知らないことってのはあるものだ

知らないこと自体が罪、ということはありえないけど、知らない上で罪に該当することを犯してしまった場合、情状酌量の余地があるとはいえ、罪は罪、知ってやったら完全に犯罪。

私はこの姑と件の祖母が重なって仕方がない。悪意がなければいいのか。知らなかったら許されるのか。もしこの子供が死んでいたとしたら、卵が規制されなければならないのか? 「当たり前」を当たり前に行使できない人間のレベルまで、我々の社会は基準を落とさなければいけないのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20090306/p1

こんにゃくゼリーの問題と、食物アレルギーの問題は共通している部分もあるけど、ちょっと違うかなあとは思うんですよね。
こんにゃくゼリーの物理的な危険度合いというのは、「注意書きが小さかった」ということを理由に出来る程度には予見可能性が低いように思ったりはします。これだけ報道されているのに、と言っても新聞もテレビも見ないことが即、罪、というわけでもありませんしね。積極的に情報を得なかったことが罪になるとは思えない。教育が義務付けられていて、その義務をすっぽかしていた結果、ということであれば、まあ罪を問うてもよい気がしますが。
ここで責められるべきは、知る努力をしなかった結果として起こったことを、全面的にこんにゃくゼリーのせいにするという点でしょう。ぶっちゃけ、その責任転嫁の点以外ではなかなか責めづらい話と言えます。
さて、アレルギー。上に引いた話についていうと、知る、という点は二つに分かれます。
一つは、食物アレルギーそのものの危険性。昔はあまりそんな話を聞かなかったから、かもしれませんけれども、年配の方はあまり気にしない人がいそうです。甘やかせて、という反応からも、そういう空気が伺えます。もっとも、昔は食物アレルギーがある人は早い段階で(悪い言い方ですが)淘汰されてしまっていたから目立たなかったのかもしれません。もちろん、現代では、生き残る可能性がある人は出来るだけ生き残らせようという世の中ですから、市販の食品にも食物アレルギーがらみの注意書きは目立つようになって来ています。そのあたりは、こんにゃくゼリーの話に近い。
一方で、知らなかったとはいえないのは、孫が食物アレルギーである、という事実。再三注意されていて、危険性も耳にしていたはずなのに、食物アレルギーそのものに対する認識は「知っている」とは言い難いものであったために、高をくくってしまった。これは結果のいかんにかかわらず、「知っていてやった」ことに分類されますね。
他の犯罪でも、「犯罪だとは知っていたが、こんなに大きな話だとは思わなかった」というようなコメントを結構見かけますよね。
無知なお前が悪い、という風なことを言いたくはありません。教育ってのは若いときにしかなされない。知識のアップデートは、積極的にしようとしている人と、そうでない人で大きな差が出てしまいます。どうやったら現代人として知っていて当たり前のことを知る機会を作っていけるのか、というようなことを考えていかないと、こういう悲劇はいつまでたっても無くならない。
新聞、テレビは死んだ、今は欲しい情報を一人ひとりが取捨選択していけばいい時代だ、というような話もありますが、それが突き詰められると、知るべきこともフィルターされて伝わらなくなってしまうかもしれません。
なかなか難しい問題かと思います。