出版・読書メモランダム このページをアンテナに追加 RSSフィード

「出版状況クロニクル109(2017年5月1日〜5月31日)」はこちら

2017-06-27 古本夜話674 加藤咄堂『大死生観』、井冽堂、積文社

[] 古本夜話674 加藤咄堂『大死生観』、井冽堂、積文社

本連載671で、加藤拙堂が要職にあった上宮教会の出版部が井冽堂で、その発行者山中孝之助が丙午出版社の創業メンバーであり、明治四十二年に亡くなったことを既述しておいた。

それならば、井冽堂のほうはどうなったのだろうか。同じく書籍で比較してみる。本連載525の井冽堂の南条文雄『忘備録』は明治四十年刊行だったが、こちらは同四十一年十二月発行の加藤咄堂『大死生観』が菊判上製、索引も合わせれば七〇〇ページに及ぶ大冊である。しかし山中孝之助は翌年に没していることから考えても、発行者を退いていたと推測できる。その代わりに発行者は山中精二となっているが、これは孝之助の近親者で、彼がその役目を代わりに引き受けたことを示している。それによれば、山中の死は四十一年だったようだ。その事情は加藤の序文に当たる「緒言五則」にも、次のように述べられている。

〈郊外〉の誕生と死 (史籍出版版)

 本書稿半ば成りて将に上んとするに当り、山中孝之助氏、俄然病魔の侵す所となつて終に不帰の客となる。著者と山中氏とは単に出版者としての関係にあらずして実に莫逆の友たりしなり。其の訃音に接して哀悼の情切に、著者の意気沮喪して暫く其の稿を絶つに至りしが氏の遺族志を継で之が上梓を企てんとして著者を促して稿を続けしめ、荏苒六閲月、初めて稿を起してより一年有半にして漸く成る。書成つて其の人なく追憶の禁ずべからざるものあり。

山中精二がその「遺族」だったことになる。それだけでなく、発行者はもう一人いて、柳原喜兵衛の名前が併記されている。それに見合うように、発売所も上宮教会出版部山中井冽堂と関西発売所の積文社が並び、後者の住所は柳原と同じ大阪市東区との表記がある。柳原は大阪の大手取次の経営者であることを考えれば、積文社はその子会社の出版社と見なしていい。これらのことはこの『大死生観』』が二社の合版による刊行を伝えている。責任者だった山中孝之助が病で不在になったことと、大冊の刊行ゆえに、出版リスクを分け合う出版形式を採用したと思われる。

しかしあらためて巻末の「井冽堂発売書目」を見ると、咄堂の著書が最も多く、十冊以上に及び、その一冊の『演説文章応用修辞学』宣伝コピーには「文名嘖々江湖に知られた加藤咄堂先生は又我が国屈指の雄弁家なり」との言も見えている。ここにも「雄弁家」がいたのだ。本連載525でも少しばかりふれているが、ここでも『日本近代文学大事典』などを参照し、簡略なプロフイルを提出しておく。

日本近代文学大事典

加藤は明治三年京都府生まれで、英吉利法律学校に入り、大内青巒たちと交わり、仏教学を修めた。民衆強化を念願とし、仏教や修養に関する著述をなすかたわら、全国を遊説した。これが井冽堂の著作につながり、「雄弁家」としての名を高めたのであろう。そして明治三十年代に入り、新仏教運動に参画し、社会組織の改革の必要性を説き、権勢に迎合する仏教伝道を廃せと訴え、著書も発禁となったとされる。その一方で上宮教会長を務め、山中を「莫逆の友」として、井冽堂の出版にも関係するようになったのであろう。しかも主著として、他ならぬ『大死生観』が挙げられているし、また東洋大学教授にも就任している。これもまた新仏教運動と東洋大学のつながりを伝えていよう。

さてここでもう一度井冽堂の『大死生観』の巻末広告十一ページ、七十点ほどの書籍のことに戻るのだが、これらは「井冽堂発売書目」「同発行書目」と謳われているけれど、すべてが井冽堂刊行のものではない。そこには鴻盟社とある七点の他に、明らかに丙午出版社とわかる単行本が見られる。それらは本連載650の杉村広太郎『七花八裂』同515のマックス・ミュラー『宗教学綱要』、ポール・ケーラス、鈴木大拙訳『阿弥陀仏』、黒岩周六『人生問題』などである。また同558の文明堂のものとして。これも杉村訳『改訂増補強肺術』が挙げられる。これらは確認できたものだけなので、実際にはあらに多いと見なせよう。

