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2017-02-23 古本夜話634 丘浅二郎『進化論講話』と開成館

[] 古本夜話634 丘浅二郎『進化論講話』と開成

前回の大杉栄訳『種の起原』のことで、大正十二年に刊行された彼の『自叙伝』(『大杉栄全集』第十二巻所収、現代思潮社)を再読してみた。すると中学時代の回想として、『進化論講話』との出会いが語られていた。

f:id:OdaMitsuo:20170212114816j:image:h110 進化論講話(講談社学術文庫版)

 丘博士の『進化論講話』は壱岐坂時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰り返しては愛読した。

 (中略)『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなってゆくような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページごとに目の前に開けてゆくのだ。僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、強いるようにして、その一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本ではじめて目覚めさせられた。そして同時にまた、すべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいりやすくさせた。

この丘浅次郎の『増補進化論講話』は同『生物学講話』とともに、浜松の時代舎で購入している。いずれも開成館から出された菊判上製の七〇〇ページを超える大冊で、前者は初版を明治三十七年とする大正三年修正第十一版、後者は大正五年再版である。ここでは前者の『増補進化論講話』にふれてみる。丘は動物学者だが、ダーウィンの進化論を忠実に受け入れ、それをベースとして人間の思想、文化、教育を論じることによって、明治末から大正期にかけて幅広い読者層を獲得し、特大な影響を与えたとされる。

それは「増補版はしがき」にある「本書の第一版の現れた頃には、この種類の書物は他に一種もなかつたが、それより十年を経た今日になつても、尚著しく増加したことを聞かぬ」という一節からもうかがえる。また先に挙げた大杉の回想も理解できるような気がする。まさに丘の進化論は「すべてのものは変化する」と教示しているからだ。

丘は進化論が生物界にのみ当てはまるもので、生物進化の意味を問い、その歴史をたどってダーウィンとその『種の起源』に至る。それを受けて人の飼養する動植物の変異、人為淘汰、野生の動植物の変異、動植物の増加、生存競争、自然淘汰というダーウィン理論を述べ、続いて生物進化論の証拠を論じていく。そこから進化論が哲学、宗教、社会、文学などに与えた影響が語られ、それが現代の文明世界に広範な風波を生じさせるに至ったと結論づけられている。

そして最後は「付録」として、「進化論に関する外国書」の案内が置かれ、その筆頭にダーウィンの『種の起源』『人の先祖』が挙げられ、それにハックスレイ、ヘッケル、ウォーレスなどの二十冊が並んでいる。その中でもヘッケルは四冊を占め、本連載153「埴谷雄高とヘッケル『生命の不可思議』」でもふれてきたが、ヘッケルが進化論の文脈の中で、翻訳紹介されてきたことが了解される。こうしたリストによって、大杉のように『進化論講話』の読者が、同じくダーウィンの『種の起源』の原書に向かっていったことは想像に難くない。何しろ「近来安い版が出来て居る故、五十銭位で買へる」とのコメントが付されているからだ。

また先の「同はしがき」にある、次のような結びの一節にも注目すべきだろう。そこには「開成館主人西野虎吉氏が、進化論に深き興味を有し、本書の初版以来その普及を図るに別段に熱心であったこと」、及び多くの図版の採用も彼によるとの言が述べられている。新たな思想書の普及には必ず出版社がコラボレーションしていて、この丘の言葉はそれを端的に示していよう。西野は『出版人物事典』にも立項されているので、それを引いてみる。

出版人物事典

 [西野虎吉 にしの・とらきち]一八六七〜一九一八(慶応三〜大正七)開成館主。大阪市生れ。大阪市の三木開成館に入り、一九〇一年(明治三四)上京して東京開成館を創立、「汽笛一声新橋を」に始まる大和田建樹の『鉄道唱歌』を発行、大評判を呼んだ。大阪の三木開成館と呼応して教科書界で活躍、藤井健治郎『植物教科書』、丘浅次郎『動物教科書』、三浦周行『国史教科書』、山崎直方『地理教科書』、高木貞治『数学教科書』等々各方面にわたる有名な教科書を多数出版し、一時は中学教科書の大御所とまでいわれた。東京書籍商組合評議員をつとめた。

