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2010-05-15

[]チェルフィッチュホットペッパークーラー、そしてお別れの挨拶

ラフォーレ原宿

作・演出:岡田利規

出演:山縣太一安藤真理、伊東沙保、南波圭、武田力、横尾文恵

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2004年製作された短編で、トヨタ・コレオグラフィー・アワード」で最終選考会にノミネートされた『クーラー』を元に、

前後に「ホットペッパー」と「お別れの挨拶」という短編を付け加えて、

新たな軸で、語られる物語


それは、一つの会社内で、派遣社員退職をめぐる物語

派遣社員退職送別会幹事を引き受けた同僚の三人の派遣社員の、店選びの掛け合い「ホットペッパー」。

社内の空調の温度をめぐる二人の男女の掛け合い「クーラー」。

ホットペッパー」「クーラー」に登場した社員たちの前で、

退職挨拶をする女性派遣社員の独り舞台「お別れの挨拶」。


それらを一部の「ホットペッパー」では、ジョン・ケージ

二部の「クーラー」では、トータスステレオラブ

三部の「お別れの挨拶」では、コルトレーン

の曲をまるまる一曲使って、それに合わせて、掛け合い、挨拶が繰り広げられる。


チェルフィッチュ的な身体の動きに、今回もまた魅力され、

さらに音楽との合わせ方にも、驚かされました。

音と身体の動きを合わせるというやり方ではない、

つまり、音をリズムではなく、背景をして使うやり方。

かといって、効果音でもない、不思議な関係。

下手だけど、ここまでコンセプチュアルに、確信犯で行われた

岡田さんの演出は、冴えに冴えまくっていたなあ。


たぶん、本作は、岡田さんがいつもテーマというか設定に使う

「今」の「日本」というキーワードが、どんどん背後に後退して、

意味を失調し、目の前にいる役者たちの身体に焦点が合わされるからだろう。


岡田さんは自身のブログの中で、

ホットペッパークーラー、そしてお別れの挨拶」という芝居を今上演中なんですけれども、

評判がいつもより俄然いいみたい。

僕としては嬉しい半面、しかし釈然としなかったりもして、

こないだ、見に来てくれた友達とか公演のメンバーとかとしゃべってたとき

「『わたしたちは無傷な別人であるのか?』より今回は全然評判がいい、それは気に入らない。

どっちも同じくらい気に入られたい」とだだこねたら、

「だって今回のはわかりやすいからしょうがないだろ」的にたしなめられた。

「じゃあ、もうこういうわかりやすい系はあと数年作らない」と言ったら、

「どんだけひねくれてんだよ!」と言われた。


チェルフィッチュはいつもは退屈だけど今回は飽きなかった、的な意見も多いみたい。

それはほめ言葉なのかな? 

正直微妙だ。退屈、というのはものすごく大事なファクターなんだということは言っておきたい。


「退屈」ってものが岡田さん的に、どんなことをさしているのか定かではないが、

身体的な表現とは別の、社会的な文脈の表現は、

同い年である僕にとって、すごく良くわかる反面、

実は、もっともノレないチェルフィッチュの部分で、

作り手の側に立つと、

『わたしたちは無傷な別人であるのか?』は、すごくわかり安い。

いや、別に作り手じゃなくても、

タイトルに示されたナイーヴな問いかけを、

誰しも一度は想起するものじゃないでしょうか?


今回の新作「ホットペッパークーラー、そしてお別れの挨拶」が、

岡田さんの不満とは裏腹に、評判が良いのは、

「今」の「日本」というキーワードを含みつつも、

社会的な文脈から解放された、快楽があったからなんだと思う。


さらに、本作で、岡田さんの作品のすばらしさは、

役者の「そのもの性」あるいは「個性」というものに依拠しているのではなく、

岡田的なメソッドを厳密に追求しているからこそ、事後的に生まれる

役者たちの「個性」によって、支えられているのだと、強く感じました。


例えば、伊東沙保が、チェルフィッチュ初出演だった前回の「フリータイム」よりも

「間」のバリエーションが増え、チェルフィッチュ的になっていたことからもわかるように、

岡田さんは、役者の「個性」を引き出すのが上手い訳ではなく、

自分好みの岡田存在にすることが上手いのだ。 

会話とは無関係な身体所作から産み出すのは、リアリズムではなく、

岡田萌え」なのではと。


でもそこから、逆に、役者たちの「個性」が見事に立ち現われることになる。

だから、本作「ホットペッパークーラー、そしてお別れの挨拶」の三部の女優さんの独り舞台が、

いまいち停滞してしまったのは、

もっと言うと、イマイチ魅力的に感じられなかったのは、

彼女チェルフィッチュ的な「間」を会得していなかったからだと思う。

彼女チェルフィッチュ的な身体所作が、単調で、退屈してしまったのです。

つまり、それは全くチェルフィッチュ的ではないということ。

でも、伊東沙保が前回とはガラリと変わったように、

彼女も、岡田メソッドを体現できれば、いつでも魅力的になるということでもある。


僕が、チェルフィッチュから学んだのは、

役者の力ではなく、演出力によって、人はいかようにも魅力的に見せる事が出来るということ。

だから、三部の女優さんが魅力的ではなかったのではなく、

岡田さんの演出が上手くなかったと言った方が正解なのだろう。



ちなみに、僕は、伊東沙保を「ひょっとこ乱舞」という小劇団舞台で初めて見て、

その劇団の作風には全然感心しなかったのだけれど、

彼女の迫真の演技に、初めて、舞台の感動を味わせてもらった女優さんです。

しかし、今回のチェルフィッチュ舞台にいる伊東沙保は、

ひょっとこ乱舞の伊東沙保とは全く別人のようでした。


「ひょっとこ乱舞」と「チェルフィッチュ」の伊東沙保のどちらも魅力的なのですが、

僕が、今、生きていて、刺激されるのは「チェルフィッチュ」の伊東沙保であって、

そんなところのどこかに、「今」の「日本」を表象する何かが隠されていると思う。

alifeclubalifeclub 2010/08/04 23:47 いつも楽しく観ております。
また遊びにきます。
ありがとうございます。

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