こうした複数の出版社も含めた井冽堂からの「発売」や「発行」を伴う巻末広告にはどのような販売流通事情が秘められているのだろうか。それを推理してみる。いずれにしても、その理由は奥付にある関西発売所の積文社との提携に要因が求められると考えるしかない。井冽堂は大冊の『大死生観』を新刊発売するに及んで、製作コストと山中孝之助の死の問題に絡み、柳原と合版での出版を選択した。それは製作費の折半ということだけでなく、関西での取次による流通の開拓をも意味していた。

ところが出版点数の問題もあり、同様に仏教書出版をメインとする鴻盟社、丙午出版社、文明堂にも呼びかけ、井冽堂を関西に対する仲間口座窓口とする取次流通ルートを提案した。それに対して、鴻盟社や文明社も小出版社、丙午出版社も創業したばかりであるから、まさに渡りに船という感じで、井冽堂の提案、もしくは柳原の希望に応じたのではないだろうか。そのように考えてみると、『大死生観』における、いわば巻末合同広告の意味が了解できるように思われる。しかしそれが功を奏したとは限らないし、山中孝之助亡き後の井冽堂の行方は確かめられていない。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

2017-06-25 古本夜話673 丙午出版社と木村泰賢『原始仏教思想論』

[] 古本夜話673 丙午出版社と木村泰賢『原始仏教思想論』

ここに丙午出版社の書籍が二冊あるので、それらにもふれておきたい。その二冊は木村泰賢『原始仏教思想論』と新井石禅『修道禅話』である。両方とも裸本だが、いずれも大正時代の出版で、前者は菊判上製の専門書、後者はB6判上製の禅講話書といっていいだろう。

f:id:OdaMitsuo:20170619141123j:image:h120(『修道禅話』、国書刊行会版)

注目すべきは『原始仏教思想論』が大正十一年発行、十五年九版、『修道禅話』は同三年発行、十三年五版とロングセラーになっていることで、それは丙午出版社が大正時代を通じて、新興出版社から仏教書専門の版元として広く認知されたことも示しているし、それが新仏教運動の展開と連動していたことはいうまでもあるまい。

しかしそれでも驚いてしまうのは木村のまさに専門書に他ならない『原始仏教思想論』の五年間で九刷という売れ行きで、しかもそれは五円という高定価なのである。巻末広告には同じく木村の『印度六派哲学』『阿昆達磨論の研究』も掲載され、本連載655で既述しておいたように、『世界聖典外纂』の「印度六派哲学」と「印度の仏教」を担当していたことを想起させる。また同様に「支那の宗教」や「朝鮮の宗教」を書いている常盤大定の『仏典の解説』『釈迦牟尼伝』

、それらに加え、『世界聖典全集』編集、翻訳の中心人物の高楠順次郎『巴利語仏教文学講本』『巴利語仏教文学講本字書』、木村との著書『印度哲学宗教史』なども並んでいる。

これらの事実は丙午出版社の仏教専門書刊行が、やはり同時代に出版されていた『世界聖典全集』と併走していたことを物語るものである。木村の「序」によれば、この「原始仏教思想」は阿含部聖典の思想をさしている。これは原始仏教研究の最重要資料であり、釈尊の説経をまとめた初期仏教聖典のことで、南方仏教圏ではパーリ後で書かれた根本聖典とされ、日本でも明治以降、独自の研究が進められていったという。木村の「専ら原典の巴利及び漢訳阿含、及びその律部のみを材料として立論」との言は、そのような動向に見合っているのだろう。

それとともに「本書は実に龍敦郊外Conlsdon にあつて起稿し、北区Highbury に移り大体を終り、更に、伯林に転じてより、之を訂正して脱稿」とあり、またこの大正十年十月付「序」は「独逸国キールにありて」と記されている。高楠順次郎や南条文雄などに続く近代日本の第二世代の国際的な仏教研究者の台頭を彷彿とさせる。木村は『世界宗教大事典』平凡社)に立項が見出せるので、それを引いておこう。

世界宗教大事典

 きむらたいけん/木村泰賢/

1881−1930(明治14−昭和5)

