「わからない」と「受け入れられない」の違い

「わからない」は提示されたものがその論に繋がる理由が不明瞭であったり、論理的に筋が通ってなかったり、理解できないということ。特に理解できないと言うのは、理解するだけの前提知識が無い場合もあるから、単純に理論がおかしいとかそういうわけではないことも多い。例えば物理の難しい理論なんて僕には「わからない」。なぜならそこにいたるための前提知識や思考の方法、世界の捉え方の概念、理解するための地頭が足りないことがあるからだ。ここでは、元の理論がおかしいのではなく、受け取る側に「わかる」ポテンシャルがその時点で無いと言う前提において話を進める。
「わからない」モノに対してわかるようになる、または相手がわかるようにするのは結構大変なことで、わからない時点で門前払い(受験なんてそれが目的だよね、ほんとは)のこともあれば、わかるように噛み砕いて説明したりする(啓蒙本なんかそうだよね)。これはアプローチの違いであり、また、それを誰に対して受け入れてもらおうと思っているかの問題でもある。難しい理論で、前提の知識が必要な場合、それをネットで公表したからと言って、決して全世界の人に理解してもらおうとしているわけではなく、話の通じる一部の人に対して発信しているに過ぎない。その場合、わからない人の反論は全く意味を成さないから、放置される。
受け入れられない」はスタンス(政治信条とか)の問題や、感情の問題であって、必ずしも論理的な正しさを必要としない。むしろ、それが正しいからゆえに受け入れられないなんていう議論が登場するくらいのものだ。
問題は、「わからない」ことが「受け入れられない」の原因であると言うことがしばしば、いや、わりと頻繁にあるということ。わかっている人から見れば自明なことであっても、わからない人にとっては間違っているようにしか思えない。「わかっている」つもりだから、それが受け入れ難いという認識をしてしまう。しかし、実際にはわかっていないから、齟齬が生じた結果が受け入れ難い印象に繋がっている。この場合、問題は深くて、わかっていない側が一方的にわかっている側のことを「独善」「排他主義」「馬鹿」などとしてしまう。しかし、わかっている側からするとそれは「程度が低い」で済む問題だ。
もう一つのすれ違いとしては、「わかっている」内容が相互に異なる場合である。これはある一方が「客観的な事実をもとにしない論証は間違っているから議論が成立しないことは自明」というのを述べているのに対してもう一方が「状況証拠からの推論で十分議論可能である」と述べているようなときだ。もちろん、そういう場合にこういった直接議論の本質に関わる言葉でのやりとりがなされることは稀で、片方が提示したものに対して、片方が否定するというところから始まる大否定大会になっているようにしか見えない。これは本来「受け入れられない」の問題ではなく、お互いが「わからない」ポイントを認識しないまま進めている問題だけれども、観客席から見て「受け入れられない」問題になっているように見えやすいという罠がある。
議論と言うのは斯くの如く、バックグラウンドがある程度共通していないと成立し得ない場合があるのに、ウェブでの議論は一見そこのところをすっ飛ばして誰でも参加可能に見えるところが問題ないのかもしれない。逆にそれが魅力でもあるのだけれど、不勉強な人が勉強して来いと言われたら勉強してきてもいいんじゃないかなと思うこともある。