この立項によって、奥付に表記されている「販売所」としての大阪の三木佐助、東京の林平次郎のことがよくわかる。三木は拙稿「明治維新前後の書店」(『書店の近代』所収、平凡社新書)でも取り上げられているが、後の大阪書籍の社長、平は六合館館主で、いずれも教科書、辞典、学参などの出版と取次を兼ねていて、このトライアングルが同時に丘浅次郎の著作の生産、流通、販売を担っていたことになる。おそらくこの三者は学校ルート販売に関しては最強で、そのインフラによって丘の著作も大きな影響を生じさせることになったと思われる。

書店の近代


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2017-02-21 古本夜話633 大杉栄訳『種の起原』と佐藤義亮

[] 古本夜話633 大杉栄訳『種の起原』と佐藤義亮

前回の参照資料として、『新潮社四十年』所収の佐藤義亮「出版おもひ出話」を読んでいたら、『社会問題講座』のところに「大杉栄氏へ絶交状」という一章が置かれていた。これもかつて読んでいたはずなので、すっかり忘れていたことになる。

大杉栄新潮社からダーウィンの『種の起原』の翻訳を出していて、実は浜松の時代舎で最近その大正十三年版のB6判七五五ページの一冊を入手したばかりなのである。年代からして、これは大杉の死後の刊行だとわかる。そこで『新潮社四十年』の「新潮社刊行図書年表」を確認してみたが、見当らず、その代わりに大正四年に評論集『生の闘争』『社会的個人主義』、五年に生田長江との共訳で、ルソーの『懺悔録』が出されていた。

f:id:OdaMitsuo:20170212114816j:image:h115(『種の起原』)

念のために『新潮社七十年』を見てみると、大正三年に『種の起原』の掲載があり、これが新潮文庫の二冊本として刊行されていたのである。『新潮社四十年』未収録は文庫刊行のゆえだったことになる。それは同年に創刊された第一次新潮文庫、まさに「海外名著の必読に価する者のすべてを、一冊わずか二十銭の廉価本として世に頒たんとしたもので、この叢書こそ、現今書肆の店頭にあふれてゐるこの種の廉価本の嚆矢であつた」のだ。この大正三年から四年にかけて出された「第一次新潮文庫四十冊」は、井狩春男『文庫中毒』ブロンズ新社)などにリストアップされている。

文庫中毒

さてそれらはともかく、先の佐藤の一文に戻らなければならない。佐藤は次のように書いている。

 私は、大正七八年頃から十年にかけて大杉栄氏とよく話をした。氏は可なりひどいどもりだったが、言葉に一種の調子をとりながら、唇辺に落ちつきを見せて話す具合に味があつた。利口な男で、どんなに長くゐても文学の話をするだけで、社会主義に触れようとしなかつた。

 その時分の大杉氏は、内務省から仕事を貰つてゐた。(中略) 

 その仕事は一時杜切れたから、何かやらして呉れといふので、『種の起源(ママ)』の訳をたのんだ。出来たのを見るとなかなか立派な訳である。翻訳については長い間苦しみ抜いて来た私は、いい訳を見ると有難くさへなる。そんなことから、雑誌の原稿も頼んだり、論文集を出したりしたので、自然氏はちよいちよい来るやうになつた。

確かに「ここに種の起原に関する学説発達の略史を述べて置かう。近頃まで大多数の博物学者は斯う信じてゐた。種は不意のもので、且つ各々別々に創造されたものであると。」と始まる大杉訳は、この後もリーダブルにしてリズミカルに続いていき、佐藤がいうように「立派な訳」として受けとめることができる。それが畑違いと見られる新潮社からの出版へと繋がっていったことも納得させられる。ただ佐藤のいう年代は間違いで、大杉の著作や『種の起原』の翻訳からすれば、大正の初めの頃だろう。大逆事件の後でもあり、大杉も出版や翻訳といった仕事の必要性から佐藤へと接近したと思われる。

