強い社畜って一体…

会社に従順な飼いならされている畜生のことを社畜というのではないの?

情報を受け取る人の気持ちを考えること、人脈を構築する方法、根回しの重要性、目上の人に可愛がられるにはどうすればいいか社畜として学べることはたくさんある。

“強い社畜”はコピー取りでも成長し、宴会芸で出世の道掴む | マイナビニュース

こんなの社畜じゃない!

単に社畜言いたかっただけじゃないか!って話だよね。

単なる仕事術まで社畜って言葉を使わないと話題にできないような人材コンサルタントってどうなのかなーって思いました。

いやね、ここで書かれているようなことを忌避しちゃうような人って結構いるんだけど、それが馬鹿にしたもんじゃないよ、という論旨はよくわかるんですよ。
でもさ、上司目線からするとまたちょっと違うわけ。宴会の幹事なんてできなさそうなバカにやらすと悲惨な結果に終わるし、芸ができそうにない奴に強要しても場が冷めるだけだよね。

こんなの全然社畜の話じゃなくて、できるやつはそつなくなんでもできるってだけの話。みんなみんな宴会芸に秀でている会社とかキモチワルイよ。

IMEの入力は正規化されるべきか

ちょっとおもしろいなと思った。

しかし、少なくともローマ字入力というコンテキストにおいて、同変換ができないとか、誤りだと指摘することは、余計なお世話だと思う。(指摘はオプショナルだけど、少なくとも変換はできるべきだと思う)

https://plus.google.com/107334123935896432800/posts/ZVX881WYcEQ

これは、昔から結構思っていた。ここで触れられているATOKなんて指摘が出るだけマシで、MS-IME(最近のは知らんが)なんてただひたすら候補に出ないという状態で、気づきを促してもいない体たらく。

GoogleIMEを最近は使っているんだけど、固有名詞における利便性はもちろん、携帯文化(あるいはインクリメンタルサーチに源流を持つ、の方が正しいのかな)に類似した予測変換の便利さが同じような言い回しや単語を使う場合にはとても有難い。
MS-IMEの「あ、変換候補間違っちゃった。もう一回…あ!さっき変換した候補が最初になっていて間違えた!」のイライラが入力するたびに候補が出ることで緩和されているのがとても大きい。情報の表示が早ければ早いほど、誤認する可能性が減るわけだ。

引用先でもそのことは触れられていて、つまり、入力を目的とした場合において最も大事なのは、いかにアウトプットを早くするかであり、DUだろうがZUだろうが、正しい候補を選択するという行為にたどり着きさえすればいいのだ。

DUとZUは本当は違うものだ、という議論はあるかもしれないけど、こと発音の上で(退化したのかもしれないけど)差がない現状では過程はどうでもよいのである。かつては正しい方を入力しなければ正しいカナを出力できなかったからこそ、入力時の正確性が求められていた。いずれにせよ、出力する結果の正しさを知っていなければいけないことには変わりない。ただ、多数決的アルゴリズムによって間違ったほうが候補として優先されてしまうのであればいただけないけど。

もう長年キーボードというデバイスから人類は脱却できていない(スマホのアレも結局のところキーボードではある)。日本語の特殊性(文章を書くにあたって変換を伴う)というのは現在のところ日本語入力を難しくしている。もし、音声認識でDUとZUを発音仕分けなければ正しく入力できない、となっていたらどうすればよいのか。僕はその2つを言い分けることができそうにないぞ。

将来、入力デバイスはもうちょっと脳そのものに近づいていくのではないかと思っている。そうなった時に、我々は果たして50音で入力するのだろうか。それとも漢字と平仮名を思うのだろうか。漢字を忘れたら文章が書けない、ということにならないとすると、発音から文章に変換されることになるのだろうけれども、今自分が紙に文章を書くにあたっては、読みと同時に漢字そのものを出力しているので字を書く時の読みは漢字の字形を想起するためのキーにすぎないのかもしれない。

