見ない自由

僕がまだ小学生だったころの一時期、TVCMに映画「バタリアン」のCMが流れていました。当時の僕はそれが怖くて怖くて、CMの時間そのものが怖かった。TVは見たいけどCMは見たくない。いや、正確に言うと、他のCMは見ても良いけど、「バタリアン」のCMだけは勘弁な、というわけで。その瞬間だけチャンネルかえるってわけにもいかないし(そもそもリモコンがあったかどうか)、怖がっているのを笑われるのも嫌だしね。存在そのものが苦痛なものを何故流すのか、理解できなかったわけです。
あと、週間少年ジャンプに「メタルK」っていうマンガがあって、今思うと何が怖かったのかイマイチ分からないけど、きっと金属の骸骨っぽいのが動き回るのが嫌だったんだろうな。ほぼ巻末が定位置だったのであまり間違えて開くことはなかったのですが。他のマンガは見たいわけで。
よく、不愉快な物言いなどに文句をつけられると「見なければいいんだ。こちらが書くのも自由、来る来ないも自由、見ないのも自由」と言ってしまうことがあります。それはそれで正しいと思いまして、僕も基本的には原則論を主張したい人間なので、無断リンク禁止とか言うとついついね。と言っても、最初からその不愉快な(と言うのはそれを感じる人の主観でありますが)ネタが、話の本題でもなく、話の途中に突如脈絡もなく現れたものであれば、配慮に欠けている、という可能性がありますよね。あくまで可能性ね。なんだよゴールデンタイムにホラー映画のCM流しやがって、みたいな。そういえば昔ウォシュレットを最初にCMしたときに、ゴールデンタイムに流したら「食事の最中に何見せやがる」と抗議殺到だったみたいですね。
で、僕が思うに、最初から不愉快になることが分かっていたうえで、やってきた人に「あなたには見ない自由があります」と言うのはよいと思うのだけど、意図せずやってきて、あるいは今までそんな話になるとは思わないままやり取りしてきて突如不愉快なことに直面した人に対して「じゃあ見なければいいのに」と言ってしまうのは、ちょっとアプローチの仕方が間違っているんじゃないかと思うのですよ。それって、今までのやり取りの中で培ってきた価値観の承認をご破算にして、「それが受け入れられないなら来ないで!」って言っているようなものだし。もちろん、そのことそのものは問題ないと思うのですが、全部拒絶という強い方法ではなく、しばしばそういう価値観を提示することがあって、それに耐えられないなら来ないほうがよいですよ、と言う提案であったほうが、結局離れていってしまうにせよ、否定するのはその部分だけで済むわけですから、建設的でもあり、今までの時間を無駄にしないことでもあり、あるいはその手の話がでないシチュエーションでは今後とも上手くやっていけるかもしれないわけで。だから、まず自分に状況的に配慮が足りなくなかったかって思ってみるのもいいんじゃないかなあ。
あと、僕は自分の論点を主張したいときは、原則論が先に立っても良いけれど、他人を説得したいときは原則論を持ち出すのは最後にしたほうがよいのかなあ、と漠然と考えていたりします。余談。
ある程度大きくなってから、お馬鹿ゾンビ映画の(ある意味)傑作な「バタリアン」を見てオチのあんまりさ加減を笑い飛ばしている自分を見ると、あの時感じた恐怖はなんだったのかと思って懐かしい気分になりますが、人の価値観や、感情、アイデンティティーに関わる何かを受け入れるのには時間がかかるものですから、自分が他人を祈伏しようとしていないか、ちょっと立ち止まって考えるのも必要かなって思っています。