 インド学・仏教学者。岩手県生れ。東京帝国大学印度哲学科卒業。宇井伯寿とともに高楠順次郎より学を受ける。《印度六派哲学》(1915)で学士院賞受賞。イギリス留学を経て《阿昆達磨論の研究》(1922)では新学位令による同大学最初の文学博士号を取得。1923年から急逝するまで同大学印度哲学科の教授を務める。主著に小乗仏教アビダルマの煩雑な思想を達意な手法で整理・統合した《小乗仏教思想論》(1935)、《印度哲学宗教史》(1914、高楠順次郎と共著)などがあり、仏教学、印度哲学・宗教の分野に優れた業績を残した。

残念ながら『原始仏教思想論』への言及はないけれど、三部作と目される『印度六派哲学』や『阿昆達磨論の研究』は挙げられていることからすれば、木村は丙午出版社と併走していたと見なせるだろう。また丙午出版社も東京帝大印度哲学科とコラボレーションすることによって、仏教書専門出版社としての地位を獲得していったと思われる。

その一方で、丙午出版社は本連載670で既述した明治後期からの禅学の流行にも応じるように、新井石禅の『修道禅話』といった著作も刊行していた。それは奥付にある「禅学文庫」第四編という表示から、これがシリーズ物だったとわかるし、先述のアカデミズム系専門書と異なり、広く読者を想定して企画されたのであろう。著者の新井に関して、そのプロフィルはつかめないが、曹洞宗の寺をあずかる現職の僧だと推測できる。

新井の『修道禅話』は三十章からなる禅講話といっていい。その第一章は「平常心是道」と題され、「夜が明ければ起きる。起きれば洗面する。茶を飲む、飯を喫する、業務に就く、応接を為る、是れが吾人の平常心である」と説き起こされ、ひとつの講話が始まっていく。そのような三十話の集成が、この『修道禅話』ということになり、おそらく実際に新井が寺などで講話したものをまとめたものであろう。

本連載512で、南条文雄などの「通俗仏教講義」シリーズを紹介し、その内容がタイトルと異なり、学術的なものであることを既述しておいた。これらの真宗の講義に対して、曹洞宗の禅話は『正法眼蔵』なども引かれているが、より具体的でポピュラーな講話となっていることがわかる。それが参禅といった具体的な修行へと結びついていくのが、この『修道禅話』というタイトルにこめられているように思える。

なおやはり同時代に、発行者を比企間新造とする禅話叢書刊行会から釈宗活『悟道の妙味』が出されていて、これもやはり老師による禅門法話で、六冊の「禅話叢書」のようだが、詳細はつかめていない。また同じく発行者を今井助松とする日本禅書刊行会からも「仏教講話」シリーズの佐々木珍龍『先づ爾に与へん』が出されている。こちらの版元も定かでないが、大正時代にはこのような「禅話」や「講話」が多く出版されていたにちがいない。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

2017-06-23 古本夜話672 大日本雄弁会『高嶋米峰氏大演説集』

[] 古本夜話672 大日本雄弁会『高嶋米峰氏大演説集』

<前回、高嶋米峰を新仏教運動の中心人物、『新仏教』の編輯者、鶏聲堂と丙午出版社の創業者として紹介しておいたが、それらだけでなく、米峰は演説家としても著名だったようだ。それは本連載669の境野哲も同様だったとされる。その事実を伝えるように、『高嶋米峰氏大演説集』という一冊が編まれ、昭和二年に大日本雄弁会から刊行されている。

その「序に代えて……(雄弁私見)」で、米峰は自らが雄弁家の天性を備えていないことを知っていたので、「演説屋が何だ]という反感を抱いていたと始めている。ところが「同志のものと共に、新仏教徒同志会といふ団体を組織して、新宗教運動を起すこと」になり、雑誌での「筆の伝導」だけでなく、「演壇に立つて、口でから宣伝しなくてはならない」状況に向かい合い、今さらながらに軽蔑していて「演説屋」のことがうらやましくなってきたと告白している。本連載でも近代の社会運動はかならず出版活動を伴って推進されると繰り返し述べてきたが、確かに考えてみれば、それは、「口の伝導」ともいえる「演説屋」=「雄弁家の存在も不可欠であったのだ。

