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特許実務日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-03-24 ●昭和58(オ)171書籍所有権侵害禁止 「顔真卿自書建中告身帖事件」 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 本日は、『昭和58(オ)171 書籍所有権侵害禁止 著作権 民事訴訟「顔真卿自書建中告身帖事件」昭和59年01月20日 最高裁判所第二小法廷 判決 棄却 東京高等裁判所』(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/DFE979802F014DBB49256A8500311F7D.pdf)について取り上げます。


 本件は、昨日取り上げた『平成13(受)866等 製作販売差止等請求事件 その他 民事訴訟「ギャロップレーサー事件」平成16年02月13日 最高裁判所第二小法廷』(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/30FD115A02C8A4A549256EDE0026A362.pdf)の中で引用されていた判決で、「知的財産法判例集」(有斐閣)にも掲載されている事件です。


 つまり、本最高裁判決は、以下の内容です。


『                    主    文

     本件上告を棄却する。

     上告費用は上告人の負担とする。

         

                     理    由

 上告代理人中村稔、同熊倉禎男の上告理由について

 美術の著作物原作品は、それ自体有体物であるが、同時に無体物である美術の著作物を体現しているものというべきところ、所有権は有体物をその客体とする権利であるから、美術の著作物の原作品に対する所有権は、その有体物の面に対する排他的支配権能であるにとどまり、無体物である美術の著作物自体を直接排他的に支配する権能ではないと解するのが相当である。そして、美術の著作物に対する排他的支配権能は、著作物の保護期間内に限り、ひとり著作権者がこれを専有するのである。


 そこで、著作物の保護期間内においては、所有権と著作権とは同時的に併存するのであるが、所論のように、保護期間内においては所有権の権能の一部が離脱して著作権の権能と化し、保護期間の満了により著作権が消滅すると同時にその権能が所有権の権能に復帰すると解するがごときは、両権利が前記のように客体を異にすることを理解しないことによるものといわざるをえない。


 著作権の消滅後は、所論のように著作権者の有していた著作物の複製権等が所有権者に復帰するのではなく、著作物は公有(パブリツク・ドメイン)に帰し、何人も、著作者の人格利益を害しない限り、自由にこれを利用しうることになるのである。


 したがつて、著作権が消滅しても、そのことにより、所有権が、無体物としての面に対する排他的支配権能までも手中に収め、所有権の一内容として著作権と同様の保護を与えられることになると解することはできないのであつて、著作権の消滅後に第三者が有体物としての美術の著作物の原作品に対する排他的支配権能をおかすことなく原作品の著作物の面を利用したとしても、右行為は、原作品の所有権を侵害するものではないというべきである。


 小説のような言語の著作物の原作品である原稿が、通常、美術の著作物の原作品のようにそれ自体としては財産価値を有しないのは、美術の著作物の場合は、原作品によらなければ真にその美術的価値を享受することができないことから、原作品自体が取引の対象とされるのに対し、言語の著作物の場合は、原作品によらなくとも複製物によつてその表現内容を感得することができるところから、いきおい出版物としての複製物が取引の対象とされるからにすぎず、言語の著作物の原作品についても、有体物としての面と無体物としての面とがあることは、美術の著作物の原作品におけると同様であり、両者の間に本質的な相違はないと解されるのであつて、所論のように、美術の著作物の原作品についてのみ、著作権の消滅により原作品に対する所有権が無体物の面に対する排他的支配権能までも有することになると解すべき理由はない。


 そして、美術の著作物の原作品の所有権が譲渡された場合における著作権者と所有権者との関係について規定する著作権法四五条一項、四七条の定めは、著作権者が有する権利(展示権、複製権)と所有権との調整を図るために設けられたものにすぎず、所有権が無体物の面に対する排他的支配権能までも含むものであることを認める趣旨のものではないと解される。


 また、保護期間の満了後においても第三者が美術の著作物の複製物を出版すると、所論のように、美術の著作物の原作品の所有権者に対価を支払つて原作品の利用の許諾を求める者が減少し、原作品の所有権者は、それだけ原作品によつて収益をあげる機会を奪われ、経済上の不利益を受けるであろうことは否定し難いところであるが、第三者の複製物の出版が有体物としての原作品に対する排他的支配をおかすことなく行われたものであるときには、右複製物の出版は単に公有に帰した著作物の面を利用するにすぎないのであるから、たとえ原作品の所有権者に右のような経済上の不利益が生じたとしても、それは、第三者が著作物を自由に利用することができることによる事実上の結果であるにすぎず、所論のように第三者が所有権者の原作品に対する使用収益権能を違法におかしたことによるものではない。


 原判決が、被上告人の複製物の出版によつては上告人の原作品に対する使用収益権能が物理的に妨げられるものではなく、また、他人の権利の経済的価値の下落をもたらすような結果を生ぜしめる行為であるというだけではこれを違法とはいえない旨判示するのも、その意味するところは、ひつきよう、右に説示したところと同趣旨に帰するものと解されるのである。更に、博物館や美術館において、著作権が現存しない著作物の原作品の観覧や写真撮影について料金を徴収し、あるいは写真撮影をするのに許可を要するとしているのは、原作品の有体物の面に対する所有権に縁由するものと解すべきであるから、右の料金の徴収等の事実は、所有権が無体物の面を支配する権能までも含むものとする根拠とはなりえない。


