馬鹿だよなぁー俺ら

最近、政治家や地位のある立場の人が「法には触れていないから良い」と「公言」してしまったり、逆に世間側が「法」には触れていないのに過度な懲罰を期待するようになってしまったような印象がある。

これでは法やルールの「隙間」は開く一方だなと思う。
互いがそうだから益々そうなるというスパイラル。
相互的なものだから。

そうではなくて、逆に前者が「法には触れてなくとも」を、後者が「法には触れていないのだから」をちょっとばかり意識的に振舞えばこの「隙間」は埋まるのに・・・とよく思う。

その悪循環こそがモラルの低下という事なのだと思うけど。
そんなに避け難いのかなぁー
馬鹿だよなぁー俺ら。

必要悪

「必要悪」という言葉があるけれども、これは「悪」の認識が前提となっている。
「必要悪」を「善」とは言いにくいと思う。


このようなケースの場合、裏を返すと「必要悪」を容認する人も否定する人も、「必要悪」という言葉を使っている限り「善悪」の認識は共有しているのだろう。


概ねこれら善悪基準が多くの他の事態には十分有効で適合的であるから「共有」されているのだと思うけど、(限界ゆえ起こる非可避な)切り取りの不十分さによって必ずしも全てに適合的でない、つまり「隙間」があるから現実に直面した時には不可避に「例外」というのは出てきてしまうことはあると思う。
「例外」である事を多くの人もまた暗黙の内にその妥当性認めざるを得ない可能性の話。


ここで、「必要悪」を「善」(もしくは是)として公言してしまえば「ある概念を悪とする事で十分有効な他の事態」にも「善」を宣言することになってしまうのでそうすることはできないというややこしさがある。


この善悪基準を共有するものにとって、「必要悪」は「悪」の範疇を出る事ができない「非公式」の「是」であって、決して「善」にもなれないし、あくまで「日陰者」でなければならない。
もし是か非かを問われれば「非」と答えるしかないもの。


「それを言っちゃおしまいよ」というのはこんな「隙間」の可能性の内にあるような気がする。

「隙間」を装う

不可避的に「隙間」が矛盾を生むとい言うことはあるとは思うのだけれど、この「隙間」は利用されやすいよなぁーとも思う。
「必要悪」でも何でもない(多くの人がそこに妥当性を全く感じていないような,そして本人ですら本当は「悪」としか思っていないような)ただの「悪」をあたかも不可避な隙間から生ずる矛盾を装って自己正当化の為に強弁して利用するケースもあるよなぁ。

正直言って私は上のエントリーの「必要悪」がそうであるように、立ち位置は違っても実は根底にある認識は共有しているというケースは結構多いのではないかと疑っている。
「認識の違い」と言う言葉は「証明」が出来ないので「自説を押し通す」には便利な言葉で、実際には認識を共有しているのに全く接点が無いかのように単にそう装ってしまうケースって結構多いんじゃなかろうか?

言葉以前の概念においては概ね共有していて多くの事柄にはこの是非が適合的だと感じているにも拘わらず、ある具体的な特異な事態を、特異な環境,特異な立場を前提に、正当化の為に意識的に恣意的な「切り取り方」をして「認識は共有出来ない」を演じているだけなんじゃねぇーのなんて思う事がある。