2008-01-30
原理主義者とポジショントーカーの違い
ちょっと判ってきた気がする。
- 「〜は一理ある/ある意味正しい、けれども、こういう理由/背景から賛成できないし、こちらの方が理にかなっている/目的として妥当だから認められないよ」
- 「俺の言うことが正しい。お前の言うことには価値を認めない」
実際に0か100で収まるような議論ってのは存在しづらいし、そういうときに相手の言うことを適切に評価しない/否定ばかりすることが原理主義への第一歩なのかと思った。実際には現実論に収めることのできる原理主義者もいるわけだけど、目的を見失って「原理命!」みたいになっちゃうと、敵の言うことは全否定、みたいになっちゃって客観的に見てもちょっとおかしいんじゃないその議論、みたいになって結局その原理を損ねてみたり。
単にポジションによって自由でない人は、結構留保付きの発言をするような気がする。そういうのは原理主義じゃないよね。
ネガコメを非難できるほど立派なこと書いてない
誤解を招くこともいっぱい書いたし、いろんな解釈ができることについても自分の考え方、見え方からのエントリを書いたりもしたし、感情的なことも書いてきたんだけど、ブクマコメント読んで、一瞬カチンと来ることなんて何度もあるけれども、「ふざけんなこのヤロー表へ出ろ」みたいな思いを抱いたことがない、というのは幸せなんだろうか。単に書いていることが無難なだけかも知れない。
僕は自分が間違うことも、全方位から見て正しくないことも、知っている。いや、僕がなんていうのもおかしいな。何事にも反対の意見、立場ってものはあるんだから、100%受け入れられるなんてことは人智を超えた何かが介在しない限りありえないんじゃないか。1+1が3であることはそうはいってもありえないかもしれないけれど、定義は意見じゃないし、3である異世界に思いを馳せることはきっと楽しかったりするだろう。
前にも書いたような気がするけれども、コメントをネガティブに受け取る人は自分の正しさに確信があることが多いし、どんな形であれ批判の内容が正しければ受け入れるべきだけどはなからそんな気もないのであれば、そもそもコメントなんて見なければよろしい。賛同されるのは求めるけど非難されることには怒るってのは、バランスが取れない。単に自己承認を求めているのであればさて、その議論の価値は。
別にコメント全部真摯に受け取る必要もないと思うんだけど、受け入れる度量も、打ち捨てる自信もない、ってのはどうすればよいのかなあ。「考え方が違って当然、でも僕はこう思う」っていう感じで書いている人と「自分は正しいはず、みんな賛同してくれるはず」って思って書いている人だとネガコメに対する反応も違うのだろうけど、後者みたいな自信もって書いている人っているんだろうか。いるんだろうなあ。
論争になったとき、相手を否定し尽くしたら勝ち、みたいに考えてたりすると人生損すると思うし、ネガコメをどうやって大事にしていくのか、消化していくのかって言うのが折角たどり着いたこっちの世界を楽しむための一つの方法だと思うんだけど、どうも勝ち負けにこだわっているような気もする。匿名で立場にこだわらず、議論のマッシュアップだ、みたいなのは実現しない夢なのかな。だったらみんな実名でもいいような。
昔のエントリ。近いのはこの辺かな。
初心者向けでない言語の見分け方
言語の仕様を全力でDISられた時に
- 「ふーん、それで?」と鷹揚に構えているのは普通の言語
- 「何言ってんだゴルァ、バカにしてんのかぁ?」と言ってDISり返す人が大勢湧くのが初心者向けでない言語
変な人がよってくるから
池田先生は自重した方が良いか、どっちも切り捨てるべき。
敵の敵は味方論法に引っかかるほどではないと思うのですが、ネット上では手段選ばない傾向があるような気もしますので心配です。
名前とそれに伴う評価の重要性
名誉毀損とか誹謗中傷とか、そういった言動が何故重要であるのか。例えば周りがみんな「あいつはそんな奴じゃない」と思っていても初めて会う人はそう思ってくれないかも。それが真実に基づくものでなければやるせない。
イヤな思いというのは極端な話をすると、本人の度量の問題で済ませることは出来るけれど社会的な評価はそうはいかない。これは相手の度量の問題になるから自分では制御出来ないしね。
冤罪逮捕なんてのもそうなんだけど、世間というのはわりと自分の目に自信がなくて、「みんなの」目に頼ろうとするからね。でも社会なんてそうやって回ってきているから。一部の悪人のために少なからずの善人が犠牲になっている。
