レイコフのモラルシステム論・メモ・簡略に追記18日・追記22・24日

 エントリーのためについでに書いてので、ここだけ仮のアップです。

http://homepage.mac.com/biogon_21/www/lakoff.html
 人に頼ってばかりじゃいかんですが。とりあえず概説です。*1

http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20050904/1126302490
 私のエントリーです 

比喩によるモラルと政治―米国における保守とリベラル

比喩によるモラルと政治―米国における保守とリベラル

 一般向けなので普通に読めます。

http://www.georgelakoff.com/
 レイコフのページです。

http://www.rockridgeinstitute.org/
 レイコフが書いているページですちょうど新刊の案内が出てます。

 まず、基本的にレイコフの理論はモラルに関する認知科学の理論であって、規範理論ではありません。そこが例えばロールズや、などの政治哲学と違うところです。レイコフ自身はリベラル(アメリカにおけるごく普通の意味で、かなりラディカルだけど)であると本書中で述べていますが、私は基本的にモデルと同じレベルでその立場を正当化しているとは判断しません。

 簡略に要点を述べると、レイコフのモラルシステム理論の重要な論点は二つあります、第一に人間はモラル的判断や推論をするとき(これは通常の生活全てといって良いのですが)に、論理的に厳密な思考でなく、メタファーを用います。その思考は無意識の概念システムに従っており、概念は厳密な定義のできない「放射状カテゴリー」です。第二に、人間は保守であれ、リベラルであれ同型のモデルを持っています。それらは「家族」のモデルとなっています(おそらく個人と集団、他者といった問題が常に倫理に付きまとうことと平行しているでしょう)。しかし、そこにおける各モラル概念の優先順位が違います、その違いが考え方や結論に大きな違いをもたらします(例えば、公正は保守とリベラルで全く内容が違う)。優先されるモラル概念の違いにより、保守とリベラルは区別されています。保守においてはモラル的な強さであり、リベラルにおいては共感のモラルです。ですから、保守の共感は相手が保守のモラルに従うか許容できる限りで行われますが、リベラルにおいてはこれは無条件です(もっとも保守の価値観自体に本当に共感することしてしまうと重大な矛盾におちいります、逆にこのような危険は保守にはありません)。重要なのはこれは人間のモラルシステムの記述であって規範ではないということです、ですから、この意味で「モラル」が不自然なものであったりするのは端的におかしいわけです。あるモラル(あるいはモラル全体)を拒否したり、不自然に思うとすればそれこそがモラル的判断をしているわけです。

 安倍晋三総裁誕生記念追記22日

 上の「所有と国家のゆくえ」についてのエントリーとこのメモは一応つながっているわけです。ですからとりあえず私の意見を書いておいた方が良いので最低限(内容自体が知りたい方は上のエントリーからのリンクを)。

 自コメントを引用すると

立岩さんが述べた、稲葉さんの「直感」と立岩さんの「直感」のどちらに共感しますか、それともそのような区別は意味がないと思いますか、といった質問をすればそれでよかった

 要するに稲葉振一郎氏の立岩真也氏への批判の一つとして、現在の「左翼≒リベラル」が「少数派」もしくは「少数派」の「代弁者」となってしまっているため、、現在の「強者のルサンチマン」、すなわち多数派である「普通のひとびと」(この題の本があったなw)が抱く、「少数派」とそれを擁護しようとする政策や制度、言説への敵意をどうするかという問題が提出されたわけです。もちろん批判はそれだけではありませんが、この批判に稲葉氏の問題意識が明晰に出ています。立岩氏はそれに対して「直感」を持ち出し、それは稲葉氏の「直感」であり、私はそう「直感」しないと答えたわけです*2。それはレイコフのモラル理論の視点から正当化しうるわけです。

普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊

普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊

 とはいえ、モラル保守にありがちな自己の立場の絶対視からの拒絶(「ふーん、合理化もいろんな形をとるんですね」とかw)とは違ったものが、稲葉氏の問いにはあります。私が書き込みで書いた「他者の消滅過程それ自体が実は我々の介入によっている」*3というのもそれにからみます。少なくとも塩川氏の指摘のように冷戦の終了(ソ連解体から、クーデター、急進的市場化まで)がボルシェビキのある部分の再現として行われたということは、「現存した社会主義」のモラル保守的な部分のある部分がわれわれの中に温存されたとも言えるわけです。この結果として、保守のモラルはあたかも「自然」であるかのよう扱われるになったわけです。社会科学や政治の言説の中でそのような傾向は強く見られます。しかし、同じ「科学」(科学でなければ同じという意味がありませんw)に依拠していても、モラル保守による解釈や適用と、モラルリベラルによるそれは上述したようにかなり重大な違いがあります(例えば「より小さな悪」とみなしたものに対してモラル保守はとても寛容になる)。モラル保守のみが現実には力を持つ状況は極めて危険です。このような中で稲葉氏は、上述したモラルリベラル特有の危険を孕みながら、このような現状に対処するすべを考えており、彼の「公共性」論はその最も重要な部分でしょう。こう考えた時に、私は稲葉氏を一度は支持せざるを得ないわけです*4。そのような試みがどう機能しているかは微妙ですが。

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

 レイコフのモラルシステム論が政治哲学や規範理論の「根拠付け」の問題に重要な新しい視点を与えるのは確かです、しかし「根拠」自体は与えません。我々が同じ「現実」や「科学」「方法」を共有しているとしてもなお残る対立を真剣に考えるなら(考えない「自由」もあるw)、避けて通れないでしょう。そのとき、改めて立岩氏の議論も別の様相を持って現れてくるでしょう、例えば再生産の問題などは家族が基礎モデルになっているレイコフのモデルと直接関連しますし(文体の問題は実は内容との関連でも重大だと思うけど)。果たして現代の「自然な」人間、社会、権利とはどのようなことかなど、このような思想的テーマはとめどなくなって大変になるのでこれで*5

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)

 これもと思ったけれど、また発売日が伸びてるー(T_T)。

 実のところ、モラルシステムが個々人においてどのように獲得され、またどのように変化しうるのかわかりません。ですから、それが変化するかについてのうかつな議論は控えるべきです、しかし、ある程度は小泉以降の社会を考える時に、モラル保守の堕落形態(そのようなものについては多少レイコフも検討している)とでも言うべき心性の人々*6が繁茂する状況を考える視点にもなるでしょう。私には、モラル的強さと(事実としての)「強さ」が実はあっさり接合されうること、そしてそれゆえモラル保守の思考と社会に自明とされる状況では、弱いがゆえに指弾されるべき対象を指弾することで「良く」あろう安心しようとしている(それを批判するのは当然「悪」である)そのような可能性を考えています。とはいえ、これは単純な問題ではないのできちんとしたことはまたいつか。一応はこれ以前の小泉やファシズムに関するエントリーを参照ください。「現存した社会主義」とモラルシステムについてもできればそのうち…。

 追記・トニー・ジャッド「ブッシュの有用な間抜け」の翻訳、レイコフの本が書かれた背景としても読めますし(年代的には第2版、読んでないけど…)、ある程度関連があり(特に冷戦)、レイコフ理論で有効に分析できるしその限界もわかる問題だと思います。*7

http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20060922/p1