働くことによるインセンティブを高めていくために

人はなぜ働くのか。生きがい。生活のため。手慰み。コミュニティ。理由は人それぞれであり、一つでもない。
年末に、もし100兆円あったら、という話が話題になっていて、多くの人が「それでも仕事をする」と言っていることが意外だ、ということだったけど、僕はさすがにそんな非現実的な金額を得たのであれば、働かないと思う。なぜなら、働かなければできないこと<働いていたらできないこと、であるから。仮に金額が3億円だとしたら働くことだろう。怠惰で浪費をする生活において3億円は心もとないが、100兆円は個人の金としては無限に近い。

去年はわりと「やりがい搾取」が話題になった年だと思う。別に話題になるのは去年に限った話ではなく、ずと定期的に続いているんだけど。なぜやりがいが搾取されると見なされるのか。それは「生活の糧を求めているのにその仕事が生活の糧になりきらない」ことへ同意を強制させられているように見えるからだと思う。これが金持ちのお坊ちゃんの道楽であれば、そうは言われないだろう。なぜか。人一人という労力から生み出される価値は等価であっても、そのバックグラウンドが違うだけで搾取であったり搾取でなかったりする。しかも、当の本人の満足度は同じである。
やりがい搾取を批判している人は、労働の価値を金額に換算することが一番大切なこと、と考えているのだろうか。しかしそう考えると、その一方で、収入がどう考えても安定してないけど好きな事をやる人たち(一時期ノマドブームでもてはやされていた原義ではないノマドの人たちとか)が「社畜ではない」という理由でもてはやされていることと辻褄が合わない。いや、批判している人と同一人格が持ち上げているとは言い切れないけど、世間のムードとして。時給が良ければ金額が生活をするに達しなくてもやりがい搾取とは言わないのか。好きでやっているんでしょ?

これはどういうことなのか。

単純に考えよう。「金持ち以外の」人は、好きな事をやるためには何かを犠牲にしなければならない(ことがある)。よく「趣味でやることを選択する」というケースがある。僕は大学ではそこそこ名の知れた団体で、プロとアマチュアの間のもやもやしたゾーンに生息していた人々と(幸運にも)活動をすることができた。その中ではやはりたくさんの「プロの実力があってもアマチュアでいたい」人たちや、逆に「生活が苦しくてもプロでいたい」人たちに出会った。その人達は、時として逆の道を途中から選択する。つまり、安定した生活を捨て去りプロになる人もいれば、安定した生活を求めてプロを辞める人もいる。

もう少し突っ込んでみよう。やりがい搾取とは、本来プロの世界でしか発生し得ない。もっというと、本来のプロの世界では供給過多でない限りは搾取が発生し得ない。単にマーケットとして成り立っていないために収入が少ないというだけである。音楽のプロの中でもオーケストラ奏者であれば、むしろ搾取どころか人並み以上の生活をしているケースのほうが多い(レッスン料で入ってくる金もバカにならないのである)。ではなぜ、やりがい搾取が発生するのか。

IT業界を見てみる。3次請け4次請けブラック企業を除けばそれほど搾取されていないように見えるIT業界において、やりがい搾取は発生しているか。うーん、中堅SIerの社員である僕の周りには少なくとも「やりがい」に捉えられている人はいないように見える。どちらかというと「生活するため」には会社が頑張らないといけない=自分も頑張らないといけない、となっているケースのほうが多い。一方、ベンチャーにいる人の話を聞くとピンきりだ。設立メンバー的な立場であれば、やりがいと労働力を無尽蔵に提供させられる代わりに得ているものは大きい。あとから入ってきたような人は労働に比して給料が少ないが、仕事のノウハウでバーターだ、と思っている人や、単なる過重労働と捉えてすぐ止めてしまう人など様々なようだ。

働いたら負け、というのもあながち間違っていないと思うことはある。働くということが、得る対価で自分の何かを開放する(抑制的でなくてよくなる)手段になっている人にとって、働かないことは負けであると思う。でも、働かなくてもそれが得られるのであれば、働くことについてなんのインセンティブがあるのだろうか。使い切れないほどの(と言っても非現実的でないレベルの)財産を持つ人が働くことは職を持たない人にとってはポストの無駄遣いである。働かなくていい人が働かない社会というのがむしろ健全なのではないか。