名前からある程度自由になる、これは名前と自分が1対1、つまり単一の識別子しか持ちえない社会に対する反抗なのか、あるいは、別の自分が存在することを表明するものなのか、あるいは、本来の名前という社会的識別子から解き放たれたいのか。評価はそれぞれの名前につくけれど、それは自分の中で繋がっているのか。
この辺のバランスは、それぞれが天秤に掛けるものによって違ってくる。本当は違ってはいけないと思う。とはいえ、発言権を得るために努力してきた人と、にわかに発言権を得た人を同列に扱うのもどうかと思うことがある。
まあでもそれは単純に言えばシステムが変わることへの拒否反応だし、折り合いの付け方の一つなんだろう。
システムを現実に近づけようとする試みは、しかし、自爆かもしれないね。現実の評価軸に真実からなる本人の能力とか資質が含まれるとは限らない。権力や立場によって折れることを強要されるかもしれない。ウェブみたいなところだと中身で勝負できなくはない。誹謗中傷が誹謗中傷だと皆が認識できれば問題ない。
まあ、ウェブにも他のメディアにも本人の意思をもって露出していない人を中傷するのは究極のルール違反だとは思うけど、正しく誹謗中傷(なんだかおかしいけど)されるのはむしろ名誉なんじゃないかと思ったりもする。極端な話、実名が現実に危険をもたらさないってのはそういうことなんじゃないかなあ。
だからもう初心者にWeb開発させるのやめようぜ
まつもとゆきひろ氏が英語の記事でPHPを叩いてるやつを翻訳してコメント付きで載せたら「Matz酷すぎ」みたいな反応がわらわら出てきてお前らちゃんと読んでいるのかよ、と思ったわけです。
特に「PHPは初心者に学びやすい(と言われていることが問題である)」という部分に共感する。 PHPは初心者に簡単かもしれないが、初心者による手を抜いたWebアプリケーションは PHPが作られた当初はともかく、現代では害悪ではないだろうか。
Matzにっき(2008-01-26)
これは同感。というか、もはや社会インフラと化したWebの世界は初心者の手に負えるものではないはずだ。かつてPerl4でベタベタCGIを書いていた頃は想像もしなかったセキュリティーの脆弱性。未だに過去の遺産として残っているものは多い。
どの言語でもそうだけど、初心者向けの入門書にセキュリティーのことをちゃんと書いてあるものになかなかお目にかかれない。PHPは動的Web構築の敷居を下げるのに貢献したかも知れないけれども、あまり考えなくてもいいやって人にも開放した、とも言える。他の言語だって本質的には同様だけど、結局のところ、初心者がWebにアプリケーションを公開する、ということそのものがもはや間違っているのではないか、あるいは、脆弱性について、作りこんだ人に責任を取らせることを世間は期待している、ということを理解すべきではないか、と思う。
ただ、問題は、いわゆるIT業界の中に、Web開発の初心者(しかし自称プロ)が山ほどいること。セキュリティー的な問題点を理解している人に到ってはプロジェクトに何人かいれば優秀なほうだろう(これはいいすぎ?)。でも僕だってWeb開発者としてやってきたけど、新たな手口の登場を追うのも大変だし、実際はがちがちに固めてたり動いてないから起こりえないような脆弱性をお客さんが報道から拾ってきたりして説得するのが面倒だったり。セキュリティーの専門家でなくても最低限のことを知らないとやっていけないのがWeb開発。作って納品してはいあとはそちらでよろしく、なんて開発だったら尚更事前に検証しておかなければならないことは多い。
さっそくネタ帳の人が噛み付いている。
perlでもjavaでもrubyでも、どの言語で書いてもSQLインジェクションやらXSS脆弱性やらを作りこむ奴は作りこむ。ただそれだけの話というか、別な話だろう。
どの言語で書いてもおかしなコードを書く奴は書く。
僕が引用したまつもと氏の言葉の部分を読んでない?まあいい。それだけの話でもない。
「言語は関係ない」って言葉は僕には「初心者はWeb開発やめろ」と言っているように聞こえるし、もしそうでないのであれば、弱点を認めた上で、言語仕様的な観点からできるだけ過ちを犯さないようになっているかを検証し、初心者でも脆弱性を作りこみにくい言語としていくべきなんじゃないか。PHPなんてWeb開発用言語として産まれたんだからその辺はもっともっと意識してしかるべきなんじゃないかな。とりあえず動いちゃう、ってのはおもちゃとしては楽しいけど、それで終わってしまったら危険だ。
PHPの良いところも沢山ある。仕掛け自体も良くできていると思う。でもね
はてなブックマーク - [言語] Attacking PHP - Matzにっき(2008-01-26)
のコメントを見ているとなんだか暗澹たる気持ちがしてくるのは何故だろう。













