皮肉と差別の分水嶺とは

まー答えの出しづらい話ではあるけどね。ちょっと違和感があったので僕の所見を述べておきたい。

ここで、被曝者への「悪意」を持っているのは実はフランス人ではない、ということが露わになる。この問題の問題性はそこにある。

被曝者を「3本腕の怪物」と見ている人について - OAF

何度か表明してきたことではあるけど、僕は福島の当事者ではないけれども、いわゆる原爆被爆者2世(正確には被爆者と2世の子供だが)としての人生を歩んできている。無論、僕の年代において(生まれるまではやはり不安がられてはいたようだけど)、そのことが原因で差別を受けたことはなかったし、それが原因の病気にかかっているわけでもないけれどもね。
だから、放射能を浴びる=ミュータントになる的なステレオタイプ(アメコミか?)による皮肉は事実と異なるという点であまりに醜悪だと思うし、皮肉と言って免責されるわけではない。現に、イスラムを侮辱するような皮肉は当地でもすぐ問題になる。
当のフランス人からすると、日本は報復で在日フランス人を殺したりはしないし、一応同じ文明国家(しかも原発依存度が高いのも一緒だ)として、「ほらほら放射能垂れ流しにすると良くないことになるぜ?www」みたいなノリなんだと想像はするんだけども、被曝者に対する悪意があろうがなかろうが、少なからず状況に対して不安に駆られている人々に対してこういう表現をするのは(僕達日本人がしばしば指摘されるのと同様に)ゲスい、とてもゲスいことであって、抗議の対象としては十分妥当であろうと思う。

もちろん、この問題の一部には、指摘されているように日本人自身が持つ「不安」「差別心」が投影されている部分は否定出来ない。それは一部のゲスい反原発がすでに色濃く持っていて、必要のない差別のタネを蒔こうとしていることからも明らかである。

皮肉が皮肉でいられるのは一面的にはそれが真実であるという事実があるからであって、3本腕のある人間が実際に産まれるのかと言ったら(少なくとも現段階でわかっている限りでは)そうではないだろう。当然ながら、それを素晴らしいものとして描いているわけではないのだから最低だよね。哀れみでもなく、笑いものにしようとしているそれを差別と言わなくてなんというのだろうかと思う。