2012-04-05
2012-02-08
■[音楽]加藤りま
ようやくアップしました。
廃校を利用したアートスペース「3331 Arts Chiyoda」にちなんで、
学校もので、レアな「violence teacher」が聴けます。
rima kato/open mind @ 3331 Arts Chiyoda
rima kato/anne @ 3331 Arts Chiyoda
rima kato/violence teacher @ 3331 Arts Chiyoda
rima kato/When I get home(Elizabeth Cotten)@ 3331 Arts Chiyoda
rima kato/I know your lies @ 3331 Arts Chiyoda
2012-01-09
2011-09-11
■[ライブ]テニスコーツのエストニアのライブ
さやさんに合わせて、輪唱するシーンは、本当に素晴らしいのですが、
当たり前ですが、この映像が無ければ、僕は、この感動を、時も場所も離れて共有できなかった。
撮影者の、素直なその場の感情がむき出しに出ていて、素晴らしい撮影だと思ったのです。
これは、技術じゃない。
たぶん、この映像が、引きの固定映像だったら、ここまで感動しなかったと思う。
記録ではなく、記憶すること。
失敗するし、撮り逃すけど、その時その場所にいた感情を引き継ぐような映像を、僕も残して行きたいと思っている。
でもこれは、臨場感を出すために、わざと手持ちカメラで撮影する、疑似ドキュメンタリーの手法とは違う。
わざと失敗し、撮り逃すのではなく、五感をフルに活かして、被写体に向き合うことで生じる、
失敗であったり、撮り逃しであったり。
もう一つ、ヴィンセント・ムーン「The Take-Away Shows」のテニスの映像がある。
「バイババビンバ」という曲で、これまた、みんな大絶賛しているので、今更なのですが、
被写体と共犯関係が成立させた作品。
ワイヤレスマイクを使ったせいで、音の奥行きが消えてしまった感もあるし、
そこらへんが、まだ付け入る隙があるかなとも思うのですが、
それでも、街の音とテニスの曲が重なる興奮に満ちた圧倒的な作品なんですよねえ。
2011-09-09
■[映画] J・J・エイブラムス『SUPER8』と是枝裕和『奇跡』
『SUPER8』
製作:スティーヴン・スピルバーグ、J・J・エイブラムス、ブライアン・バーク
出演:ジョエル・コートニー、エル・ファニング、ライリー・グリフィス
『奇跡』
出演:前田航基、前田旺志郎、林凌雅、永吉星之介、内田伽羅、橋本環奈、磯邊蓮登
オダギリジョー、夏川結衣、阿部寛、長澤まさみ、原田芳雄、大塚寧々、樹木希林、橋爪功
『SUPER8』。
スリーマイルの事故が背景としてあったりして、物語そのものが、原発事故にも見える。
本作は暴力についての、あるいは暴力のぶつかり合いの映画である。
「映画作りの暴力性(デブ監督)と恋愛による疎外(主人公)という暴力」「子供と大人」「人間と…」「過去と今」
それぞれの暴力に胸が締め付けられる。
例えば、是枝裕和の『奇跡』が、抽象的に「世界」が「奇跡」を振り捨てて選択されますが、
是枝裕和の問題は、相変わらず具体性のなさなんだろう。
昔、稲川方人が、『ワンダフルライフ』を、再現フィルム=死者の映画をついに見せなかったことを批判した。
『ワンダフルライフ』は、死者たちが、人生最良の時を映画化して、成仏して行くという設定なのですが、
その映画内映画たる「人生最良の時の作品」は、僕ら観客は見ることが出来ない。
『奇跡』でも、主人公の兄弟はそれぞれ、予め用意していた願い事を放棄して、等身大の願いを祈る。
「自分の生活より大事なものを持ってほしいんや。音楽とか、世界とか」と言われたからだ。
しかし、この「世界」が、雰囲気だけ醸し出していて、実は何のことだか、全然よく分らない。
J・J・エイブラムスは、ちゃんと「世界」を具体的に示す。
今一番必要なのは、この具体性なのだと思う。
肝の設定が上手く活かされていないという声も多いのですが、
暴力の応酬と、その後の「世界」のたち現われ方の明快さに焦点を絞れば、実に良く出来た作品だと思う。
あらゆる暴力が介在した(ゾンビという設定、ストーリーも含め)成れの果ての赤裸々さに泣けてくるのです。
「可愛い好きな女の子を撮る」という映画作りの初期衝動の暴力が懐かしい。
さらに『SUPER8』の子供たちが、抜群に輝いていたのに対して、
特に「奇跡」について自由に話しをさせるシーンの子供の演出は、失敗していると思う。
唯一、成功しているのは、子供としてではなく、女の子として切り取った内田伽羅の存在だけかな。
是枝裕和は、ドキュメンタリー畑で築いた「魅力をすくい取る」才能に溢れていると共に、
視姦的なショットに冴えを見せる。
それに対して、社会的な視座は、すごく幼い。
判りやすいが故に、自意識を刺激しやすいのかもしれませんが、
語っているようで、何も語っていない不誠実さを常に感じるのですよねえ。
いつも思うのだけど、是枝裕和には、
プログラムピクチャーを撮ってもらいたい。
2011-09-06
■[映画]トーマス・アルフレッドソン『ぼくのエリ』
原題:LAT DEN RATTE KOMMA IN
出演:カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション、ペール・ラグナー
被写体深度が極めて浅く(半径1メートルしかピンが合わないアップが多用)、
登場人物の人間関係も極めて狭い。
しかし、この狭さが、作品観を逆に広げているし、
現代の「個」が置かれた状況を的確に描写しているのではないでしょうか?
