自己責任という言葉

自己責任なんていうけれど、その責任はどう取れると言うものなのだろうか。責任と言うのは何か起こったときに取るものであって、物事を判断する際に「自己責任で」というとことはじゃあ一体何を表しているのか。その言葉を発したときに、果たして問題が起きたときの責任を全てその個人に帰することが果たして可能なのであろうか。
大抵の場合、この言葉はネガティブな行動に対して放たれる。それを行ったときに不利益が生じる可能性が少なからずあり、社会としては決しておすすめできないし、できれば止めて欲しいけどもしやるんであればそこで起こったことは全て個人に責任があります、というニュアンスだと思う。ところが、最近いろいろなところで耳にする自己責任というのはもっとレベルの低い判断にまで及んでいる。
つまり、本来自己責任とは社会と相容れない無謀な、あるいは英雄的な行為に対して発生するものだろう。どんなに本人が自己責任と言っても(被災地や戦場に飛び込んで問題を起こすなどして)少なからず社会に迷惑をかける可能性があり、場合によっては大問題になるから行政としてあるいはコミュニティーとして全力で阻止すべき行為に対してのものだ。
しかし、例えば「この薬は効くかも知れないけれど副作用はきついかも知れない。服用は自己責任で」と言った場合、その選択を個人に委ねる行為は社会あるいは医者が責任を果たした上でやむなく行われたものなのかどうか。つまり、「責任を取れない」ものなのかどうか。
全ての仕事において、このような自己責任の追及というのは上が責任を逃れるための安直な手段に思えてならない。自己責任という選択肢に至ること自体が本来稀であるべきなのに。あるいは人生においてもそうだろう。「あなたの勝手にすれば」と子供に言うとき、本来は全力で止めるべき行為を行おうとしているのかも知れない。個人の自由の名のもとに自己責任を過度に押し付けてはいないだろうか。
個人の行為に対してなんらかの責任を取るのが社会の一機能だとしたら、今の自己責任による個人の意思を尊重する風潮はその機能の放棄をしようとしていることにならないだろうか。もしかしたら個人の自己責任として唯一容認されえるのは「この社会をどういう社会にしていくか」の選択かも知れない。
立場が上になればなるほど責任を取らなくて良いと言う社会はやはりおかしい。自己責任という言葉を蔓延させる前にトップがやることは、「俺が責任を取る」ということではないだろうか。
そうか、責任とは政治的に高い位置にある人がその地位に応じて社会に対して責任を果たすべく宣言する言葉なのだな。だから自己責任という言葉はその判断を無理やり飛び越えて本来の地位より高い判断を行うと言うことなのだな。我ながら極めてぐちゃぐちゃな論だと思いつつ、書いていてそう感じた。