 料金の徴収等の事実は、一見所有権者が無体物である著作物の複製等を許諾する権利を専有することを示しているかのようにみえるとしても、それは、所有権者が無体物である著作物を体現している有体物としての原作品を所有していることから生じる反射的効果にすぎないのである。若しも、所論のように原作品の所有権者はその所有権に基づいて著作物の複製等を許諾する権利をも慣行として有するとするならば、著作権法が著作物の保護期間を定めた意義は全く没却されてしまうことになるのであつて、仮に右のような慣行があるとしても、これを所論のように法的規範として是認することはできないものというべきである。


 これを本件についてみるに、原審の適法に確定した事実関係は、(1) 上告人は、中国唐代の著名な書家である顔真卿真蹟の「顔真卿自書建中告身帖」(以下「自書告身帖」という。)を所有している、(2) 被上告人らは、昭和五五年八月三〇日、和漢墨宝選集第二四巻「顔真卿楷書と王・臨書」(以下「本件出版物」という。)を出版した、(3) 本件出版物の第一部は自書告身帖の複製物である、というのである。右事実によれば、自書告身帖は、書という美術の著作物の原作品として、有体物としての面と無体物である美術の著作物としての面とを有するものというべきところ、自書告身帖について著作権が現存しないことは明らかであつて、上告人も、自書告身帖に対する所有権を主張するにとどまり、他方、被上告人らは、自書告身帖の前所有者の許諾を受けてこれを写真撮影した者の承継人から写真乾板を譲り受け、これを用いて本件出版物を製作したものであることは、上告人においてこれを認めるところである。


 そこで、前記説示に照らして考察すれば、被上告人らの右行為は、被上告人らが適法に所有権を取得した写真乾板を用いるにすぎず、上告人の所有する自書告身帖を使用するなどして上告人の自書告身帖に対する排他的支配をおかすものではなく、上告人の自書告身帖に対して有する所有権をなんら侵害するものではないといわざるをえない。右と同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。


 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。


     最高裁判所第二小法廷

         裁判長裁判官    宮   崎   梧   一

            裁判官    木   下   忠   良

            裁判官    鹽   野   宜   慶

            裁判官    大   橋       進

            裁判官    牧       圭   次      』

浅井修浅井修 2012/02/02 23:17 本件最高裁判決には複数の問題がある。すなわち、
1、唐の時代には当の唐はもとより世界中のどこにも著作権法はなかった。初めから無いモノがあらためて消滅することなどあり得ない。つまり自書告身帖は著作権の消滅した著作物ではなくして、著作権と無縁のものであり、したがって著作権法により律すべきものではない。これに対し、「著作権が消滅したものでも最初からなくても、現在著作権がないことに変わりはない」との反論が予測されるが、これは未婚の人とバツイチの人(一度結婚して離婚した人)とを同一視する粗雑な論理である。
2、無体物は観念的・抽象的存在であるから非可視的存在である。しかるに美術品の美的面は可視的存在であるから、これは有体物としての面である。目に見える無体物なんてものは存在しない。見える、ということは対象物に反射した光線が目のレンズを通って網膜に像を結び、それを視神経で感じ取り脳に伝えることであり、光線が反射するということは対象物が有体物であることを明確に示している。
3、判決によれば、絵画の美術的価値は、著作権保護期間中は著作権者に帰属し、著作権消滅後は公有となるという。そうすると、いずれの場合も絵画所有者は美術的価値を伴わない有体物であるキャンパスとこれに付着した絵具と額縁のみを支配するにすぎないこととなる(著作権保護期間中の絵画の著作権譲渡を受けた場合は別だが)。そうすると、何ゆえに絵画が数十億円というような高額で取引されるのか説明がつかないこととなる。
いうまでもなく、絵画を購入するとその美術的価値も当然付随してくると考えるから、人は何の疑いもなく絵画を高額で買うのである。有体物の対価(原材料費)だけなら高くても数万円で足りるはずである。
4、判決は上告人主張の慣行について「法規範としては是認できない」と退けたが、この慣行と同内容の契約は認められている。契約も公序良俗に反するものは違法とされるから、同種の慣行は公序良俗に反しないこととなり、是認されるべきである。
判決が慣行を認めなかった理由は、「著作権法が保護期間を定めた意味を全く没却する」というものだが、所有権と著作権は客体が相違するから、保護期間が相違するのは当然である。すなわち、著作権保護期間中の絵画に火をつけて消滅させてもその絵画に係る著作権は保護期間中存続する。逆に著作権保護期間が満了した後も、その客体が存在する限り所有権による支配は存続する(所有権を放棄すれば別だが)。なお、上記判示部分は一審判決に対する阿部浩二氏の評釈(判例時報1046号184頁)をパクったものである。この事実は、判決に対する最高裁判事の自信のなさを示している。
当該判決には反対学説が以下のとおり二説存する。
1、田中康博「写真影像に対する所有権保護について」(「京都学園法学」1993年第2、第3号)
2、辻 政美「所有権と著作権」(「裁判実務大系」旧版27 青林書院)