2008-05-06
結局iPod課金なの?
残念なことに、いつまでたっても音楽はメディアから解き放たれることがない。音楽をメディアに固定したことは偉大なる発明だけれども、そのことが音楽を縛り付けている。
iPodなどの携帯音楽プレーヤーと、テレビ番組を録画するハードディスク内蔵型レコーダーに「著作権料」の一種を課金する制度改正の骨子案を文化庁がまとめた。8日の文化審議会に提案する。抵抗するメーカーに対し、課金を求める著作権団体が「秘策」で揺さぶりもかける。同庁は4年越しの論議に決着をつけたい考えだ。
朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?
もう既に、時代は何歩も先に進んでいて、iPodを携帯音楽プレーヤーとして捉えることすらそろそろ難しくなってきている。そういった中で、デジタルメディアの「劣化しないでコピーできる」という特性考えると、ある程度やむをえない部分がありつつも、なんか違うんじゃないの?という思いは拭い去れない。
そもそも、私的録音に補償金がいるということそのものについても未だに何故という言葉が頭を飛び交う。
テレビの録画で言うと、デジタル時代になったんだから、VOD的に処理していけばいいのに、広告モデルに固執している放送業界がいる。そんなに買わせたかったら放送しなければよいのに。そうもいかないか。広告モデルではそろそろインターネットのほうが優位になりそうなんだけどね。
ただ、iPodというハードウェアに課金する、というのはリムーバルなメディア(CDとかMDとかDVDとか)単体に課金するよりは合理的だと思う。ハードディスクをメディアと捉えられてはかなわない。上乗せされる価格自体は容量に比例したとしても、全体で見れば大した負担にならないと思う。
それよりも、文化庁が音頭をとってやるんだったら、その補償金がどこに向かうのかというものをきちんとして欲しい。単純に業界団体が補償金を取れる仕組みにするというのはちっとも文化的じゃない。還元されることを管理できてこその監督省庁だと思うのです。
容易になったドタキャンはコミュニケーションの変化がもたらした悪弊かもしれない
少し前までは、予定を直前になってキャンセルすることのダメージは大きかった。家にいるならともかく、仕事や学校の場において、パーソナルな連絡手段というのはほとんどなかった。だから、する方にもされる方にも上手く連絡がいかなかったときのダメージは計り知れない。
一昔前のドラマでは彼氏の残業のせいで待ちぼうけを喰う彼女、というシチュエーションは良くあったけれども、今だったら「携帯持てよ」で終了である。このシチュエーションを成立させるには「携帯を忘れた」「電波が入らない」「連絡するのをすっかり忘れてた」などの描写が必要になってきたりする。いずれにしても、(大抵は)当人のアホさ加減を示すアイコンにしかならない。否応無しに巻き込まれた〜に二人の運命は!なんてのはなかなか難しい。
ドタキャンするとき,人はあらゆる未来を想定する。それで仕事をクビになるようなドタキャンであれば這ってでも行くだろうし,大好きな恋人との約束であればそうそうドタキャンはしないだろう。関係性が薄ければ薄いほど,利害関係が発生しないような関係であればあるほど,困らないし,怒られないのだ。だから,人はドタキャンを選ぶ。
ドタキャンばかりする人々と,何年でも無遅刻無欠勤を続ける人々 - 諏訪耕平の研究メモ
携帯やウェブで人々の距離は近づいた、ように思える。しかし、そのことは逆に関係性を希薄にしている部分がある。お手軽に連絡が取れると言うことは、お手軽に約束し、お手軽にキャンセルすることだ。厳格な父親を必死に回避して取り付けたデートの約束をキャンセルするなんてとんでもないわけだけど、約束することのコストが下がった現在、キャンセルのコストも下がっている。少なくとも、手続きの面では。
ルールがきつくなればなるほど,人々は寛容さを失う。これは間違いないと思う。自分がルールに縛られていれば,他人もルールに縛られて欲しいと思うのが人情だ。現代人は,僕の見る限り相当ルールを守って生きていると思う。そして,寛容さを失っていっている。その様子を,大学に勤めるある友人が,「お互いに首を絞め合っている」と表現していた。言い得て妙だと思う。僕はこういう状況を「体育会系の論理」と呼んでいた。
ドタキャンばかりする人々と,何年でも無遅刻無欠勤を続ける人々 - 諏訪耕平の研究メモ
何故ルールがきつくなるのか。それは、モラルが低下しているからだ、と単純にいうとそうなる。出勤時間のコアタイムを10〜15時に設定したらほとんどみんな10時に来るとすると、9時に用事のあるお客さんが電話を掛けても誰も取れない。もちろん、そういうお客さんがいる前提だけど。「緊急時は携帯で連絡取れるからいいじゃん」という心理が次第にルーズさを助長していく。実際にはそこで問われているのは連絡可能性ではない(休日ならともかく)。仕事に臨む姿勢だ。モラルとかマナーに類することをルールにしてしまうことは愚かなことだと僕も思う。けれども、最低限守れることが守れないと社会は成り立たない。
携帯やウェブは人々の体を近づけた。でも心は遠ざけている。
