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2012-04-05

[][]サッド・ホース渋谷エコー

真夜中に行われた、パンクでポップで、愛おしい、

アメリカは、オレゴン州ポートランドからやってきた、

エリザベスジェフの男女デュオ・サッド・ホースライブ


ひょっこり、撮影させて頂きました。

海外でもあんまり彼らの動画アップされていなし、

誰よりも近い映像が撮れたのではないかな?

nokton25mm0.95のレンズの力を活かせたのではないでしょうか。


自分で撮った映像ながら、何度も繰り返し見てしまっている。

自分撮影技術の至らなさを遥かに凌駕して、

エリザベスジェフヴォーカルギターは、僕の心を離さない。

そして、MCちょっとしたやり取りから垣間見せる

二人の人柄に、あっという間に虜になる。


都合がつけば、日曜の幡ヶ谷の方にも駆けつけたい。


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2012-02-08

[]加藤りま

昨年の12月撮影した加藤りまのライブです。

ようやくアップしました。

廃校を利用したアートスペース「3331 Arts Chiyoda」にちなんで、

学校もので、レアな「violence teacher」が聴けます。

rima katoopen mind @ 3331 Arts Chiyoda

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rima kato/anne @ 3331 Arts Chiyoda

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rima katoviolence teacher @ 3331 Arts Chiyoda

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rima kato/When I get home(Elizabeth Cotten)@ 3331 Arts Chiyoda

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rima katoI know your lies @ 3331 Arts Chiyoda

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rima kato/I miss you @ 3331 Arts Chiyoda

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2012-01-09

[]惑星のかぞえかた

昨年の12月撮影しました。

音源を聴いて、素晴らしいと思い、

ライブを見て、撮影して、むちゃくちゃ感動してしまった。

イントロから心掴まれ、

石坂さんの、優しく憂いのある、透き通る高音のヴォーカル

揺さぶられまくりました。

ジュディシルのカバーを聞いた時、ああ、やっぱりと。


惑星のかぞえかたのお二人は、

存在の哀しみを掴んでいる人なんだろうと思う。

別に大袈裟意味じゃなく。

凄くシンプルに。

人の心に届く、「音」を知っている。


舞台の外の素のお二人は、とても気さくな人でして、

歌が持つ重みとは、正反対の軽やかさ。


出会えたことに感謝するばかりです。

『午前中の時間割り』

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嵐が丘

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杞憂

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クレヨンエンジェルジュディ・シル)』

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『飛翔』

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少年少女

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2011-09-23

[]JIROX DOLLS SHOW

8月の終わりに行われた七針での今井次郎のソロライブ撮影したものです。

会場の臨場感がどこまで伝わるか判りませんが、

すばらしいライブでした。


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2011-09-11

[]テニスコーツエストニアライブ

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日本語知らないエストニアの観客が、

さやさんに合わせて、輪唱するシーンは、本当に素晴らしいのですが、

もう一つの素晴らしいと思ったのは、この映像です。


当たり前ですが、この映像が無ければ、僕は、この感動を、時も場所も離れて共有できなかった。

つまり、映像に残したことの凄さ

もう一点、カメラの横振り、ズーム、全部ヘタなのですが、

撮影者の、素直なその場の感情がむき出しに出ていて、素晴らしい撮影だと思ったのです。


これは、技術じゃない。

たぶん、この映像が、引きの固定映像だったら、ここまで感動しなかったと思う。

記録ではなく、記憶すること。

失敗するし、撮り逃すけど、その時その場所にいた感情を引き継ぐような映像を、僕も残して行きたいと思っている。


でもこれは、臨場感を出すために、わざと手持ちカメラ撮影する、疑似ドキュメンタリー手法とは違う。

わざと失敗し、撮り逃すのではなく、五感をフルに活かして、被写体に向き合うことで生じる、

失敗であったり、撮り逃しであったり。


この映像は、僕の一つの目標であります。


もう一つ、ヴィンセントムーン「The Take-Away Shows」のテニス映像がある。

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「バイババビンバ」という曲で、これまた、みんな大絶賛しているので、今更なのですが、