ブロガーと称しているのはシステム上の問題であって、テキスト野郎としてどう生きるか

冗長なタイトルにしてしまいましたが、ブログ論がなんだか盛り上がっているのでここらでいっちょかみ

こういう時はバックグラウンドを語るといいと思ったので。

大学生の頃にまともにインターネットに触れ始めたんだけど、当時はようやくホームページがブームになり始めていたというレベルだったこともあり、活動の場はあんまりなかったように思います。Bekkoame(なんて言って分かる人がどれだけ残っているのか)にホームページを持っている人は別格な感じがあったり、DTIがなんだか学生に人気があったりというレベル。
大学生というのはある種の特権があるようなもので、学校のアカウントでサークルのホームページを開設していました。タダだし。元々適当に物事を考えることが好きだったんだけど、それを文章として残す、ということは習慣ではなかった。それを大きく変えたのがインターネットというインフラだったんですよ!
何しろ、書くものというのは発表しなければあまり意味が無い。別に読者がたくさんいることを求めているわけではないんだけど、日記帳に書き溜めるというたぐいのことは僕は避けてきていた。沈思黙考する趣味がなかったというか。なので、こうやって何かを書いている、というのは見知らぬ誰かに話しかけているのと一緒なんです。それによって何を得るのかはあまり意味もってはいない。ただ消費される精神回路の消費電力がもったいない、というレベルの話でしかないのかもしれません。
サークルのホームページなんてのはあまり大層なことを書く所ではないんだけど、並行して家のインターネットプロバイダ契約をしたことで自分のホームページを作ることができたんですね。今はそのプロバイダが消えてしまい電子の海の藻屑となった僕の某アーケードゲームを中心としたホームページ。懐かしい。
社会人になって、テキストを書く、という僕の習慣は設計書やらなんやらを書く、ということで満たされるようになった気がしていました。ただ、当時はプライベートで活動していた団体で、それなりの立場にあったことによって、定期的にメールを書く必要がありました。つらつら時事ネタ絡めたものを書くという習慣はそこで続いていたのかもしれません。
ブログの登場した当時、僕はそれが掲示板に毛が生えたようなシステムであって、ホームページでテキストを書くことに比べて格下のものだと思っていました。未だに体系的な何かを作るときにブログではダメなことというのはあると思うけど。
不特定多数向けのテキストを書くことから離れて4〜5年。転機はmixiだった。mixiに入会して、ようやく毎日日記を書くという習慣を取り戻したんだけど、あれ?別に知り合い向けに書いていても知り合い向けの内容じゃないならmixiじゃなくてよくね?と思い至ったことが当初ゲームのブログでも書こうと思って確保していたはてなのアカウントが今に至る理由です。

なぜバックグラウンドを語ったのか。

あらためて自分の「ブログ」にこだわるポイントを探ってみようという試みです。

僕は前からTwitterはいやだいやだと言っているんですが、元々ブログに対しても否定的でした。それが変わったのはなぜか。自分が体系的なものを作っているのではないということに気づいたからでしょう。ではなぜTwitterではダメなのか。

たぶん、文章が下手だからなんだろうな。くどいからTwitterには向かない。くどいのは僕なりのレトリックでも有り、誤魔化しでもあるわけです。よく何言っているのかわからないと言われることがあります。思いつきをそのまま文章にしているからですね。だったらTwitterでもいい?とんでもない。もっとひどくなること請け合い。

僕がブロガーであるのは、テキストを書くのにもっとも面倒ではないシステムだからなんだと思う。場合によってはWikiみたいなものを活用したほうがいいかなと思うことはあるけど、そこまで情熱を持って一つのものを体系的に構築することは今の僕にはできないな。

それよりも、どちらかというとはてな「ダイアリー」という名前を気に入っているんですよ。所詮日記帳でチラ裏なんだ、ということをずっと意識しているのです。

ブログ運営とかPVを集めるコツとか、そういうのって目的があるわけじゃないですか。僕もできるだけ多くの人が来てくれたらいいなーって思うことはあって、たまに色々やってしまったりもするけど、基本姿勢が「適当に思ったことを書く」なので、戦略、戦術は語れない。1つだけ言えるのは、「好きなことを好きなように書けるブログというスタイルは素晴らしい!」ということですね。

もともと思考の駄々漏れになっている部分を書き留めているだけなんです。そんなスタンスでも長く書いていればそれなりの成果が出るのは面白い。

でもこれって結局のところ、「好きだから書いている」に尽きるんですよね。