「ブログは始まりから終わっていた」のにブログ社会も何もないだろうww
僕の観測範囲にはかなり実名でいわゆるブログをやっている人がそれなりに入っているし、社会的に有益と思われるものもぼちぼちあるので、ちっとも始まってないとか終わったとかは思っていませんが、それはそれとして。
――匿名で書いているから誰かわからない。書いてあることが事実かどうかもわからないから、ブログから遠ざかるんですね。
井上 いまも読まれているブログは、実名や正体を露出しているか、現実社会での専門性が読んでいてハッキリとわかる人のもの。現実社会で通用している人は、ブログ社会でも通用しているわけです。趣味を追究した内容や、実体験に基づいたことを書いたものならともかく、よくわからない人による「オレが、オレが」の論評ばかりでは読むほうもツライでしょう。
読んでもつまらない 「ブログ」はもう終わったのか井上トシユキさんに聞く(上) (1/2) : J-CASTニュース
そもそもブログってそんなに読まれなきゃいけないものなんだっけ。そこがアメリカ式と日本式の大きな違いかも。日記だよね、というのもあるけど、それ以上に、「ほら、お前ら俺の書いたブログを読みやがれ」的な欲がないというか、オピニオンリーダーたらんという野望がないというか。
ブログに何を求めるのかは人それぞれだと思いますが、こうやってつまらないとか終わったとか言って生えかけている芽を摘むような人がいるから花が咲かないような気がしてなりません。
我々は、PCオタクなのか、あるいは携帯は一般か
先日のエントリー、ケータイ世代の視野の狭さ - novtan別館には結構反響を頂きました。これはタイトル力なのかな。色々寄せられた中で、ものすごく感銘を受けたブクマコメントがあったので紹介したい。
2008年05月05日 casm あいつらの世代の一般人と俺たちの世代のオタクを比較したら、俺たちの世代のオタクの方が情報を多く得てます、俺たちの世代スゲー。と書いてある。
はてなブックマーク - ケータイ世代の視野の狭さ - novtan別館
おお、確かにそう書いてある。
確かに、僕らの学生の頃は、PCを使うと言うと一部のマニアの仕業でしかなかった。場合によってはオタクの。そういう意味では、本来携帯と比するべきなのはポケベルなのかも知れない。もっと時代を下ると…何にもないわけはないけどあまり思い浮かばない。僕はポケベル使ってなかったというか、丁度ボーダーラインの時期だったからあんまり何もなかったかも。
しかしまあ、確かにそういう側面もあるんだけど、今や社会人のかなりの割合がPCを使わないと仕事が出来ない現状で、あえて携帯を使うかどうか、というところではあります。うちの親父なんかはPCに縁がない仕事の人ですがPCを使い始めてから競馬やったり海外のゴルフのリアルタイムボード見たり、クーポン拾ってきたりして、PCでできる事はPCで、携帯でしかできないようなことや外出先では携帯で、とちゃんと使い分けてますよ。もはや情報(というのは必ずしもニュースとか知識とかそういうことじゃないけど)を得るという点ではPCはオタクの使うものじゃない。うちの母親だってレシピ検索してたりするし。
もちろん、ブログを書いているような人たちはある程度詳しいというか、PCを使うことそのものに目が向いている部分があって、それはでもコミュニケーションが目的だったりします。うちの親だって別に携帯でも十分なところをあえてPCでやるのはやっぱりI/Fや解像度(この場合、精細度ではなく、字の大きさ…と情報のバランスかな)で勝るPCを使わない理由がないんですよね。一覧性の良さとかはやっぱり。
もう一つ思うのは、コンテンツに対して消費なのか消化なのかの違いもあるかもしれない。携帯ではてブとか読んでると、消費している感があるんだけど、PCで読むときは消化しようとしている気がする。これは単に僕の感覚に過ぎないけれども。
僕が前のエントリで言いたかったのは、視野の狭さというのは悪いことじゃなくて、それを選択することで別の視点を得たと言うことが大事なんじゃないかなってこと。携帯コミュニケーションが目的足りうるのは、そこにそれしかない(というとイマイチな言葉ですが)からなんだと思う。つまり、PCってのは昔から言われているけど、目的がないとタダの箱。インターネット端末としてのPCってのはあまり本質的な使い方ではないよね。今やそうとも言えなくなってきているのはアプリケーションがウェブに移行して行っているからだけど。選択肢がありすぎるというのはコミュニケーションツールとしてはあまり優秀じゃない。同じクラスタの中にいないとつながれないから。
携帯がコミュニケーションツールとして優れているのはその制限性にあって、最近書いたブラウザの話じゃないけど、ある程度統一された「できること」が決まっているから格差とか齟齬が起こりにくいんじゃないかな。
自由がゆえにコミュニケーションツールとしては制限されているPCと、制限があるがゆえにコミュニケーションツールとして優れている携帯。
PCが仕事のツール以上のものになりうるのは確かなんだけど、あえてPCに行くかどうかは、やっぱり目的で決まってきちゃうんだろうね。
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