2008-11-23
井上トシユキは携帯持ってないのか?
まあゲンダイの記事に突っ込んでもアレなんだが。実家に帰ったときに暇つぶしに見た日刊ゲンダイの記事。携帯をなくしたらその携帯から犯行予告をされてえらい目にあった事件の話でコメント。
ロックをかける利用者は少ないし、音声認証や指紋認証などセキュリティー技術の開発は進んでいるけど実用化まで時間がかかるんだって。時間がwww何年前の話だよwwwずいぶん前からとっくに実用化されています。想像で書くのは別に構わないけど、事実と異なることを垂れ流すのはさすがにどうなのかねえ。
ちなみに、会社で支給される携帯は必ずロックするようにお達しが出ています。僕は支給されていないけど、自分の携帯は閉じたらロックがかかるようにしている。Fの携帯なので指紋認証で簡単に解除できるのが結構ポイント高い。指紋認証のいいところはそれなりに信頼度の高い(グミ指とか突破手段はいくらでもあるけどはじめから狙った犯行じゃないときつい)ものである一方で、利用が他の手段に比べて格段に簡単だって事かなあ。ワンアクションで解除できるもんね。
まあ、携帯自体に普段使うことで指紋がベタベタついているわけではありますがw
ええ、ある程度カジュアルな犯行を防ぐためのセキュリティー技術は最新の携帯にはそれなりに搭載されていますので、きちんと使うことをお奨めします。
体罰が何故禁止されているか
愛の鞭と暴力と区別をつけるのが容易でないから。
あと、条件付けみたいな発想を嫌う人が多いからかな。
いろんな意味で人間をプラスの方向には信じすぎているしマイナスの方向には信用してないから、体罰がなくても人間は更正するし、体罰を許せば教師による暴力が蔓延ると思っているんだ。それは事実ではあるし、事実ではない。ケースバイケースを否定しているんだよね、こういうのは。もっというと、体罰によって更正し、救われるかもしれない人を切り捨てている。一方で、体罰を容認するというのはその体罰によって人生を狂わさせるかも知れない人を切り捨てている。であれば、人間のプラスの可能性を信じたほうが上手くいかなかったことをその人個人の自己責任にできるから楽だよね。
社会として他人に関わるっていうのはそういうことなんだよな。社会の負うべきリスクが個人に転換されてきているだけかもしれん。
体罰なんて必要ないと思うし、基礎的条件付けはおうちで行うものだと思うけどね。
重要なのはニセ科学と科学の判別そのものではないとは言え
少々苦しい展開。
科学における間違いは、間違いとわかるまで(正確に言えば社会に妥当な水準でその真理と虚偽の合意が受け入れられるまで)は、ただの科学であり、それ以降は、たんに間違いであり、科学ではなくなる。
「ニセ科学」を間違った科学と別に定義を必要とする理由が、単純にわからない。
江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記
端的にこの点だけについて述べれば、単純にニセ科学の定義そのものがすりあってないというだけ、という印象。
僕が常々「トンデモ科学とニセ科学は違う*1」と言っている意味でのトンデモ科学がid:finalventさんのおっしゃるニセ科学であると解釈しました。そういう点では確かに上記の記述は正しい。正確に言うと、虚偽ではなくあくまで仮説であるのですが。あえて上記の文章に誤謬を見つけるとすれば、まさにその虚偽か仮説かがニセ科学とトンデモ科学を分けるもっとも重要な点であり、そう解釈すれば上記の文章は完璧に誤っているのだけれども、そこまでの文脈があるとは思えなかった。
とはいえ、上記の文章は以下についての反論として書かれたものです。
現在行われているニセ科学批判において、もっとも端的な「ニセ科学」の定義は以下のようなものになる。
科学を装っている
科学ではない
これを批判するのが「ニセ科学批判」であり、それ以上でもそれ以下でもない
わかってないのに「わかってしまった」人 - Skepticism is beautiful
これがわからないといって上記の文章を書くということは、つまり、自然体でニセ科学とトンデモ科学を同一のものとして受け入れてしまっているのではないかと推察されます。だから、もやもやとした形でid:finalventさんが理解している分には特に問題がないんだけど、それをニセ科学にとっての一つのアプローチとして発表されることはあまりよろしくないんじゃないかなあと思うんですな。仮説が仮説の域をでない「トンデモ科学」と、科学を装っている「ニセ科学」の違いはそれを正確に述べようと思っているのであれば実に重大です。
そういう点を踏まえて考えると、ちょっとこれはどうかと思うんですな。
「ニセ科学批判」については、シンプルに私は誤解していたなというのはあります。科学論とかの話ではなく、市民運動なんだな、ということです。これは誤認していました。自分が悪かったなと。悪い分の責めは受けるべきかな、と。
江戸時代から明治時代の脚気の原因はカビ毒によるものだったか - finalventの日記
これはどうも勝手に誤解の誤解をしているようにしか思えません。
繰り返しになるけど、僕は科学的な知見に基づいた「トンデモ」は「わろすわろすwww」とは思えども、ニセ科学として切って捨てることはないと思っています。当時の科学的知見を駆使して書かれたSFなんて今読んだらただの荒唐無稽な笑い話でしかなかったりするけれども、その当時の一般的な科学知識を踏まえて読めば素敵な未来のお話になりうるわけですし、場合によっては、未来の姿を正確に言い当てていることもあります。しかし、当時ですら科学的にありえないことをさも「もしかしたらそうかもしれない」として書かれたものは批判に晒されています。
楽園の日々―アーサー・C・クラークの回想 (ハヤカワ文庫SF)
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執拗に理論に合わないSFを責めるクラークの思い出の中でも「月のクレーター」に対する仮説が二転三転してクラークが全否定した仮説が実は真実であったことが語られています。しかしそれは「ニセ科学」が「科学」に昇格したという話ではありません。観測が進んだことで新たに出てきた傍証から理論が再構成されただけであり、客観的に観測されたものに対しての仮説ではなく、デタラメな仮説ははなから相手にされていなかったのです。科学的な仮説対仮説の真実性が証拠の多少によって右往左往しただけ。
SFの「サイエンス」の部分を楽しむには、その科学がどのようなものであるかを意識する必要は余りないんだけど、批判するには確かな科学知識とその時代ごとにおける知見が必要ですね。ただ、SFは「科学っぽい」だけであることを自覚した疑似科学(単に「っぽい」というよりはこの地球の法則とは設定を変えた前提での「科学」のほうが多いかも知れないけど)を楽しむものかも知れませんけれども。これは余談。
水伝があれだけ多くの批判を浴びた一方でそれなりに受け入れられていることのまずさを理解しているのであれば、ニセ科学批判を市民運動とは口が裂けてもいえないと思うんだけど、id:finalventさんが「科学的知見を問う問題」を出した結果としてそういう理解をしてしまったのであれば、残念でなりません。