被写体と共犯関係が成立させた作品。


ワイヤレスマイクを使ったせいで、音の奥行きが消えてしまった感もあるし、

そこらへんが、まだ付け入る隙があるかなとも思うのですが、

それでも、街の音とテニスの曲が重なる興奮に満ちた圧倒的な作品なんですよねえ。

2011-09-09

[] J・J・エイブラムスSUPER8』と是枝裕和奇跡

SUPER8

2011年 アメリカ 

監督脚本J・J・エイブラムス

製作スティーヴン・スピルバーグJ・J・エイブラムスブライアンバーク

音楽マイケル・ジアッキーノ

撮影ラリー・フォン

出演:ジョエルコートニー、エル・ファニング、ライリー・グリフィス

   ライアン・リー、ガブリエルバッソ、ザック・ミルズ

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奇跡

2011年

監督脚本編集是枝裕和

撮影山崎

音楽主題歌: くるり「奇跡」

出演:前田航基前田旺志郎林凌雅、永吉星之介、内田伽羅橋本環奈、磯邊蓮登

   オダギリジョー夏川結衣阿部寛長澤まさみ原田芳雄大塚寧々樹木希林橋爪功

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SUPER8』。

スリーマイル事故が背景としてあったりして、物語そのものが、原発事故にも見える。

本作は暴力についての、あるいは暴力のぶつかり合いの映画である

映画作りの暴力性(デブ監督)と恋愛による疎外(主人公)という暴力」「子供と大人」「人間と…」「過去と今」

それぞれの暴力に胸が締め付けられる。


例えば、是枝裕和の『奇跡』が、抽象的に「世界」が「奇跡」を振り捨てて選択されますが、

SUPER8』は、ちゃんと「世界」を具体的に示す。


主人公とエル・ファニングそれぞれの父親同士の和解として。

あるいは大人と子供との、人間と…との。過去現在との。

是枝裕和の問題は、相変わらず具体性のなさなんだろう。

昔、稲川方人が、『ワンダフルライフ』を、再現フィルム=死者の映画をついに見せなかったことを批判した。


ワンダフルライフ』は、死者たちが、人生最良の時を映画化して、成仏して行くという設定なのですが、

その映画映画たる「人生最良の時の作品」は、僕ら観客は見ることが出来ない。

奇跡』でも、主人公の兄弟はそれぞれ、予め用意していた願い事を放棄して、等身大の願いを祈る。


その時の兄の願いが、「世界」なのである

ミュージシャンである父親から

自分の生活より大事ものを持ってほしいんや。音楽とか、世界とか」と言われたからだ。

しかし、この「世界」が、雰囲気だけ醸し出していて、実は何のことだか、全然よく分らない。


J・J・エイブラムスは、ちゃんと「世界」を具体的に示す。

主人公とエルファニングそれぞれの父親同士の和解として。

あるいは大人と子供の、人間と…との。過去現在との。

今一番必要なのは、この具体性なのだと思う。


肝の設定が上手く活かされていないという声も多いのですが、

暴力の応酬と、その後の「世界」のたち現われ方の明快さに焦点を絞れば、実に良く出来た作品だと思う。

しかも、映画映画が素晴らしすぎて。


さらにその映画映画の、純粋情熱結晶というよりは、

あらゆる暴力が介在した(ゾンビという設定、ストーリーも含め)成れの果ての赤裸々さに泣けてくるのです。

可愛い好きな女の子を撮る」という映画作りの初期衝動暴力が懐かしい。


さらに『SUPER8の子供たちが、抜群に輝いていたのに対して、

奇跡の子供の演出はどうも窮屈だ。

特に「奇跡」について自由に話しをさせるシーンの子供の演出は、失敗していると思う。

まえだまえだも芸達者な芸人しか見えなかったし。

唯一、成功しているのは、子供としてではなく、女の子として切り取った内田伽羅存在だけかな。

この内田哉也子の娘のキャスティングセンスは、さすが!

