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2008-01-13

告白しますが、僕は努力教信者です

報われることではなく、努力することに価値を置き、結果を重視しない、ということが努力教ってわけでもないでしょう。

いつもわからないのは、何が努力なのかってこと。日々単純作業をこなすことにも、努力である部分と努力でない部分が混在し、何にウエイトを置くのかはそれぞれだし、それが何かを生むのかどうかを決定するのも周囲ではないし。喰うに足る糧を得る行為を努力と呼ぶか呼ばないかは見解が分かれるのかもしれないけれども、努力自体を否定する人が過剰な結果を求めているという印象はどうも拭い去れない。今成功している人が、あるいはこつこつとぎりぎりとやっている人が、将来どうなるかなんて実際にはわからない。未曾有の災害が起こった後、必要とされる技能が何かなんてのは今からわかって備える対象でもあるまいし。

僕はこつこつやらないことにはかなりの自信を持っている(なんだそりゃ)。でもまあ普通に生活できているってことは効率がいいんだろうきっと。と言っても、仕事に必要な知識なんてのは多分集める努力をしているんだと思う。別に普通に半ば趣味でやっていることだけど。一方で本当の趣味に関してはある程度「努力」をしている自覚がある。

努力において、過程が大事なんて思ったことはほとんどない。結果は大事だ。ただし、結果は当人が意図している成功とは限らない。そして、失敗したという結果は成功と等しく大事である。なぜなら、次に成功するための何かになるからだ。こういった考え方が「過程が大事」ということであれば、僕は過程が大事だと思うし、同様に、努力は大事だと思う。

努力教で最もダメなのは努力原理主義だ。努力そのものに価値を置いてはならないと思う。努力をすることの大切さは、単にアウトプットしていくことが大事だということの置き換えであるべきなんだけれども、目的が努力そのものになってしまう。それは報われるわけが無い。結果が無いのだから。

悪い努力ってのは、結果を評価しない努力だ。このまま努力し続ければいつか上手くいく、というような考え方は、それほど幸せな結末を迎えないと思う。例えば、宝くじを当てるための「努力」がありえるかといえば、ない。どんなに頑張っても運であること以外の評価ができないからだ。

同様に、頑張ってるけどうまくいかない、けれどももうちょっと頑張ればきっと、というのは事実の評価ではなく未来への予断が入っている。これは長いスパンでの努力であり、実際には結果を評価していない。

人と競争して打ち勝っていくことが努力でもない。結局のところ努力って言葉は日々行っていることを出来るだけポジティブに捉えた表現に過ぎないのではないか。

やりたいこととか、なんとなくの人生設計とか、おかれた現実の把握とか、そういった視点が欠けている悪い努力教信者にイライラするのだったら、努力そのものを否定するのではなく、視点を与えてやるべきだと思う。ハゲタカ的極端な例でなくても、プランの大切さを教えてあげる程度であっても。

僕は努力そのものを無碍に否定できない。人間のある種の安全弁でもあるから。厳正な基準による結果を満たすことが出来なかったら絶望して死ななければならない世界でもあるまいし。

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