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2007-12-08

閲覧権ありやなしや

また面白いことを言う人がいる。さすが春樹御大の弟君だけあります。

「インターネット上で完全な著作権管理が可能になれば、ダウンロードやストリーミング配信時に適用する“閲覧権”を作るべき。これによって、映画館に足を運んだり、DVDパッケージを購入するには至らないライトユーザーにも、コンテンツを利用してもらえる。その際には、国民の合意の上で、広く、薄く、あまねく、代価を徴収する。国民が料金を支払い、事業者は収益からクリエイターに還元する。そういったWin-Winの関係を実現するために微力を尽くしていきたい。」

ネット配信で「広く薄くあまねく」徴収する“閲覧権”創設を

どうもよくわからないんだけど、完全な著作権管理が可能になったら、閲覧権なんていちいち言わなくても見たいと思っている人が見たいと思っているものに払えるようになるんじゃないの?と言うか、実際にいくらかそういうものは存在するし、ケーブルテレビのPPVだってそうでしょ。

ここで意外な事実を明らかにしましょう。今までは、ユーザーの側が、パッケージ商品を「業界の発展のため*1」という理由の為に、不当に高い値段で販売されることを「黙認」してきたのです!つまり、従来の関係こそがWin-Winであるのです。ところが、そのWinがどうも恣意的な方向に捻じ曲げられていないか、本当に消費者は自分たちが望むものの発展の為に余分なコストを払うことを甘受していると言えるのか、と言う疑問がわきあがり、今に到るわけです。これはある一面の見方。当然、インターネットの発展により技術的に云々っていうところは別の議論としてあります。

だから、そっちが黙認できないならこっちも黙認しねーよ、というある種原始的な関係に回帰している今の状態において、広くあまねくという考え方自体、馴染まない。それでも適用するのであれば、それが技術的に可能になっているのだから、その支払ったものがどういう内訳でどこに流れているかが公開される、と言うのが最低条件です。できないでしょ。それだと人は育たない。売れ線を食いつぶしていくしかない。だから、業界のコストとしては黙認してもらう形でとっていくしかない。これは消費者側も少しは意識しなければならないようにも思うのです。原理主義的に「いるものしかいらねーよ」と言うのは、銀行の貸しはがし的な論理と言うか、経営の効率化的な論理と言うか、まあ、突き詰めすぎると柔軟性を失って小さい地震で倒壊するような脆弱性をもってしまうわけですから。

それはさておき、この発言についてもっとも違和感があるのは「国民が」とか言っちゃっている所ね。消費者=国民とかしないようにしてほしい。グローバルに展開する意識とかそういうものがないわけじゃないだろうけど、日本のマーケットの中でどうやって絞ろうか、というずいぶんケツの穴の小さい話をしているように思えてしまいますね。いや、そういう話なのか。

角川氏は、「例えば、JASRACが音楽著作権を管理しているが、それによって音楽の自由性が損なわれてはいない」と答えた。

ネット配信で「広く薄くあまねく」徴収する“閲覧権”創設を

そうですね。歌詞を引用するにも使用料を払えばいい訳だし。個人であっても容赦しないけどね。それが文化の発展に寄与しているかと言うと、そうとは言い切れないというか言えないように思えてならないわけですが。

補足:最後の引用の話は文化の発展に寄与しない、本来正当性のない行為をJASRACはしているんじゃないっていう皮肉と、それを正当化する言についての皮肉のつもりです。わかりにくいね。

「ウェブの自由」の範囲について

先のエントリ、ウェブは公共空間(断言) - novtan別館は例によって携帯から書いたため、上手くかけていないところがありますね…。で、今回はその続き的なエントリ。

いわゆる自由ってのは留保の無い行動の肯定ではなくて、コメントでも指摘していただいたけれど、ウェブって現実よりも本質的に遥かに公共性が強い空間なんですよね。前、こう書きました。