是枝裕和は、ドキュメンタリー畑で築いた「魅力をすくい取る」才能に溢れていると共に、

視姦的なショットに冴えを見せる。

エロスを切り取ることが天才的に上手いのです。

少女から30、40代の女性を描かせるとピカイチ


それに対して、社会的な視座は、すごく幼い。

判りやすいが故に、自意識を刺激しやすいのかもしれませんが、

空気人形』の「孤独」の紋きりさとか、

奇跡』の「世界」とか、

語っているようで、何も語っていない不誠実さを常に感じるのですよねえ。


いつも思うのだけど、是枝裕和には、

80年代角川映画の、アイドル存在一点に懸けられたような

プログラムピクチャーを撮ってもらいたい。

2011-09-06

[]トーマス・アルフレッドソン『ぼくのエリ』

2008年 スウェーデン 115分

原題:LAT DEN RATTE KOMMA IN

監督:トーマス・アルフレッドソン

原作脚本:ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト

出演:カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション、ペール・ラグナー


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被写体深度が極めて浅く(半径1メートルしかピンが合わないアップが多用)、

登場人物の人間関係も極めて狭い。

しかし、この狭さが、作品観を逆に広げているし、

現代の「個」が置かれた状況を的確に描写しているのではないでしょうか?


登場人物は、みなどこか欠損していて、孤独で哀しい存在である

しかも、それぞれ、哀しみのグラデーションが違う。

その哀しい個がお互いを傷つけあったり、慰めあったりする。


他人の部屋に入る前に、エリは必ず、「入っていい?」という問いかけし、

それに対する「いいよ」という了解の返事無しに、部屋に入らない。

この作品は、モールス信号によるコミュニケーションも取り入れられるのですが、

個と個を繋ぐ、コミュニケーションが何よりも重要な位置を占める。


吸血鬼が求めているものがことによると「血」よりも「コミュニケーション」なのかもしれない。

コミュニケーション」が掟のように必要になる。

もうこれは、「吸血鬼」というジャンルものを越えて、

今を生きる孤独人間たちの、つまりは僕たちの映画なのだと思う。


主人公の少年の「いいよ」の一言がなく、

血を求める吸血鬼であるはずのエリが、逆に血を体中から流し始める。

ここら辺の、いじめられっ子の主人公の傲慢不遜な態度がまた、

すごくリアルで、逆に痛々しい。

歪な弱さというか。


人間は固定されたキャラがあるのではなく、その都度、相対的な力関係で態度が変わる。

自分よりも弱い人間がいたら、いじめられっ子は、いじめっ子にもなり得る。

『ぼくのエリ』は岩井俊二の『リィリィ・シュシュ』の世界とよく似ている。

立場の二重性。

僕らは、被害者であり加害者なのである

2011-09-05

[]青山真治東京公園

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例えば「家族」というシステムを取り上げてみても、

青山真治は「ないけどある」みたいになる。

逆に黒沢清だと「あるけどない」というものになる。

例えば、親がリタイアして主人公が一人で住む一軒家の設定の豊かさ、

榮倉奈々との幼友達のような関係の豊かさ、僕には眩しすぎた。


あるいは榮倉奈々の、ホラー映画好きな設定、

瞼の母』を教養と言い切るセリフ、

そんな饒舌な語り部としての豊かさを臆面もなく披露されてしまうと、

まあ、それはそれで良いかと思うが、自分からドンドン離れて行く。


最後IKEAのシーンは、

例えば、『500日のサマー』の儚く存在する夢の時空としてのIKEAとは

正反対のリアリズムに貫かれていた。

実用品選びの場所であった。

いかにも「ない」けど「ある」に行き着く青山真治らしい演出。

青山真治はひたすら「ある」ものに対して拘っているのだ。


例えば、黒沢清の『トウキョウソナタ』。

ここで描かれる、一軒家は、階段は、暴力装置として作動したり、

小泉今日子空虚さを醸し出す時空だったりする。

一軒家も家族も「ある」のだけど、機能不全で、「ない」のである

結局、家族一人一人の物語が無機質に集まった物語だと思う。


『サッドバケーション』の登場人物たちが集まる共同体たる運送屋の設定。

石田えりの「母性暴力」。

そこでも青山真治は「ある」ものを描いていた。


しかし、僕は、やっぱりこの青山真治の「ある」ものは信じられないのです。

この不景気の中で、経済性を無視して、若者たちを受け入れてしまう

『サッドバケーション』の運送屋の設定は、あまりにも豊か過ぎて。