しかも特筆すべきはこの大杉訳が、明治二十九年の立花銃三郎訳『種源論』に続く二番目のものだったことである。私が入手したのは大正十三年七月発行、同八月六版で、単行本としての復刊後も、よく売れていたことを示していよう。その後の大杉訳の行方を確かめていないけれど、現在では完全版として編まれた、ぱる出版の『大杉栄全集』第九巻に収録されていたことを付記しておこう。

大杉栄全集

ところで佐藤の大杉に関する回想だが、それだけで終わっていない。ある日、郷里の甥が上京し、佐藤の父からの、大杉と絶交するようにとの伝言を携えてきたのである。田舎の有力者から、父は新潮社と大杉の関係のことを尋問され、気を病んでしまったからだ。これは前述した大逆事件絡みの噂が地方にも伝播していたことを告げているのだろう。甥は執拗で、すぐに大杉への絶交状を書くこと、それから大杉の著書を重版しないように、紙型を持って帰ることを要求した。

 いかな専制国でもこんな校閲制度はなからうが、父とは喧嘩も出来ないから、言はれる通りにしたのであつた。

 大杉氏は藪から棒に絶交状を受取つてどんな感じがしたことだらう。そのうち諒解のゆくやうな道もあるだらう、などゝ考へてゐるうちに、あの大震災、そしてあの事件だ。私は、他の人とは別に、ある感じの起るのを禁じ得なかつた。

これは関東大震災時の大杉虐殺をさしていることはいうまでもないだろう。それもあって『種の起原』も復刊されたと考えられるし、その復刊が可能だったのは甥に渡したのが「学術物以外の論文集の紙型」だったからである。これらのエピソードは大杉研究においてもふれられていないと思われるので、ここに取り上げてみた。


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2017-02-19 古本夜話632 新潮社『社会問題講座』、木村毅、大宅壮一

[] 古本夜話632 新潮社『社会問題講座』、木村毅大宅壮一

新潮社は円本の『世界文学全集』に先駆けて、大正十五年に『社会問題講座』全十三巻の刊行を始めている。『新潮社七十年』の中で、「これは予約物としては、円本の現われるまで、最大成功の記録保持者だった」と語られている。つまり大成功を収めたと述べられているのである。

これには前史があり、本連載537538でふれてきたように、関東大震災を契機とする新潮社と高畠素之の関係から、大正十四年に高畠の『社会問題辞典』と訳書『資本論』を出版したことに由来している。佐藤義亮「出版おもひ出話」(『新潮社四十年』所収)によれば、ある朝、「社会問題講座」という「六字」が閃いたことによるとされているが、高畠の『社会問題辞典』のタイトルを抜きにしては成立しなかったであろうし、そのエピソードは高畠との関係にふれた後に語られているからだ。

佐藤はその企画に関して、木村毅に相談する。それを木村の『私の文学回顧録』青蛙房)に見てみる。佐藤の依頼を受け、木村は新居格とともにプランを立て、執筆者を決め、そのリストを作成することになる。それは大正十三年に安部磯雄を会長として設立された日本フェビアン協会の会員を中心とするもので、木村、新居、それに加えて大宅壮一もその一人だった。そうした経緯と事情から大宅が『社会問題講座』の編集に携わるのである。彼の仕事はまず東大新人会、京都学派、大原社会問題研究所のメンバーの参加を乞うことだった。

そして木村は書いている。

f:id:OdaMitsuo:20170219221805j:image:h115

 こうして陣客がそろうたので、いよいよ新聞広告をすると、それこそ全出版界、アッといって腰をぬかした形だった。文芸出版一辺倒だった新潮社が、思いも掛けず、社会問題畑に革靴を踏み入れ、しかも河上をのぞいた全左翼を網羅している。経験のある出版界の老舗でも、いや老舗であればあるほど、どこかと特別の縁があって、これほど全面的に網をうつことは出来ない。

