2009-11-11

努力は報われないほうがいい
労働に対して対価が支払われるのは、労働とその成果が交換可能だったからだ。
しかし、近代的な肉体労働とは違い、知識労働においてはその労働の結果が、正しく対価に変換されるとは限らない。
市場に商品を出す場合、それは交換がされることを前提としている、しかし、実際のところその交換は「賭け」でもある。
知識労働では、この「賭け」の側面が前面にあらわれてくる。それが、知識労働が量ではなく質でしか結果を測定できないということの意味なのだ。もはや労働者の作業が完了した段階で、その成果がどれほどのものであるかを測定することはできない。
これは、「効率化」が実効性を失っていることを示すだろう。効率を高めることが、答えがわかっている問題に対して、その答えの量産方法を確立することだとすると、そもそも「答え」にアクセスできないような問題に対して、効率を高めることは構造上不可能である。もしその状況下で「効率が高まった」と思えたとしたら、それは局所的な錯覚である。
効率化ができないとすると、この「賭け」の試行回数を増やすしか方法はない。
「情報の爆発は止まらない」--“20%ルール”で進化するグーグル - (page 3) - CNET Japan
知識労働においては、すべての労働時間を一つの可能性に費やすことを回避しなくてはならない。可能性を増やす時間を一定以上確保することこそが重要なのだ。
ところで、「努力」は答えがわかっている問題に対してしかできない。
知識労働において努力が実るということは、常に局所的な錯覚である。
もちろん「試行回数」を増やすことは目指されるべきだが、それはたったひとつの冴えたやり方としてやっているだけで、別に銀の弾丸でも何でもない。
本当のところ、仕事の対価は純粋に労働との交換によって計算されているのではない。
この対価には、仕事へのリスクを負うことへの報酬も含まれるからだ。
この場合リスクというのは、労働行為を完了できない可能性ではなく、完了したはずの労働行為があとになって無意味だったことが判明するリスクである。
資本家に経営者が雇われるのはこのリスクを負うためである。
余談だが正社員に対する派遣社員という関係では、正社員はリスクを負う立場である。しかし正社員は必ずリスクの転嫁を図るので、派遣社員が解雇される。
努力と結果の関係は、「いろいろなことをしていたらたまたま結果が伴った」という程度に考えるべきで、決して「努力したから結果が出た」という因果関係で捉えてはいけない。繰り返すがそれは局所的な錯覚である。
結果をもたらさない人材に対して語るべきことは、がんばれではなく、マイペースでいこう、しかあり得ない。
局所的な錯覚によって成果を出すというのは端的に、大局的な損を生じさせるという意味だ。
つまり、この世界は、誰かががんばると誰かが死ぬ世界なのだ。