと思っていた。
どうやら違うようだ。マスコミは真実、というと主観が入った言葉だから事実か、を伝えることだけが使命と考えている人が多いようだ。そして偏向報道と言って揶揄する。捏造と言って追求する。もう少し戦略的に動いてもいいのに、と思うのだ。各論を潰して行っても残るのは焼け野原に過ぎない。

思考停止キーワード:「それは〜が悪い」

主に入るのは「社会」「マスコミ」「政治家」。
もちろん本当にそれらが悪い面もあるだろうけれど、そうなる原因はその存在を暗黙/消極/結果的に肯定してしまっている自分ではないかどうかもういちど胸に手を当てて考える。

ピタゴラ装置DVDブック2

ピタゴラ装置 DVDブック2

ピタゴラ装置 DVDブック2

これは買う。というか注文した。1のときはお店で買えるとたかをくくっていたら買えずに結局Amazonで注文したというオチ。
前作のレビューはこちら
ピタゴラ装置DVDブック1

ピタゴラ装置DVDブック1

YouTubeとJASRACらの会談内容

とりあえず報告が出たので。
ITmedia News:「思ったより友好的に話せた」――YouTubeトップと国内著作権者が初会談によると、概ね「誠意がある」「理解してもらえた」という反応のようだ。
詳しくは上記記事を参照していただきたいが、個人的には微妙な部分の話がさっぱりわからないのが気になる。売り物の映像コンテンツを丸々上げる行為はさすがに有無を言わさず違法コンテンツと認定して問題なかろうと思うのだけれども、ホームビデオとか、そういうところ、例えば背景に商店街が流した管理楽曲が流れてたら違法になるかどうかとか、そういうある意味どうでもいいものに対しても違法認定してユーザー削除?いや、そんな手間はかけられないだろうし…
何をどのくらい話したのかというのがやっぱり気にかかります。