登場人物は、みなどこか欠損していて、孤独で哀しい存在である。
しかも、それぞれ、哀しみのグラデーションが違う。
その哀しい個がお互いを傷つけあったり、慰めあったりする。
他人の部屋に入る前に、エリは必ず、「入っていい?」という問いかけし、
それに対する「いいよ」という了解の返事無しに、部屋に入らない。
この作品は、モールス信号によるコミュニケーションも取り入れられるのですが、
個と個を繋ぐ、コミュニケーションが何よりも重要な位置を占める。
吸血鬼が求めているものがことによると「血」よりも「コミュニケーション」なのかもしれない。
「コミュニケーション」が掟のように必要になる。
今を生きる孤独な人間たちの、つまりは僕たちの映画なのだと思う。
主人公の少年の「いいよ」の一言がなく、
血を求める吸血鬼であるはずのエリが、逆に血を体中から流し始める。
すごくリアルで、逆に痛々しい。
歪な弱さというか。
人間は固定されたキャラがあるのではなく、その都度、相対的な力関係で態度が変わる。
自分よりも弱い人間がいたら、いじめられっ子は、いじめっ子にもなり得る。
『ぼくのエリ』は岩井俊二の『リィリィ・シュシュ』の世界とよく似ている。
立場の二重性。
2011-09-05
■[映画]青山真治『東京公園』
青山真治は「ないけどある」みたいになる。
例えば、親がリタイアして主人公が一人で住む一軒家の設定の豊かさ、
そんな饒舌な語り部としての豊かさを臆面もなく披露されてしまうと、
まあ、それはそれで良いかと思うが、自分からはドンドン離れて行く。
例えば、『500日のサマー』の儚く存在する夢の時空としてのIKEAとは
正反対のリアリズムに貫かれていた。
実用品選びの場所であった。
ここで描かれる、一軒家は、階段は、暴力装置として作動したり、
一軒家も家族も「ある」のだけど、機能不全で、「ない」のである。
『サッドバケーション』の登場人物たちが集まる共同体たる運送屋の設定。
しかし、僕は、やっぱりこの青山真治の「ある」ものは信じられないのです。
この不景気の中で、経済性を無視して、若者たちを受け入れてしまう
『サッドバケーション』の運送屋の設定は、あまりにも豊か過ぎて。
『東京公園』は原作もので、監督を委託された作品だと思うのですが、
青山真治らしい豊かさに満ちあふれている。
例えば、『松ケ根乱射事件』での松ケ根という地方都市、
『マイバックページ』での60年代後半から70年代にかけての東京。
「場所」も「時間」もちがうのだけど、
山下敦弘が描く世界の方が圧倒的に東京を表象しているように、僕は思う。
それは豊かさに対する諦念。
2011-09-01
■[映画]グザヴィエ・ボーヴォワ『神々と男たち』
出演:ランベール・ウィルソン、マイケル・ロンズデール、オリヴィエ・ラブルダン
フィリップ・ロダンバッシュ、ジャック・エルラン、ロイック・ピション
グザヴィエ・マリー、ジャン=マリー・フラン、オリヴィエ・ペリエ
サブリナ・ウアザニ、ファリド・ラービ、アデル・バンシェリフ
96年、アルジェリアで、武装集団によって7人のフランス人修道士が殺された事件をベースにしている本作は、
修道院周辺で、事件が頻発し、それでも居続けた修道士たちの存在が描かれている。
修道院は、キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活する場所である。
キリスト教は「家族」という最小パーツに入れない人々に、「修道士」という役割を与えたのであろうか?
しかし、自分たちの命が脅かされた時、
「信仰」が揺るがされる。
命あっての「信仰」。
「信仰」への疑念?
家族、日常、祖国を捨て、未来の妻と子供を捨ててきた修道士たちは、
そして、みな「残る」決意をする。
崇高な「信仰」というより、切実な「居場所」の問題で。
もちろん、彼らは、そして彼らの修道院は、
医療さえ間々ならないアルジェリアの貧しい田舎町の生命線であり、
無くてはならない存在だった。
診察のシーンからも、土地の人々への彼らの想いが伝わってくる。
と同時に、家族を持てなかった男たちの「居場所」でもあったということだ。
テロに怯え、帰国すると言い出した一人で、最年少者かもしれないその修道士が、
自室でメモ帳に「ジュテーム(愛している)」と書いているシーンと、
笑ってはいたけれど自分の居場所はどこにもなかったと告白するシーンに、
胸が締め付けられる。
その一点に懸けたであろうグザヴィエ・ボーヴォワの想いに感動してしまった。