 それは新潮社を建て直したと言われるほどの大成功をおさめた。

大宅壮一も『ジャーナリズム講話』(白揚社、昭和十年、蒼洋社版『大宅壮一全集』第三巻所収)の「序」で、最初にジャーナリズムに首を突っこんだのはこの『社会問題講座』だったと述べ、「今から考えると大学を出るか出ないかの小僧っ子に、編集の全責任を負わせた新潮社も無謀だったが、幸いにして予想外の成績で、当時の予約出版界のレコードを破」ったと記している。

大宅壮一全集

その『社会問題講座』が一冊だけ手元にあり、それは大正十五年九月発行の第七巻で、確かに奥付の「編輯兼発行者」は大宅壮一となっている。菊判並製、四〇〇ページ余に及び、そこには「講座」論文として、大内兵衛の「財政学概論」に始まる十六名、十六本が並び、『社会問題講座』が雑誌形式による一種の講義論だとわかる。高畠の『社会問題辞典』を範として、そこに収録されている大項目を啓蒙的に改めたのが『社会問題講座』だといっていいように思われる。

佐藤が『社会問題講座』を構想したのは時代もあったけれど、新潮社の初期に大日本国民中学校の講義録の編輯、及び大日本文章学会(学院)として『文章講義録』や『近代文学講義録』なども手がけたことが想起されたにちがいない。そしてこの『社会問題講座』の成功に促され、『日本文学講座』『世界文学講座』へと続いていったのであろう。

美作太郎も『戦前戦中を歩む』の中で、大学時代に『社会問題講座』の「熱心な読者」だったと語り、日本評論社に入って編集修業のスタートとなった『社会経済体系』も、その影響を受けていたことに触れている。

f:id:OdaMitsuo:20160911212321j:image:h110

 この『講座』は、まだジャーナリズムの本流に乗り出していなかった大宅壮一が編集にたずさわり、その執筆者の顔触れは、野呂栄太郎、野坂鉄(野坂参三)から高畠素之、赤松克麿までを網羅していて、理論的には一貫しない人選であったが、当時の社会主義潮流をおおまかに結集していた点で、一種の「統一戦線」の観を呈しているような趣きがあり、それなりに啓蒙的役割をも果たしていたように思われる。

そして『社会問題講座』左派的ジャーナリズムとして社会問題や社会運動を中心にしていたことに対し、『社会経済体系』自由主義的編集で、広く社会思想を取りこんだものだったとも述べている。

その一方で、昭和三年から「岩波講座」として本連載624でもふれた『世界思潮』、それに続いて『物理学及び化学』『生物学』なども始まっていく。もちろん『社会問題講座』に先駆ける企画出版は講義録などに類するかたち、もしくはシリーズとして出されていたと思われるが、新潮社『社会問題講座』の成功は、全集類と同様に、予約出版としての「講座物」の刊行を推進させたと考えられる。それはまた全国各地での販売プロパガンダとしての講座会を伴っていたようだし、それも円本と同じ戦略であった。そしてそれは二十世紀のひとつの出版形式であり続けたのである。


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2017-02-16 古本夜話631 勝野金政『赤露脱出記』

[] 古本夜話631 勝野金政『赤露脱出記』

勝野金政の『赤露脱出記』は日本評論社から昭和九年に刊行されているが、美作太郎は治安維持法違反で捕われ、獄中にあったので、『戦前戦中を歩む』の中ではまったくふれられていない。

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勝野は「ソヴエト露国を売るまで」という言葉を添えた「序にかへて」で、「この一篇はソヴエト露国に対する私の訣別であり、又故国日本に於て回生の道を開かうとする私の信条の告白である」と記している。彼は「プロレタリアとしてまた共産主義者として」ソビエトで七年近く生活したけれど、「転向せざるを得なかった」し、「万死を賭して」日本へと帰るしかなかった。そしてここに「ソヴエトの内に於ける一市民の運命」と同様の彼の生活が「写真に取る」ように描かれていく。それもあって、「単なる手記」よりも広範な視点を導入するためか、畑という中央病院の内科部長を主人公とする小説のようなかたちで展開されていくことになる。時代は一九三三年、舞台はフィンランド国境に近いソーロク港である。

