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2012-01-22

悪い「噂」と誹謗中傷

噂とは何か。「その内容が事実であるかどうかを問わず、世間で言い交わされている話の事」である。

世間とは何か。「日本ではこの用語は一般名化して、「この世」「世の中」「社会」のことを表す用語として使われている」

(どちらも出典はWikipedia

まことしやかに囁かれるアレとかアレ。本当のことなんて知る必要がない。下世話な好奇心が満たされることこそが娯楽である。のだが。

噂には、届く範囲があった。ゴシップ誌やワイドショーが流す噂。奥様が井戸端会議で仕入れる噂。友達の友達の友達から聴いた話。「他人」の範囲は広く、反応が噂の当人まで伝わることはほぼないといってよかった。しかし、インターネットはそれを根本的に変えてしまったね。

噂が噂のままであるとき、それは娯楽の範疇の存在にすぎない。他人の悪い話で楽しんでも良いのは、それが害がないからであり、実害が発生した時点で違うカテゴリーに属する。

言論の自由」を、「自分だけが好きなことを匿名で言える自由」だと、勝手に解釈しないでください。

「自由」には、「責任」が伴うことを、自覚してください。

『スマイリーキクチ事件』から、何も学ぶことができなかった人々へ - 琥珀色の戯言

とまあ、そういうことなんだけれども、みんなが述べているのは「言論」ではないんだよね。噂を事実と捉え、日頃の不満を転化し溜飲を下げる、ということを今までずっとやってきたわけだ。これは、噂だけじゃない。事実に対してもだ。例えば汚職、例えば芸能人の不倫やドロドロ。例えば昼ドラマ、そして、痛ましい事件事故。

狭い世間の中では、噂によってハブられる奥様とかいじめられる子供とか、ずっといたわけだ。そして、世間が急に広くなってきて、今までは単なるストレス解消の的だった噂の対象に直接リーチするための手段ができてしまった。始末の悪いことに、世界中の人がある対象についての情報を共有することまでできてしまうようになってしまった。

噂をきき、陰口をたたく。これは僕達がずっとやってきたこと。なんだけど、それが許されるのは陰口だったからに過ぎない。少なくとも、インターネットにおいて何かを公言する、というのは陰口ではいられない。期せずして、それは言論になっちゃっているんだ。

もっとも、言論には強度がある。それを強くするのは立場であり、数である。社会的に見て吹けば飛ぶような存在の言論など歯牙にもかけないでいられることはできる。ただし、リアルに脅迫めいたことを行い始めるのであれば話は違うけれども。

よく、火のないところに煙は立たないというけれども、火元を確認することは重要ではないのかな。そんなことはないよね。誰かの問題ある行いについて怒りを表明する、というのは間違ったことではない。だからといって、人格などを非難することはいきすぎだ。事実においてすらそうだ。であるならば、噂に基づいて誰かを非難する。これは正義といえるのか。もちろん言えないよね。

でも、哀しいかな、僕達は噂をきき、楽しみ、意見を表明してしまう。人間の社会性ってのはそういうものだし、急に変えることのできない何かだとは思う。また、相手の受け取り方によってはなんだって中傷になってしまう。

なんで急にこんな問題に直面しなければならないのか。従来の世間というのが局所型組織だったということが露になった今、世間話という存在もまた変容しなければならないのか。間違ったことは口に出してはいけないし、正しいことも人を傷つけるかもしれないし。口をつぐむのが正解なのか。

インターネットは無限の可能性を秘めたメディアとして登場したけれども、実際には裏表を、光と闇を、くっきりと浮かび上がらせるツールだった。噂は滅すべき悪として浮かび上がり始めている。

我々がインターネット上で、一般の大衆として世間に埋没し、口を開いても害をなすことがない存在になりうるのかどうか。具体的な行動に移さないでワイワイしているだけであれば、2chのような顕名ですらない真の(というと誤解をまねくかもしれないけど)匿名掲示板における名無しさんこそがそれだろうとは思うんだよね。「他愛もない、取るに足らない」存在であり続けられる場所にのみ、噂の居場所があるのではないかなあ。

