死刑へのハードルという言葉

実際問題として、死刑には判例というハードルは存在していて、量刑は慣習的に決められている部分があるのだから、あながちおかしい質問でもないような気がする。

−−今回の少年は(犯行時)18歳。ハードルが外れ、今後、少年の死刑判決が続くと思いますか。
本村 そもそも、死刑に対するハードルと考えることがおかしい。日本の法律は1人でも人を殺めたら死刑を科すことができる。それは法律じゃない、勝手に作った司法の慣例です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080422-00000014-maiall-soci

この質問をしたのは朝日新聞の女性記者(あえて女性記者ということ自体どうかと思うんだが)で、一部では非難囂々なんだけど、そういうわけで、それほど的外れでもないと思う。慣例というハードルというものが厳然とし存在し、そして今回の判決で、改めて法律に照らして再評価したことが慣例を乗り越えた判決となったわけだ。今回の問題の所在を考えるのにあたって、という視点では妥当な質問であったと思う。
言葉の問題で言うと、本村氏のこちらの発言の方が気になる。

本村 胸を張って彼には死刑を受け入れてもらいたい。胸を張れるまでには相当苦悩を重ね、自らの死を乗り越えて反省しなければいけないと思う。そうした境地に達して自らの命をもって堂々と罪を償ってほしいと思う。できればそういった姿を私たち社会が知れるような死刑制度であってもらいたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080422-00000014-maiall-soci

胸を張るって一体なんだろう。堂々と罪を償うことが出来るのであれば、それが死刑である必然性はあまりよくわからない。
この言葉を見て、改めて死刑の必要性について考える必要があると思わされた。被害者やその遺族が社会に向き合うために死刑が必要なのだとしたら、それは社会が未成熟な証明であるように思える。社会そのものが死刑を必要としていない限り、その合理的な正当性というのがどこにあるかわからなくなってしまう。死刑が必要な理由は犯罪者の側になければならないと思う。