この港の大工事のために、ロシア人の他に畑のような日本人、朝鮮人、無数の支那人の学生、商人、労働者たちが動員されていた。その数は一万人に及び、司令部直属の医師の畑も含め、「囚人労働者」であった。第一章の「白海の岸」において、畑が診察したり、接触した多くの人々の「強制労働所」=「ラーゲルの社会組織」での悲惨で飢えに満ちた生活が描かれていく。

それは民族を問わないもので、どのような経緯と事情によりここに追いやられたかも語られている。犯罪やスパイ容疑、理不尽な裁判、暴力と病気と怪我の蔓延、「神もないがパンもない」ソヴエト政権の実態、ありとあらゆる罪悪、「何と云ふ恐ろしい国だ!」との叫びも見られる。それだけでなく、「強制労働囚人」という言葉は「植民」に変えられた。その背景には次のようなソヴエトの状況がある。これは勝野が『赤露脱出記』の中でも、最も訴えたかったことだと思われるので、ここで引いてみる。

 ―革命は犠牲を要する。これは真当である。土地を離れ、家畜を取られ、家を奪はれた中央ロシヤの人民達は零下四十度の北極に於てプロレタリアートとしての生活を修得しなくてはならぬ。十月革命後急角度を取つてプロレタリア独裁のコースへ向つたボリシエビキーは其の政権維持の為に暴力から暴力を押し続けた。そして人民の生活を根柢から転覆して仕舞ふ、これが革命であり、プロレタリア独裁の過程である。革命の犠牲になる国民の生活程哀れなものはない。ソヴエト政経の植民! 彼等は明日から斧と鋸をもつて雪の上に立つ森林労働者となるのである。更生、進化、ソヴエト、ロシヤの標語たる「農業国から工業国へ」と変化する過程はかういふ国民の哀れなる而もいたましい犠牲を要求する。

革命が革命を裏切り、独裁と暴力を生み、強制収容所を出現させてしまうという背理がここに示されていることになる。このようなソ連の状況は一九七〇年代になってソルジェニーツィン『収容所群島』木村浩訳、新潮文庫)によって広く明らかにされたが、勝野の同書の刊行は一九三四年の昭和九年だったわけだから、この出版は勝野にしても日本評論社にしても、決断を要するものだったと推測される。ただ私は『エマ・ゴールドマン自伝』(ぱる出版)の訳者であるので、三一年刊行の同書、及び二三年の『ロシアでの私の幻滅』(未訳)において、世界に先駆け、エマたちがロシア革命の実情を批判していたことを付記しておく。

f:id:OdaMitsuo:20170210143503j:image:h110エマ・ゴールドマン 上 エマ・ゴールドマン 下

それでも畑は「白海の岸」の最期のところで、ラーゲルでの二年を含み、五年の刑期が満了となり、放免されることになる。そして第二章の「放免の旅」はレニングラードからモスクワへの移動、かつてのモスクワの思い出と畑野政治的亡命者としての処遇、第三章の「新しい地帯」では新たな地であるツーラ行と職探し、ラーゲルより悲惨な地方の農民の生活などが描かれ、結局のところ、畑はモスクワに戻り、「日本大使に自首」した。そこで実質的に『赤露脱出記』は終わっている。

この後には付記のようなかたちで、十五ページほどの「モスクワの片山潜」が添えられている。片山に関しては本文でも畑との関係についての言及があったが、これはソヴエトにおけるコミンテルン常任委員としての十一年間の簡略な片山のポートレートとその軌跡、モスクワでの人間関係、彼を訪ねてきた日本人たち、山本懸蔵が語る片山の質朴簡素な日常生活などが述べられている。この「モスクワの片山潜」は勝野による片山のレクイエムといっていいだろう。ただ片山、勝野、山本の関係はそれ以上追及されることなく、閉じられている。

ところが『赤露脱出記』で描かれた畑=勝野の強制労働所送り、その後の山本の粛清は一九九〇年代のソ連崩壊後に公開された秘密文書によって明らかになるのである。それにふれる前に、主として『日本近代文学大事典』などにより、三人のソ連との関係を述べておこう。