そうして米峰は二十年に及ぶ演説経験を語り、『高嶋米峰氏大演説集』にはその二〇編を収録しているのだが、ここでは「井上円了先生を憶ふ」を取り上げてみたい。米峰はそこで明治維新に伴い、欧米の物質文明とキリスト教の流入により、日本仏教は廃仏毀釈の名において打ちのめされてしまったと述べている。そのような中で、文科大学哲学科の学生だった井上円了は東洋思想と仏教を興隆し、キリスト教に対抗しなければならないと考え、明治二十年に『仏教活動』を刊行し、それは三巻に及び、仏教を哲学として検証し、社会化することを企てた。それは哲学の民衆化をめざすものでもあった。米峰は続けて語る。

 先輩及び同窓の友人を勧誘して、哲学会を起して『哲学雑誌』を発行し、また哲学書院といふを設立して、哲学や宗教に関する新刊書の出版販売をする等、(中略)今日、日本の学界思想界が、かやうに進歩発達するに至つたについては、その先駆者としての、我が井上円了先生が、かやうにその多大な貢献があつた(中略)。

 先生は、又、哲学は独り西洋にあるばかりではない、東京には又東洋の哲学があるといふ見地から、東洋学研究の必要を唱導し、遂にその研究所としての学校の設立を計画せられました。それが(中略)即ち哲学館でありまして、今から四十年前のことであります。これが日本に於て、私立学校で哲学を教授した最初のものです。(中略)

 先生のかうした思想は国粋保存運動ともなつて現はれたのでありまして、三宅雪嶺、杉浦重剛、志賀重昂等の人々と政教社を組織し『日本人』という雑誌を出して、大いに気を吐かれたものでありました。

その一方で、井上は民間の迷信を打破するために妖怪研究にいそしみ、『妖怪学講義』を刊行している。これはそのアンソロジーといえる平野威馬雄編著『井上円了妖怪学講義』(リブロポート、昭和五十八年)からもわかるように、妖怪に関するエンサイクロペディアだといっていい。円了のいう「妖怪」とは「宇宙のいろいろな現象で、普通の道理ではとても解釈がつかないもの」をさし、その一は外界に存する幽霊、狐狸など、その二は内界から生じるもので、他人の媒介を経る巫覡(みこ)、神降(かみおろし)など、及び自分自身に生じる夢、夜行などに大別されている。

井上円了妖怪学講義

本連載651の『新仏教』創刊号の巻末広告に哲学書院の新刊案内が掲載され、そこには井上の『続妖怪百談』が荒木平次郎『日清韓三国千字文』とともに並んでいる。明治時代後期において、拙稿「心霊研究と出版社」(『古本探究3』所収)でふれておいたように、英国の心霊研究協会(SPR)のメンバーたちの著書の翻訳、また本連載247などにも新仏教運動に影響を与えたと思われるスウェーデンボルグや神智学のことを伝えてきた。だがそれらが井上円了と立場を異にするものであっても、その妖怪研究も新仏教運動の近傍に置かれていたし、それは米峰が語っている円了の歩みとも結びついていたといっていいだろう。

『続妖怪百談(復刻) 古本探究3

それとともにあらためて『新仏教』の巻末広告を見ると、『東洋哲学』の第七編第六号の案内があり、そこに『新仏教』編輯員の加藤玄智と田中治六が論説を寄せている。『東洋哲学』は哲学館の機関誌として、井上円了が創刊し、米峰が編集助手を務めていたはずだ。また巻末一ページは「哲学館入館生募集」と、その「仏教普通科講義」の内容案内で占められ、発行所の哲学館の名前が大きく打たれている。

先に新仏教運動は東西本願寺に多くの焦点が当てられているけれども、哲学館=東洋大学と併走していたのではないかと既述しておいたが、それは見逃してはならない事実のように思える。

それに加えて、この『高嶋米峰氏大演説集』の巻末広告を見てみると、永井柳太郎、鶴見祐輔、尾崎行雄、賀川豊彦、濱口雄幸などの『大演説集』の他に、『泰西雄弁集』『青年雄弁集』といった多くの類書が並び、明治から昭和にかけてが、紛れもない「演説」や「雄弁」の時代だったことを教えてくれる。そして講談社が大日本雄弁会を名乗っていたことが時代の表象であったことをあらためて実感する。

