mixiの特徴は匿名でも非公開でもなくて、その制御性

ごめん、タイトルは煽りかも。特徴の一つとして「(限定的な形で)匿名にできる」「許可した相手にしか公開しない設定にできる」というのはあります。それがmixiそのものを表わしているか、という意味ではmixiの特徴とまでは言えませんけれども。今となってはmixiの特徴は会員数が多い、ということだけになっていると思ったりします。多くなりすぎたことで、クローズドの中のオープン性は次第に弱くなっていって、コミュニティーの中でのある程度の匿名コミュニケーションをするようになった、というのはそれ招待制SNSじゃなくてもよくね?という話に繋がりますし。

しかし、私が言いたいのはそれではなくて、mixiSNSではなかったのか、ということだ。SNSの世界において、ユーザーコンテンツは公開によって価値が生じるのではなく、非公開によって価値が生じるのではなかったのか。誰にでも見せたければblogがある。そこから代価を取りたければ、有料メルマガなどの手段もすでに存在する。しかしSNSの価値は、「見せたくない人に見せなくていい」にあったのではないか。

404 Blog Not Found:News - mixiはblog化するのか?

そう単純な話でもなくて、blogとmiximixiSNSSNSとblogは互いに補完的な関係でもあり、包括的な関係でもある。


なので、dankogaiの認識に対する小倉先生の見解は正しい。

非公開であることに価値を見いだすのはmixiの特徴ではあっても,SNSの特徴ではないのではないかと思ったりします。それ以前に,他の参加者のプロフィール等を知り得ない,匿名化されたmixiに,「社会的ネットワークをインターネット上で構築する」というSNS本来の機能がどの程度果たせるのかという問題もあるわけですが。

非公開であることはSNSの特徴ではない: la_causette

もっとも、mixiSNS本来の機能を果たすことを目的としているかは別の話だけど。
mixiが匿名であるのは外に対しての中、という意味であって、中では建前上の「リアル知り合いからの招待」を守るのであれば、本質的には匿名ではない。けれども、コミュニティーはその人間関係とは別の場所で構築することが出来るから、そこでは匿名(たとえ本名を名乗っていても知らない人であることには変わりない)でのコミュニケーションがされている。これはmixiというか、招待制であることによる副次的効果に過ぎないと思うのです。もっというと、ウェブ上での社会的機能というのは現実社会に関わることになって初めて実名である必然性を持つので、そういう意味ではSNSはあまり実名であるとか匿名であるとかを気にしないのが本質なんじゃないかな。ただ、そのコミュニティーの性質によって、実名が必要とされたり匿名であらんとしたりする。繰り返すけど、社会的機能の本質ではなくて、その個別のコミュニティーの要件であるのではないか、ということね。
mixiにおける非公開ってのも、SNSの機能的な部分(それはやっぱりコミュニティーの部分だと思う)においては人口の増加と共に非公開度合いが薄れてきているし、これも本来の機能からすると、SNSとコミュニティーそのものではなくて、その個別の属性に過ぎないんだよね。
mixiの特徴的なところは招待制とコミュニティーと日記が絡み合って、SNSという概念のものではなくなっているところなんじゃないかとも思うわけです。ある程度公開先を限定できる、リアルとある程度密接に絡み合った、そういう存在。
で、やっぱり最大のポイントは公開の範囲をコントロールできる、というところに尽きるのでしょう。だからこそ、今回の規約変更にみんなが危惧を覚えたわけです。著作権という問題はその延長線上にあって、いつでもコントロール可能なものであったはずなのに、コントロールが効かない所に行ってしまうかもしれないというところにおける不安。後付で隠せるはずが隠せないとかとそういう。
つまり、コントロール可能性というのを全面に押し出しているSNSであるmixiが、その可能性を一部運営に委ねることになる、というのはお話が違うんじゃないか、ということなんじゃないかな。

著作権法は文化を守らないだろうことはわかっていたけど

文化という言葉で色々なものが塗りつぶされてしまうけれども、著作権法の本分は商売なんだから、どちらが優先されるかというのは明らかだ。だから、ヒートウェイブが受けた仕打ちというのは、至極当然のことのようにも思える。