近代日本社会運動史人物大事典

片山は国際的な社会主義者として、アメリカにいたが、第三インターナショナル書記局の要請に応じ、一九二一年にモスクワ入りしてコミンテルンの常任委員に選任された。勝野は二四年にパリ大学に入学し、フランス共産党に入党したが、国外追放を受け、二八年にソ連に亡命し、モスクワで片山の私設秘書を務めることになる。山本は労働組合運動指導者として、二二年に日本共産党に入り、二八年には共産党弾圧の検挙を逃れ、ソ連に入国し、そのままプロフインテルン(赤色労働組合インターナショナル)日本代表として、ソ連に在留となった。すなわち二八年には三人がソ連で活動を始めていたのである。

ところが三〇年になって、次のような事態が生じた。これは先の『同事典』の勝野の立項からの抽出による。

 30年10月、ベルリンの国崎定洞の紹介でクートベ(極東勤労者共産主義大学―引用者注)入学を志願してきた根本辰の処遇をめぐって、片山、勝野と山本懸蔵が対立、根本を「日本特高のスパイ」と疑う山本懸蔵は、片山の留守中に根本をソ連秘密警察に密告、根本は国外追放、根本を推薦した勝野も同時に突然逮捕され、「スパイ」として強制収容所に送られた。34年6月に減刑釈放されソ連共産党に再審を求めたが認められず、日本大使館に保護を求め、34年8月に帰国、共産主義運動を離れた。

つまり勝野は山本の密告という真相を知らずして、『赤露脱出記』を書いたことになる。しかしその山本も三七年に、「日本陸軍のスパイ」として逮捕され、三九年に銃殺されていたのである。その真相が明らかにされたのは、それから半世紀以上を経た九三年の小林俊一・加藤昭の『闇の男 野坂参三の百年』文藝春秋、平成五年)の刊行であった。三〇年代のモスクワには彼らの同志として。野坂がいたのである。他ならぬその野坂が勝野を密告した山本、それに先の国崎をも密告し、死に至らしめていた。それはソ連崩壊後に公開された秘密文書によって明らかにされてしまった。ここでもまた、革命家が同じ革命家を裏切るという背理が起きていたことになる。

闇の男 野坂参三の百年

なお国崎のケースに関しては、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、平成六年)で詳しくレポートされている。また勝野については本連載で再びふれることになろう。

モスクワで粛清された日本人


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2017-02-14 古本夜話630 往来社、「映画科学研究叢書」、フリーチェ『芸術社

[] 古本夜話630 往来社、「映画科学研究叢書」、フリーチェ『芸術社会学の諸問題』

前回飯島正の訳書として『ソビエトロシアの映画』を挙げておいてが、これは本連載215でふれた往来社の「映画科学研究叢書」の一冊である。それをリストアップしてみる。第一編から第十二編の刊行となっているけれど、アラビア数字に代える。

1 ヴエ・プドーフキン 佐々木能理男訳『映画監督と映画脚本論』
2 レオン・ムーシナック、飯島正『ソビエトロシアの映画』
3 伊藤大輔脚色、本間七郎、武田忠哉訳『新撰映画脚本集』上巻 (「続大岡政談」「戻らざる幻」「リオ・リタ」所収)
4佐々木能理男、永富映次郎、岡田真吉、石本純吉訳『新撰映画脚本集』下巻 (「作者を探す六人の登場人物」「アンダルジイの犬」「愛国者」所収)
5 山村冷笑、西国男『発音映画入門』
6 鈴木伝明『映画俳優読本』
7 佐々木能理男訳『発声映画監督と脚本論』
8 袋一平『ソヴエート映画の旅』
9 岩崎昶『映画と資本主義』
10 上田進訳『映画監督学とモンタージュ論』
11エリック・エリオット、岸松雄訳『映画技術と映画芸術
12 エイゼンシュテイン、佐々木能理男訳『映画の弁証法』

