桜台二郎

これほどラーメンと言う食べ物が洗練されてきた時代に何故か増え続ける異端のラーメン(既にラーメンの枠には入らないとの呼び声も高い)ラーメン二郎。僕が毎日のように本店に行っていた時代に比べるともう何倍もお店が増えているにも拘らずあの本店のおかしな食べ物感を髣髴とされてくれるお店は数少ない。
そんな二郎のなかでもつい最近開店した桜台二郎は本店の雰囲気をかなりかもし出しているということだったので機会をとらえて行ってみた。というか、駅は最寄の隣なのだ。
平日の夜のマイナー駅に何故行列が。おりしも寒さがぶり返している中仕方がないので並ぶ。二郎だけに規則的な人数が吸い込まれていく。20分くらい待っただろうか。ようやく食す。目の前に置かれた丼。大盛りだ。いや、小なんだけど。ずるずる。うん、これは二郎だ。肉は分厚くて柔らかいし、ちょっと麺が平べったい気もするけど盛られたにんにくといいスープの油の浮き加減といい。野菜は盛りすぎなくらい盛るのが流行っているのだろうか。ちょっと気合を入れて食べた。久々に二郎を食った気分になったわけだ。
多分今練馬区内でいちばん行列の出来ているお店なんじゃないかと思うけれど、付近の二郎好きなら一度と言わず来るべきですね。

公私の境目が崩壊していないかな?

例えば、「思想・信条の自由」というときに、それが憲法で保障されているとか、そういった話になるのはあくまで個人の私的な思考・志向についてそれが認められているという話であって、社会に対してそれを行使することまで自由であることを保障されているわけではないと思うのです。
職業選択の自由と矛盾するかも知れないけれど、職務によってその私人としての思想に反することを命じられた際に拒否することはそれが職務であることが明らかであれば単なる我侭であり、社会人としての自分と私人としての自分の切り分けができてないと言ってよいんじゃないでしょうか。なにしろその勤め先を選んだのは自分であるし、職業について他人に強制されえないとしても、勤め先選択の自由を得ているわけではないわけで。
※12:30 以下追記というか続き
上記の例についてはそう単純に言い切れない部分もありますけれど、俯瞰的に眺めて今の社会で問題になっている現象のいくつかは、その個人としては大事にされるべきだけれどもそれを社会に対する要求として提示することが果たして正しいのかどうか疑問に思えることを遠慮なく持ち出す人が増えたことによって起こっているものなんじゃないかと思うのです。
自由であるのは自分が何を考え、その結果としてどういう選択をするのかであって、その選択自体とそれによって起こる結果は考えたことと切り離されます。もちろん、なぜ選んだかと言うのは場合によっては認めてもらえるかもしれませんが、それが常に認められるべきというのは自分の思想を他人は受け入れるべきと言っているのとあまり変わりがないんじゃないでしょうか。
思想を例に考えてみましたけれども、医療に対する要求とか、教育に対する要求とか、行政に対する要求とか、確かに個々の利益や感情に合致しないものが多々あると思いますが、社会全体から見たときに例えば最善を尽くしたのに命を救うことができなかったのが過失だとして訴えるような行為が認められてしまうということはあまり望ましくないでしょう。
法律とか条令が結局のところ、そのボーダーラインを定めているのでしょうけれども、もう少しモラルとか最終的に自分に跳ね返ってこないためにこれ以上は要求しないほうがよいラインとか、そういうものをうまく提示できないものなんでしょうかねえ。村主みたいなのがいないとダメか。

なぜ新聞は読まれないのかなあ

新聞購読者数の減少が話題になる昨今*1ですが、以前こんなエントリを書きました。
新聞を読まない習慣で失ったもの - novtan別館
結局のところ、不況だ景気回復だ都知事選だと言っても世の中何も代わり映えのすることがなく、ニュースに関心を持たなくたって話題はいっぱいあるし、TVという受動的な情報収集装置に慣れてしまったかあるいはもっと自分に向けて特化した情報を発信しているサイトに乗り換えちゃった人はまあ新聞は要らないよね。
あらためて僕が新聞を読んでいる理由を挙げると

  • 親が購読している(家にある)
  • ざっくりと世の中の情勢がつかめる

くらいではあるのですが、後者についてはTVじゃ自分で時間の制御が出来ないし、Webだと更新無間地獄やリンク先無間地獄に嵌まってしまい「ざっくり」のボーダーがどこだかわからなくなってしまったりします。新聞だったら新聞のページ数以上には読まなくて良いわけで。
新聞は客観的事実のみを伝えればいいんだという人もいますが純粋な報道の部分を除けば私企業として何かを発信する動機はやはり何がしかの思想を伝えたいがためと考えるのが自然であると思いますし、その発信されたものをどう受け止めるかはこちら側の問題です。社説等に真剣に立ち向かうのであれば自分に合った、あるいは合わない新聞を選択することも可能だし、「またそれかよ。はいはいワロスワロス」といなすのであればどれを読んでいても大して変わりがなく。
まあ新聞自体のメリットは適切に他のソースから情報収集を出来る人にとってはそれほど大きなものではありません。何しろ高い買い物ではありますし(年額換算するとそれなりですよね)。だから新聞を読まなくなった層が、新聞の替わりにニュースソースを得ているから読まないのか、それとも社会の出来事に関心を持たなくなった人が増えたのか、それが問題です。他のメディアに乗り換えたとは限らないのですから、新聞そのものについてどうこういうよりもそこの部分を精査して欲しいな、と思うのですよ。
ところで、左だ右だ赤だなんだと言っている人たちは新聞って購読しているんでしょうか。こういうこと言うの若い人が多い印象があるんだけど(言葉遣いとかがね)、そうだとしたら(違う意味で)若いコア読者がいるってことになるんじゃないかと思うんですが。