元より、これは金銭のための闘いではありませんでした。もう少しマトモな状況にしよう。それは「商売」には違いないけれど、「文化」である側面も忘れたくはない。僕らを含め、ミュージシャンがこの時代に音楽を創って、生きていくにはどのようにすればいいのか?多種多様な音楽が共存する「豊かな文化」を目指すには、どうすればいいのか?そもそも、何故、ミュージシャンは配信と云う新しいメディアで、自らの楽曲をハンドリングさえ出来ないのか?一体、「権利」とは誰のためにあるのか?エトセトラ、エトセトラ。

http://www.five-d.co.jp/heatwave/blog/index.php?id=08030003

当のアーティストですら、その権利の何たるかがわからない権利。誰のためにあるのかだって?それは商売をする人のためにあるのだよ。アーティストはその恩恵にあずかっているに過ぎないのだよ。それが、今の著作権のありようであり、そのコントロールを離れて「文化を守るために著作権が云々」といっていられる人たちは、既にして相当幸せな状況にあるのだ。しかし、著作権の強化は、同種の人たち、共に文化を作る人はずの人たちのかなりの部分を切り捨てるような所業であることには気づかない。今の自分の待遇が相対的に幸せであることに気付いていないから。

日本のアーティストがこれからもレコード会社に「食わされる」存在なのか、自分で自分の楽曲をコントロールして流通までマネージメントできるようになるか、最初の一撃がとりあえず跳ね返された、というところなのでしょうか。

ヒートウェイヴが敗北的な和解、送信可能化権はソニーが所有 - in between days

少なくともメジャーデビューするということは、食わされる対象として選ばれた、そして食わせてもらうことを選んだ、ということに結果としてなっていることは間違いない。著作権の換金可能な部分を財産権としてしまったことと、それを契約で左右させることができるようになっていることが、原因ではある。しかし、著作権の財産的な側面なんてもとよりそんなもので、印刷業者がコントロールするものに、投資とリターンの観念が入ってくることは仕方がないことだ。
配信ってのは、新しい概念ではない。物理的に固着したものを配布するかどうかの差にすぎなくて、音楽というフォーマットが何か変わったかというと何も変わっていない。変わったのはメディアだ。だから、配信する権利云々というのが元々譲り渡した権利に包括されていること自体は不自然な話ではない。そう、文化で商売をすることは、その魂を売ることにも等しい。
僕はそのことについては肯定的ではもちろんない。配信コストに8万掛かるから配信しない?そんなコストアーティストに払わせろよ。機会損失させてんじゃねーよと思う。一方で、商売とは綺麗事ではないことはわかっている。そして、商売がある種の文化を創ることも理解している。おめがねにかなわないものを配信しないというのも一つの商売であり、一つの文化だ。そう、アーティストが権利を握ることがすなわち文化的、というわけでもないのだ。
著作権と文化とアーティストの持つべき権利の利害関係は独立しつつも複雑に絡み合っている。アーティスト自身の権利を拡大することが文化の発展に繋がるか、というほど単純な話ではないだろう。しかし、この、やってきたウェブ時代において、伝達手段の多様性やコスト感覚が大幅に変わってきたことだけは確かだ。真に文化を担っているのは誰なのか。発信側なのか受け手側なのか。この過渡期が後世においてどう評価されるか難しいところだが、一人一人、思うところを持って議論を戦わせなければならないのだと思う。

ウェブ上で理解しあうのは無理かな

思えば僕も悲観的なエントリを書いてきたw
別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね - novtan別館
別に誠実に対話したからと言って分かり合えるわけじゃないんだよね - novtan別館
novtan別館
それぞれ全然違う観点だし、全然違う出来事をきっかけとしているけれども。んで、最近の気になるエントリ。

さて。これら3つのケースのどれにも当てはまらない場合、見知らぬ誰かとネット上で「わかりあおう」とすることは、基本的に時間の無駄といえるだろう。かける労力の割に、得られるものが圧倒的に少ない。

ネット上で誰かと「理解しあおう」としても無駄な理由 - Vomit Comet

僕はそうは思わない。限定的にだけど。これはね、「わかっちゃった」以後の話だと思うよ。何がわかっちゃったかというと、相手の思考の方向性ね。
ウェブのいいところの一つは、出会う場であることだと思う。いろんな考えに出会う。その中には「この人は自分と考えていることが近い」とか「論理的に会話が出来る相手だ」とか、そういう自分とわかりあえるだろう人がいて、でもそれを選別するためにはある程度の会話が必要なんだよね。だから、この会話を「わかりあおう」とすることだと考えると、とても意味がある。逆に、この人はダメだ、と思う人とそれでも「わかりあおう」とするのは無駄な努力だと思う。