 7と10 の著者名は示されていない。

 この他にも往来社は松竹映画監督の村田実、牛島虚彦の責任編輯による『映画科学研究』を第十輯まで刊行している。これは「今や映画科学研究の最高権威書」と謳われているけれど、雑誌と見なしていいし、映画にまつわる論考やシナリオの他に、様々な映画技術、音声や現像液や照明道具などのトーキーの出現に関連する論文も掲載され、タイトルからして「映画科学研究叢書」と対になっているとわかる。

これらの版元の往来社は映画書を中心とする出版社だと思われるので、先の9の岩崎昶の自伝と云うべき『映画が若かったとき』平凡社)を読んでみたのだが、『キネマ旬報』のことは書かれているけれど、飯島の『ぼくの明治、大正、昭和』と同様に、往来社やその出版物に関しての言及はなされていない。

映画が若かったとき ぼくの明治、大正、昭和 

実は私もこれらの往来社の映画書を入手しておらず、その出版明細はフリーチエ、黒田辰男訳『芸術社会学の諸問題』の巻末広告によるものである。同書は昭和七年刊行で、発行所の往来社は麹町内幸町の商興ビル内に置かれ、発行者は佐藤丑之助となっている。

フリーチエは黒田の解説の「経歴と事業」にあるように、芸術と文学形態が社会の経済的、階級的形態にいかに照応し、発展していくかを明らかにして、マルクス鵜主義芸術学を体系づけたとされる。「原著序」などによれば、この『芸術社会学の諸問題』はフリーチエの主著『芸術社会学』の追補に当たる論文集のようだ。その中の「工業資本主義様式に於ける形象の性質に関する問題に」はソビエトで出された『ゾラ全集』、及びそこに収録されたゾラの創作ノートに基づくゾラ論である。それは『愛の一ページ』(石井啓子訳、藤原書店)|

『パリの胃袋』(朝比奈弘治訳、同)から始まり、『貴婦人の幸福』、すなわち『ボヌール・デ・ダム百貨店』(伊藤桂子訳、論創社)へと続き、この小説の特色は「商業の領域に於て、資本の集中である。大商店即ち『市場』が小さな商売を圧迫し、押しのけ始める」とし、この社会経済的現象に答えるために、ゾラはこの小説を書いたとされる。

愛の一ページ パリの胃袋 ボヌール・デ・ダム百貨店

だがこれは近代消費社会の象徴たる百貨店の出現によって、大衆が消費の欲望に目覚めていく物語、そのような装置としての百貨店を描いたもので、フリーチエの読解はマルクス主義芸術学の限界を示していよう。その後に彼は鉄道を描いた『獣人』 (寺田光徳訳、藤原書店)を挙げ、これは「商業資本が工業資本に席を譲る高度の資本主義」を描いたもので、「資本主義的―工業的技術的文明の象徴」だとしている。

獣人

もちろんロストウ『経済成長の諸段階』(木村健康他訳、ダイヤモンド社)はまだ出現していないが、第一、二次産業社会から第三次産業社会へと移行していくのが自然史過程であるとするならば、その逆行はありえないのだ。なおこの論文の訳は村田春海によるものである。またロストウに関しては拙稿「河出書房と『現代の経済』」(『古本探究』所収)でふれていることを付記しておく。

経済成長の諸段階 古本探究

ところで訳者の黒田のほうだが、彼は早大露文科を卒業後、プロレタリア科学研究所の芸術学研究会に属し、ソビエト文学の翻訳に専念し、昭和八年にはソビエト大使館に入り、二十年にソビエトが日本に宣戦するまで勤務していたという。プロレタリア科学研究所は昭和四年に秋田雨雀を所長として発足し、九年まで続いていたから、往来社の「映画科学研究叢書」『映画科学研究』の刊行と時期をともにしていたことになる。

といっても往来社は翻訳書として『ベビーゴルフの遊び方』や『新しい泳ぎ方』、島田晋『アソシエーション・フットボール』、日本速記学会編『速記術一週間独習』なども刊行しているので、映画書を刊行する一方で、それなりに間口の広い出版社だったといえるかもしれない。


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