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2008-01-17

すでに我々は、文化至上主義の名の下に余分なお金を払っている

再販制度が維持される建て前では搾取したりないのか、という感想。

そもそも私的録音補償金ってなんだろう。自分の持っているものの使い方に文句をいわれる筋合いはないはずだから、他者との貸し借りなどが想定されるならば、一定割合で損害が生じるのもわかる。でもそれはメディアに掛かるものでデバイスに対してではない。この境目が無くなってきたのは確かに問題だ。けれど、用途は変わりゆく。いろいろな場所で、いろいろな形態で聴けるようになった。見られるようになった。個人のニーズによる多メディア展開であるのは明らかだ。買い換えたプレイヤーの用途は、今ある楽曲を丸ごと移すところから始まる。補償金二重取りの印象は拭えまい。

それでも、DRMよりはマシだ、という声もある。確かに我々はデバイスを選びたい。DRMでは選べないし、将来に渡って再生できる保証はない。DRMは商業主義の帰結だ。

しかしね、音楽業界は再販制度によって、我々に文化の維持を求める一方で、売れなくなったものを廃盤にしている。反商業主義を掲げて商業主義の論理で消費者を制限している。Culture Firstが寝言にしか聞こえないのはそのせいだ。輸入権で値下げの話はどうなった。廃盤は、商業としての失敗を表している。ならば文化的には失敗したのか。文化を守ると明言している団体が廃盤にしたのならそれは守るべき文化で無かったのだ。そんな馬鹿な。

以前であれば流通、スペースコストの問題であることは理解できる。しかし、我々がデバイスの進化で得た利益を補償金で還元することを求めるならば、業界側にもデバイスの進化により今まで消費者に与えてきた文化的な損失を補償する義務があるだろう。反商業主義を標榜するのであれば、今すぐ廃盤になったものを公開する手だてを考えるべきだ。まてまて、これは再販価格の維持の話だった。補償金の有無に関わらず、行われるべきだ。無論、原則が商業主義であればその限りではない。

何故、自分達が商業主義的観点でものを考えていることを認めないのか。自分達が保護しようとしているものの中に守られるべき文化でないものが多数混じっているものを知っているからではないか。

そもそも、文化にすら競争という要素はあるのだ。後世に遺るのはたまたまであることも多い。何が文化であるかをその時代が判断することは後世から見たらおかしいだろう。今の文化とは、日常である。

我々が今の文化を守りたいと思うのは、それを楽しみたいからであり、また、商業主義社会において、文化もまた商業主義からは離れられないことを知っているからだ。昔の文化はそこから離れているか。一部は確かにそうだが伝統芸能などは確実に今を生きている。そこに商業主義はある。

繰り返しになるが、商業主義が悪いとは思わない。仕方がないことだし、メリットもある。しかし、それをCulture Firstなんて嘘で覆い隠して欲しくない。商業である以上、消費者に対して適正な取引であることを見せなければならないし、今までも文化の名の下にそれを怠っていた。本当に補償金が必要であることを示すことはその商業主義の実態を白日の下に晒すことであるからやりたくない、というのが文化という言葉でごまかせると考えているのであれば大甘だ。文化そのものは、そこにあるものしか保護されないし、政策的なものによって生まれるものでもない。

現在において、適正な取引こそが文化を作る。反商業主義の団体になど補償金を委ねることはできない。彼らはきっと消費者のことを考えず、文化かどうかわからないもの*1に費やしてしまうことだろう。

*1:自分たちのスイーツ(笑)な生活とか

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