美的センスにおける主観的見解とトートロジー

面白い事になっている。主にうんこ味のカレーカレー味のうんこという点で。

時系列で。

西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』:だらしない印象論と詰めの甘い議論によるトートロジーしかない本 - 山形浩生 の「経済のトリセツ」  Formerly supported by WindowsLiveJournal

西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀

「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。 - 山形浩生 の「経済のトリセツ」  Formerly supported by WindowsLiveJournal

山形浩生氏の再反論をうけて。 - 昆虫亀

芸術(や美的感覚)の絶対的な部分を論理的に説明するのは非常に難しい。というのも、こういうものは主観の寄せ集めと刷り込みの産物であるから、黄金分割のようななぜか普遍的な感覚を除けば理由を述べるとトートロジー(つまり、良いものは良い)で終わってしまうことは多い。

だから、美的感覚を中心に据えた意見についてトートロジーだろそれって批判はちょっと野暮で、とはいえ、ソレ以外になんかねーの?みたいに思ってしまうのは仕方が無いところだとは思う。

さて、議論が噛み合っていないのは(まあ山形さんの方はぶれてないとは思うけど)、「本物そっくりのプラスチックの木」が議論する対象として正しくないからだと思ったりする。だって、山形反論に対する再反論の前提って言ってしまえば「本物そっくりだけど本物ではないから悪い」でしかない。これは、前提が暗黙的に違うよ、ということを示唆しているわけで、であるならば、「本物そっくりに作るのは無理」だから美的存在として異なるものなのである、という方がマシ。

比較的四季がきちんと体感できる日本人としては、色も変わらん落ち葉もない虫もつかない木に美的なものを覚えるか、という疑問はある。←この僕の感覚は「本物そっくり」ではないという暗黙の前提がある。

ぶっちゃけ、この議論は元の書籍にある、「たとえ完全なレプリカだとしても」という一文こそが問題の全てに思えてならないw山形さんが言うとおり、「カレー味のうんこ」を作るのはものすごく大変なのである。同様に、完全な自然の木のレプリカを作るのもものすごく大変だ。言うなれば、この議論は極端な前提同士のスーパーロボット大戦である。

経済的にも成り立たないであろうそれを元に美的感覚を議論しても仕方があるまい。読んでないけど、レプリカをレプリカと知らずに「見て」自然物と区別がつく程度のものなのかは評価されているのかなあ。

美的感覚を語るときに、トートロジーになってしまうのは主観的感覚の(あえていうけど)押し付けである以上、どうしても仕方が無いと思う。だからこそ、その主観的感覚をあの手この手で素晴らしいものとして表現して、相手の気づきを待つことが伝道者の役目であると思う。そこに論理は存在するかもしれない。そこに倫理も存在するかもしれない。ただ、「良いものは良い」は主張しやすいけど「悪いものは悪い」は美的感覚のみならず、一般的に説明しづらい。生理的な嫌悪を伴った醜悪さではなく、「良い」という主観に相対する「悪い」はそれもまた主観でしかないから。主観的な「悪い」を他人にわかってもらうためにはトートロジーでは力不足だと思う。

と、ここまで書いて思うんだけど、「プラスチックの木」が自然のコピーである必要性は実はない。だけど、あんな複雑な存在を人の手で作り出すことは難しい。自然が「自然」である所以はその唯一性にあると思うし、それはたとえ人の手による「加工」が加わったとしても失われない。全く同じように形を整えた木がすべて同じ存在であるかというと、それはシルエットだけの類似であるわけで。でも、引いて遠くから見たときに、群像としての風景から感じる美的感覚には差異がないと思う。

美的感覚を喚起するのは相対する視点も重要であり、自然物が偉大なのは、遠近共にそれを喚起することができる「可能性をもつ」からだと思う。なぜ可能性かというと、近寄るとがっかりするものが沢山あるからwという意味ではプラスチックの木も十分美的感覚を喚起しうる存在といっても良いだろう。

という、僕の主観。

まるで、電子楽器は楽器じゃないというような話にも思えてきた。結局美的感覚というのはそのものが与えられた機能性に対する視点を抜きには語れないのではないかな。つまり、「良いものは良い」であっても、そこには必ず前提はあるのだ。