東京公園』は原作もので、監督委託された作品だと思うのですが、

この舞台となっている東京の数々の公園もまた、

青山真治らしい豊かさに満ちあふれている。

そして実際に東京の公演でロケが行われているはずなのに、

僕が現在生きている東京を感じることが出来なかった。


例えば、『松ケ根乱射事件』での松ケ根という地方都市

『マイバックページ』での60年代後半から70年代にかけての東京

「場所」も「時間」もちがうのだけど、

山下敦弘が描く世界の方が圧倒的に東京表象しているように、僕は思う

それは豊かさに対する諦念。

言ってしまえば、経済的ではなく、人間関係的な「貧しさ」についての映画だったからかもしれない。

2011-09-02

[]加藤りま

2011.8.21 八丁堀・七針


rima katoopen mind

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rima kato/dark clouds

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rima katoI know your lies

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rima kato/I miss you

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rima kato/I never dislike you

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2011-09-01

[]グザヴィエ・ボーヴォワ『神々と男たち』

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監督・脚色・台詞:グザヴィエ・ボーヴォワ

脚本・脚色・台詞:エチエンヌ・コマール

出演:ランベールウィルソンマイケル・ロンズデールオリヴィエ・ラブルダン

   フィリップ・ロダンバッシュジャック・エルラン、ロイック・ピション

   グザヴィエ・マリー、ジャン=マリー・フランオリヴィエペリエ

   サブリナ・ウアザニ、ファリド・ラービ、アデル・バンシェリフ


信仰の話しかと思いきや、家族についての話しでした。

96年、アルジェリアで、武装集団によって7人のフランス人修道士が殺された事件をベースにしている本作は、

修道院周辺で、事件が頻発し、それでも居続けた修道士たちの存在が描かれている。


修道院は、キリスト精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活する場所である

そして、修道士たちは生涯独身を貫く。


キリスト教「家族」という最小パーツに入れない人々に、「修道士」という役割を与えたのであろうか?

より大きな使命を抱かせて、自己献身人生を捧げる。

しかし、自分たちの命が脅かされた時、

信仰」が揺るがされる。


命あっての「信仰」。


命を意識することで、主体の認識が呼び覚まさる。

何で自分は「信仰」しているのか?

そもそも何で自分修道士なんだろう?

信仰」への疑念?

そして行き着いた先が、各々の「居場所」の無さの暴露である


でもそのことが、逆に、再び「信仰」へと回帰させて行く。

家族日常祖国を捨て、未来の妻と子供を捨ててきた修道士たちは、

フランスに帰っても自分の居場所がないことに気付く。

そして、みな「残る」決意をする。


崇高な「信仰」というより、切実な「居場所」の問題で。


もちろん、彼らは、そして彼らの修道院は、

医療さえ間々ならないアルジェリアの貧しい田舎町の生命線であり、

無くてはならない存在だった。

コーランを読むシーンからも、

診察のシーンからも、土地の人々への彼らの想いが伝わってくる。

アルジェリアに残ることは、「信仰」あると言ってもいい。

と同時に、家族を持てなかった男たちの「居場所」でもあったということだ。


テロに怯え、帰国すると言い出した一人で、最年少者かもしれないその修道士が、

自室でメモ帳に「ジュテーム(愛している)」と書いているシーンと、

額が皺だらけの修道士が、家族写真を撮った時に、

笑ってはいたけれど自分の居場所はどこにもなかったと告白するシーンに、

胸が締め付けられる。


最後の晩餐で、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が流れ、

みな自然と涙する修道士たちの身体性の強さと、

その一点に懸けたであろうグザヴィエ・ボーヴォワの想いに感動してしまった。

本作は、グザヴィエ・ボーヴォワの「人間讃歌」の映画ですね。

ジョジョシリーズ荒木飛呂彦と通じる熱さを感じました。