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2012-02-22

ギラギラと輝き人を照り殺す、渡邉美樹氏の人間力

「和民」の名前が人名をもじったものだ、というのを僕が知ったのは、高杉良氏のノンフィクション小説でだった。

青年社長〈上〉 (角川文庫)

青年社長〈上〉 (角川文庫)

青年社長〈下〉 (角川文庫)

青年社長〈下〉 (角川文庫)

このときの感想は「すげー人が居るもんだ(俺はできないなこれ)」だった。脚色は当然あるにしても、これだけのことをやったからには「人間やれば出来る」って思っちゃうのはしょうがないよね。

渡邉社長は、起業資金を得るために、佐川急便のセールスドライバーとして、大卒であることを馬鹿にされながら死ぬ気で働いて、短期間で資金を得た。頑強な肉体(当初は苦労したようだが)あってのことだろうから、誰しもが出来ることではないのがその時点でわかる(本人はそう思っていないようだが)。そして、その原動力はやはり「起業する」という強い思いだろう。

僕が常日頃から思っているのは、人生において仕事ってどういうものなんだろうということで、例えば、仕事こそ人生、になった場合、起業せずにはいられないと思っている(そうでもない人はたくさん居るのでこれはあくまで個人的な価値観)。逆に言うと、会社員として仕事をしているのは、仕事とそれ以外のバランスが上手く取れるからに他ならない。

仕事に対するスタンスは、人によって全然違うし、それによって社会は構成されているので、会社というのはそういう様々な人たちを上手く使って社会を回していく組織なんだ。もちろん、社風というものはあってよいんだけど、それが過剰にならないようにするためにも、労働基準法なり、色々な法的な規制があるわけだ。

渡邉社長やワタミには、魅力的な部分ももちろん多々あると思うんだよね。是非はともかくとして、その行動力、推進力には目を見張るものがある。彼自身は輝く太陽というか、泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロというかなんというか、そのバイタリティーが標準のものとは到底いえないのだけれども、それは彼の価値観から言うと当たり前だし、みんなが出来るものだと思っているんだろうね。

停滞しつつある日本の社会の中で、そういう推進力は重要かもしれない。むしろ、彼の体現するがむしゃらな部分は、日本の高度成長を支えた精神そのものなのかもしれない。そういう点において、ワタミを単なるブラック企業と捉えて非難することはあまり建設的ではないのかも…

でも、それが社員を不幸にする結果を生んだのは確かだ。彼女はワタミの輝く太陽に照り殺されたというべきかも知れない。個としての渡邉社長が光り輝くのは悪いことではない。でも、会社という組織が人が干上がっていくことを是とするのは許されない。渡邉社長は活気に溢れる元気な社会を望んでいるのだろう。でも、それについていけない人を切り捨てるような社会にだけはしてはならない。

なんか続編が出てるのね

新・青年社長 上

新・青年社長 上

新・青年社長 下

新・青年社長 下

届くようになった声と変革のスピード

何から何までうのみにするつもりはないのだけども、さもありなん、というお話。

この問題の一番の原因は競争相手がいないが故の「慣れ」だと思います。「馴れ合い」と言ってもいいかもしれない。

肺癌末期の父が入院している病院がマジでひどい件について - Togetterまとめ

まあ詳細内容はリンク先を読んでもらうとして、端的に言うと、態度も治療内容もひどい総合病院なんだけど、地域で一番設備が整っているからいかざるを得ない、みたいな話。

いわゆる「えらいお医者様」がやりたい放題やっている状況ですよね。

ただ、一昔前と違うのは、これが如何に標準とかけ離れているかということが、他と比較することによってわかっちゃうことなんですよね。引っ越したら前のところが如何にひどかったかわかったり、引っ越してみたらものすごいところに来ちゃった、みたいな話はあったと思いますが、地域のコミュニティーに埋没せざるを得ない時代ではそこで声を上げても中々改善されない。統括する中央官庁からのメスでも入らないと改善されないわけです(そして、結局接待で抱き込まれて改善されないと)。

テレビの普及がそれを少しはマシにしたとはいえ、所詮マスメディアであり、視聴率にならない話は大きくは取り上げられないし、誹謗中傷だという訴えを恐れることはあるでしょう。スポンサー絡みの話もあるかも知れないし、国会議員から云々的な話もあったかも知れない。まあこれは邪推でしか有りませんが。

というわけで、いわゆる地方(実際には地方に限らないのですが)における、標準からの隔たりの改善は大きく遅れる場合があると思います。もちろん、都会も昔はそうだったのが、地域コミュニティーの変容によって(ようは、気を使わなくなって)変革していったということだと思いますが。つまり、地方は旧態然としているところがまだある、ということ。

ここでは医者の話ですが、農家とか、役所とか、地域の風習とかは、現代の日本の常識から言って許されない事でも閉鎖的なコミュニティーの中では許されてしまっている現実はあると思います。

ところが、インターネットの普及によって、口コミが全世界的になったり、一般の人の生の声が聞こえてきたり、ということで、自分たちの置かれている状況がおかしいことに気づくことができるようになりました。しかし、それは主にマイナス側に立っている人の話であって、プラス側の人はメリットを享受しているわけですから、それをおかしいなんて思わないし、むしろ正しいことだって思っていたりするんじゃないかな。そこにギャップが生まれるわけです。

情報の非対称性によるこういう地域間格差ってのは、これからどんどんなくなっていくべきなのかな、と思います。というか、むしろ自然になくなっていくものなんではないかと。思うに、昔は日本も広くて、故郷という存在はかなり大きかったと思うんですよね。でも、交通網と情報網の発達で、日本は狭くなってしまった。離島ぐらいでしょ、実質遠いのって。心理的に田舎に縛られることが少なくなってくれば、「おかしいと声を上げた結果暮らせなくなる」なんてことを心配する必要もありませんし、無体なことをされたことを伝えるすべだっていくらでもあります。

それによって失われることも多いと思います。伝統行事とか。でも、それを守るのは地域の意識だよね。旧態然としたコミュニティーを維持することと、そういった文化を守ることは別物です。時代に逆行した社会を維持したいがために、人の逃散を招いて文化を崩壊させるのだとしたら、それは自業自得といって良いでしょう。そんなコミュニティーが守る伝統なんていらない、と言いたい。

高度な情報化社会を現実のコミュニティーが受け入れていくのはこれからだと思います。必然的に、社会の変革スピードは上がります。地方が崩壊するのは単に人口減少とか、産業構造の変化だけではない要因があることにようやく気づける状況になったとも言えます。地方はここからが正念場だと思いますよ。