では、仕事にやりがいを感じるというのは罪なのだろうか。僕は自分の仕事は時として理不尽に辛いことがあっても均すと面白い日々なんだと思っている。財産があるわけでもないから、働くことについての動機も十分である。財産をむやみに増やすのが原罪なのであれば、それは僕は背負っていないとも言える。では、僕が十分な資産を持っていた場合、それは他の労働者への罪なのだろうか。僕が働くことは富の再分配を拒んでいることにほかならないのだろうか。僕が楽しんでいる、IT業界の労働をする権利は僕にはないのだろうか(そこには別途個人で働くという選択肢や会社を起こして社会に貢献するという選択肢はあるが、それもまた活動をすることによって他の誰かがいるマーケットからの分配を得るということには変わりない)。

労働に意味を求めなければならないかどうか。ここを何かで縛るということは、個人の生き方というものを縛ることにほかならない。怠惰に生きようが、勤勉に生きようが、ひとつの人生には変わりない。それを社会全体で見た時にバランスよく成り立たせるためにはどうしたらよいのか。搾取、あるいは働きたくても働けない(口がない)ことをどのように評価していけば良いのか。

働くことにインセンティブがある、ということは、働けないことには逆インセンティブがある、ということにほかならない。いや、本当にそうかな?
「働くことによって好きなことができる」。「労働の後のビールのために仕事している」。「働くなんて馬鹿馬鹿しい」。なんでもありなのが社会というものだけど、その様々な考え方の人がある一定程度の割合で社会を分け合っていて、そのバランスが崩れたり、強制的に変えさせられたりすることによって崩壊してしまう。平等をうたう人ほど他人の価値観を認めていない、ということが起こりがちだ。

多様な生活の仕方を認めようじゃないか。「でなければならない」をやめよう。何が最適かを選ぶのは自分自身だ。やりがい搾取?利用されているだけ?社畜?上等じゃないか。それを発するあなたよりも、人生が充実しているかもしれない。そこに一心不乱に生きる人への羨望がないといえるのか?

これは観念論だ。現実的には、バランスが成り立っていないブラックな職場があり、人がいる。現実に搾取の構図になっていることは当然ある。問題は、働き方あるいは業種の問題ではなく単に報酬が十分ではなく、また、労働が過重であるということだ。それについては組織的あるいは社会的に対応するしかない。難しいのは、そこに悪意の存在が介在しているか、あるいは夢にまつわる問題かどうか。個人の価値観の問題に対して外形的に切り込むことは難しい。であるならば、一律社会のルールによって処理せざるを得ない。それがたとえ夢を奪うことになったとしても。

本当にそうだろうか。バイトをしてでも夢にしがみつく人を馬鹿だと嗤えるのだろうか。

僕はいつもここで止まってしまう。自己責任とか個人の自由とかいう言葉は薄っぺらいけど、それでしか説明できなくなった時に、この思考実験はいつも止まってしまう。果たして社会は人の多様性を望んでいるのだろうか。

普遍的な答えはとても出せそうにないけれども、身近にいる人に「働くことはただ辛いだけのことだ」という思いを抱かせたくないなとは思う。そのために、自分がどのように働くべきなのか。今年はそれを考えて働いてみようかと思う。

いい加減やめたらいいのに「サイバー攻撃」

新年早々なんでも農水省が一昨年から去年かけて「サイバー攻撃」を受けた、という件が報道されている。
サイバーとはおおよそコンピューター及びネットワークの(ちょっとかっこよさげに言うと電脳空間の)、という形容詞と思っておくけど、いい加減、こういう形容詞を使わないといけない理由はないと思うんだ。いかにも近未来的で、現実離れしていて、ちょっと難しい、というイメージを醸し出してしまっているこの言葉が「未知の脅威」「防げなくても仕方ない」というような言い訳感をも漏れ出しているように思えてならない。
もっというと、サイバー攻撃というのは旧来の「スパイ活動」と目的は変わらないことが多いんだけど、手段にのみ注目が集まる言葉だと思う。ネットワークをダウンさせる、という意味での文字通りの「攻撃」であればまた話も違うけれども、情報を盗み出そうという行為に対していつまでもサイバー攻撃なんてレッテルを貼っていても改善していかないよね。
単純に、これは情報管理の問題であって、サイバー攻撃だろうが内部流出だろうが手段を問わず重大性は変わらないしね。
普通に「不正アクセス」といえばよいのだと思うんだけどなあ。不正アクセスなら防げなかった方も悪いというイメージが付くのが嫌なのだろうか。