影響度と発言内容

バスの中で前の席のバカップルが愚にも付かない内容の会話をしている。あるある脳というやつであろうか。しかしもちろん後ろから口を出したりしない。僕がテレビに出ている有名人でもない限りプラスの影響は与えられるわけも無い。
もっともらしいことをいう人気ブロガーがいる。明らかに間違っていることをいつもの調子でまくし立てる。それにしてもこの男、ノリノリである。トラバ打って指摘してやろうと思うけど消したりスルーしたりの前科がある。うちのPVは上がらない。
テレビと言うメディアは大勢が見ている。大勢が見ていること自体が既にして「権威」なのだ。論文の評価も引用される回数が多ければ多いほど高い評価を得ていることになっている。価値があるというのは裏を返せば多く見られていると言うことだ。
いや、実際にはこの関係は価値がある⇒多く見られるにおいては正しいが、多く見られる⇒価値があるは必ずしも正しくない。もっというと、価値がある=内容に価値があるではなく、価値がある=見られること自体が価値であるならば成り立つことはある。その場合、内容自体に意味がある必要はないわけだ。
テレビ局において内容が正しくあること自体はそれほど価値のあることではないようだ。メディアの本丸であるところの報道ですら、そうではないということは多くの事件がそれを裏付けている。じゃあブログで正しくないことを書くことにはどれほどの意味があるのだろうか。正しくないことを書くことで見られることが増えるのであれば、あるいはアフィリエイトという仕掛け、あるいは自らの宣伝行為として、PVを増やすことには意味がある。論文の引用と違ってブログのトラックバックはしかるべき視点で審査をされたうえで行われるものではないから、単純に「その人が書いた」からと言う理由で大量のリンクを得ることもある。
さて、そうして創造されたページで書かれる内容というのは少なくともその界隈ではテレビと似たような力を持つことが出来る。全ての人があらゆる分野のリテラシーを持っているわけが無いから、論争が起きたときに軍配を上げるのは「わかりやすい」ほうになりがちだ。不戦勝をしてしまうこともある。
全てがそうしたものではないけれど、そういった影響度を持った人が発言する際は影響度なりの発言者本人のリテラシーが問われる。それは影響力を得たことと引き換えに求められる代償だ。それは必ずしも自分の専門のみに適用されるものではない。むしろ、専門でないものを専門でないことを理由に噛み砕いて説明する際にもっとも必要とされるものかも知れない。自分の専門によって地位を築いたのであれば、その専門での発言は専門用語を駆使して行ってもそもそもの想定された読者は付いてくることができるわけであるから、特に問題は生じない。
専門外を語るとき、用語の再定義は不用意にしてはならないし、理論が立脚するものが既に捨てられた仮説ではないことも確認すべきだ。できれば過去の議論の過程も理解しておくべきだ。そんな面倒なことをやりたくないかも知れない。でも先に述べたように、それは影響力の代償なのだ。
気軽に意見を言ってみたいだけならば、文章によってカバーすることが出来る。あたかも事実かのように断定し、主張するのではなく、一つの考えとして提示することであるいは責任を避けえるかも知れない。予防線をはっていつでも取り下げられる準備をしてもよいだろう。
いずれにせよ、それだけの覚悟があってやっているのかどうかというのは色んなところで気になる*1わけだが、影響度まで理解したうえで確信的にずれたことを言うようなことを僕はあまり見たくは無い。

*1:今回のエントリは何か特定の事例を指しているつもりはまったくありません