感覚遊び



右手を熱いお湯の中に入れ,左手を冷たいお湯の中に入れて、しばらくした後にぬるま湯に手を突っ込んでみれば片方は暖かく,片方は冷たく感じるだろう。
最初からどちらか一方に両手を突っ込んでいればそんな差は元からない。


明るい日差しの中で片眼を瞑り、トンネルの中で両目を開けると右眼と左眼の世界は違う。


パチンコ屋に入る時に片耳に耳栓をしてしばらくパチンコを堪能した後に外に出てみれば、右と左で違う音の世界を堪能できる。


敢えて状況を作らなくても右利きの人が左手で右手と同じような事をしようとしてうまく出来ない事があったらそれでもいい。


同じ事実を、同時に、違うものとして[私が]感じる事をリアル感を持って確認する事ができる。
冷たいと同時に暖かく,明るいと同時に暗く、うるさいと同時に静かで、その「感覚」に対して「一体どっちなんだはっきりしろ」という問いは馬鹿らしい。
「それは矛盾ではないか」という問いも「なんじゃ?」という感じだ。


その「感覚」はウソだと言われてもどちらも本当で、事実(温度計の表示等)をあてがわれても「違うように感じる事」にうそはない。


これらを「私」と言う主観が同時に感じることができる。


かといって、同時に違う事を感じているのだけれど、それを「対立」とは捉えてはいない様な気もする。




それとはまた別に、そこそこ寒い冬に、冷凍庫の中で一定時間作業して(つまりからだの全てをその中の環境に置く)、そこそこ寒い冬の外気に戻れば以前より明らかに(感覚的に)暖かい。


これは同時にリアル感を持って確認する事は出来ないけれども、これもまた記憶がその差を知覚させるかもしれない。
でも、その時間の経過によって不確かさがより濃く反映してしまう。
「時代が変われば」に似たようなところが有る。



人の体になぜほぼ同じ機能を持つものが左右二つあるのか判らないけれども(ひとつしかないものも有るし)、これは想像力や時間と同様に客観性へのヒントとして考えると結構意味のあることなのかもしれない。


さっきシャワーを浴びていて、急にお湯が冷たくなって「つめてぇ」と思ったときにフラっと頭に浮かんだのだけれど忘れぬうちにメモメモ。