Webでは機能的に住み分けることは現状不可能。なんたって参照言及引用を楽にするためのシステムですから。

Webでの住み分けは可能か - novtan別館

こうも書いた。

果たしてウェブの表現の自由とは。テキストすなわち言論であると言うところに立脚すれば、ウェブで何かを書く場合、すべからく言論行為として受けての便宜を心がけるべし、となるのでしょうが、説明可能な言論のみがウェブに発表されるべきである、と言うことはないと僕は考えます。それだけだと、例えば「これは感想だから批判しないでよ。リンクしないでよ」と言う話も正当性を持ちそうです。しかし、これは受け手側には通用しない話で、言論として解釈されてしまった時点で、言論になってしまう。そういうものなんじゃないかと。

自由な言論とウェブの自由 - novtan別館

その一方で、こういうタイトルのエントリも書いている⇒自由に批判し、批判されようぜ! - novtan別館

ぶれぶれですね。なんでこうなっちゃうかと言うと、やっぱり臨界点がはっきりしていない、と言うことがあると思うわけです。これは現実でも同様で、公的な機関なんかではある程度はっきりしているけど、近所の奥様同士の付き合いは時に恨み嫉みから殺意にまで発展することがあるように、許されたり許されなかったりは状況や関係に依存しているわけです。

ウェブが今までのものと比べて自由であるのは、「物理的な制約からの自由」という面がまず一つあります。実は、この点に関して全く意識しない層が問題の大半を引き起こしているのではないか、と思っているのです。つまり、伝達に掛かる時間、距離と言うものはインターネットの中ではほぼ0に等しく、瞬間的に伝播します。これはキー局の放送と同レベルと言ってしまってもよいくらい。ここで担保されるのは、全世界に発信する自由です。もちろん、某国のように検閲されてしまうようなものは除いて*2。つまり、超強力な公共の電波に発信されているのと同じわけです。そのことを全く意識しない人々は、容易に公共の場所で裸踊りをしだすわけです。無知、ではあります。そして、無知なら許されるべきもの、と言うのはその「場」の公共性にある程度依存しますから、超強力公共性の場において、大体は、許されない方向に倒れるわけです。

さて、そんなわけで、発信されたものが本当に発信すべきであったかについては、常に社会により後付けでの判断がされます。既存のメディアと言うのは、そういったものを予めある程度の基準でフィルタリングしたものであるし、そのフィルタリングについては、必ずしも公共の利益が基準な訳ではなく、いくらかの圧力をかけてくる勢力に恣意的に操作されうるものです。が、ウェブは、発信の主体が個人になっていることにより、この制約から実質的に解き放たれ、「不都合な真実」を白日の下に晒すことが可能になったわけです。ただし、その真偽について、担保されるものはない。ここでの自由は、「自由に発信すべきと判断できる」こと。

しかし、「内容についての自由」と言うのは、保障されているものではありません。誹謗中傷を初めとして、不適切な内容と言うものは、ある。それは「ウェブの自由」が担保するものではありません。ウェブは手段の一つに過ぎず、その手段を離れた内容の部分において、「ウェブだから」と言う特段の理由は存在しません。じゃあ全く無関係かというと、そういうわけでもなくて、匿名性の問題とか、そういったウェブの本質とはまた一つ違った部分での問題と結びついて、一つの大きな問題を為しているのが、この内容についての自由なわけです。そして、内容の自由は、いわゆる表現の自由として担保されるべきであり、無論、この自由においても限度を越えたら排除されるべきものであるわけです。これを持って表現の自由への弾圧と言うのは*3いささか強弁になってしまう感は拭い去れません。

というわけで、ウェブにこそ強固な建前合戦が必要…って、そんなの嫌ですね。ストレートな罵倒合戦なんかも存在しうるべきだし。ここの折り合いをどうつけるか、についてはもう少し考えて見たいと思います。

最後にいくつか、自由と自己責任につての以前のエントリを紹介(と言うか覚書)。

*1:業界が発展することが、消費者として、いいものを手にすることが出来る言う考えによって

*2:そういうものが、本来排除されるべき自由の敵ですね

*3:誰かが言っているというわけではありませんが