「批判するなら対案を出せ!」

何がしかを批判すると、こう言われることがあります。まあ確かに批判しているだけでは建設的な話にはならない。けれど、対案を出す必要性もケースバイケースですよね。
理想論を戦わせているようなときに、その論に決定的な瑕疵があり、到底受け入れられない場合にそれを批判したら「それなら対案を出せ」と言われても、対案がなければその瑕疵が瑕疵で無くなるわけではなく。
一方、いろいろと妥協しつつも、現実的に可能で、心情的にも折り合えそうな点を探してようやく出した案に対して、どうでもいい点や、あえて目を瞑った点を責められ非難されると「じゃあ対案出してみろよ」と言いたくなりますね。あえて目を瞑ったというのは致命的ではないという判断をした結果なわけだし。
現実的な話に理想論、理想的な話に現実論をそれぞれ当ててくると、空気を読まない議論が可能です。対案出せ論法やその逆はそこの穴にはまりやすい。

  • 現実の出来事(主に政治)⇒「何とかを犠牲にしてどうのこうの」という批判⇒じゃあ対案出せ
  • 非現実的な理想論⇒「それはこういう点で決定的にダメだ」という批判⇒じゃあ対案出せ

前者は現実の世界で何がしかが動いていることに対する批判だから、批判者が同じレベル感の対案出さないとどうしようもない。後者は、そもそも論とかのメタレベルの議論に落ちてしまうようなケースかな。
こうしてみると、対案出せって言う側のリスクが低いですね。前者の場合は正しい応対だし、後者の場合は論点をそらすことが出来る。対案出せ論法で相手が返してきたときはその論法がそもそも適応可能かどうかを考えないとダメそうです。まあ、こっちは相手を批判しているわけだからそのくらいは考えないとね。

相手をしない勇気

傍から見ていろいろとはっきりしているのに相手をしていると、どうも言わなくていいことを言ったり、苛立ちからか観客にとっても不愉快な態度をとってしまったりというようなマイナス面のほうが目立ってきてしまいます。
相手をどうしても丸め込みたいならともかく、短期間の対話ではとても分かり合えなさそうな相手と貴重な時間を利用してやりあうのは暇人のやることと思ったりもします。まあ、ブログで何がしかを書いている時点で暇人なんだろうけど、みんな。
それにしてもなんだかちょっとな。旗幟鮮明である、ということくらいで満足したほうがよいのかなあと思う。