しかし九ページの及ぶ偉人伝、立志伝、修養書、漫画や漫文の雑書、時代小説や少年少女小説、傑作小説を見ていると、新仏教運動のかたわらには、このような講談社の出版物もあったことにもなる。例によって講談社も全出版目録が出されていないので、この全貌をつかめないが、リンクしていたのは米峰だけではないようにも思われる。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

2017-06-20 古本夜話671 高嶋米峰と丙午出版社

[] 古本夜話671 高嶋米峰と丙午出版社

仏教運動と出版に言及するのであれば、境野哲や杉村縦横(楚人冠)と同様に、『新仏教』編輯員だった高嶋玉虬=高島米峰にもふれなければならない。それに新仏教運動に寄り添う出版の第一人者として高嶋を挙げることに誰も異存はないと思われるからだ。その意味においても、まずは『出版人物事典』の立項を引くべきであろう。しかもここでは高楠順次郎の次に並んでいて、新仏教運動の出版における二人の重要な人物が揃って顔を見せていることになる。また本連載653ゴルドン夫人『弘法大師と景教』も既述しておいたように、高楠訳により、丙午出版社から刊行されたのである。

出版人物事典

  [高嶋米峰 たかしま・べいほう、号・大円]

一八七五−一九四九(明治八〜昭和二四)丙午出版社創業者。新潟県生れ、哲学館(現・東洋大)卒。新仏教同志会を組織、『新仏教』を出すとともに廃娼運動、禁煙運動に関係、社会主義者にも同情を示した。一九〇一年(明治三四)鶏聲堂を創業、書籍・雑誌を販売、さらに〇六年(明治三九)共同出資で丙午出版社を創業、出版を始める。一一年(明治四四)、友人、堺利彦のすすめで、当時、大逆事件で獄中にあり、死刑執行寸前に脱稿した幸徳秋水『基督抹殺論』を出版、注目された。晩年には、東洋大学学長、日本文学報国会理事長などを務めた。

基督抹殺論

幸いなことに米峰には戦後になってからだが、『高嶋米峰自叙伝』学風書院、昭和二十五年)が出されているので、それをたどって補足してみる。その前にふれておけば、この学風書院は米峰の息子の高嶋雄三郎が設立し、米峰の死の翌年に残された自伝の刊行を見たことになろう。

米峰は大学卒業後、明治三十年に金沢の北国新聞記者を務めていたが、翌年帰京し、前々回ふれた大内青巒の『浄土三部経』の和訳の仕事に携わる。それはやはり弟子の安藤正純が継承し、森江書店から出版に至ったという。これも前々回の境野哲『印度仏教史綱』の巻末広告を確認してみると、それが大内青巒先生演訳、安藤正純和訳『浄土三部作妙典訳解』だとわかる。


それをきっかけにして、米峰は帝国東洋学会の復刻版の梵漢字書編集の仕事に就くことになった。しかもそこは本連載558の文明堂ともつながっていた。

 当時、帝国東洋学会の事務所が文明堂の二階に在つて、僕が毎日通勤して居るという関係と、及び文明堂が開店する当時、桜井義肇君から、二三相談せられた事があつた因縁で今度僕が本屋を開業するといふについては、大に助力をして呉れ、定期刊行物は勿論、その他の書籍も、極めて便利に分けて貰つたし、又当時は、小僧を貸して、用をたさせて呉れたこともあつた(後略)。

これは小石川原町の東洋大学前に鶏聲堂を開業した明治三十四年当時の事情を語っていることになる。『新仏教』創刊は同三十三年であるから、鶏聲堂の開業も新仏教運動と密接につながっていた。それはここに登場する桜井義肇も同様で、彼はこの時期に『中央公論』編集主幹の地位にあったので、鶏聲堂に対しても「大に助力」を与えることができたのであろう。それは定かではないけれど、米峰の記述からすると、これも書店を兼ねていた文明堂の開店も支援していたと推測できる。

そのような経緯と事情もあって、桜井が大谷光端によって『中央公論』を追われ、明治三十七年に『新公論』を創刊するに際し、桜井を支援して米峰たちが編集や執筆が加わったことになろう。そのような系譜を引き継ぎ、明治三十九年米峰は丙午出版社を設立に至る。それは山中孝之助や柘植信秀の協力を得てで、黒岩涙香『人生問題』を処女出版として始まった。これは涙香が『新公論』の執筆者だったことに由来すると思われるし、この最初の一冊が好評だったために、幸先のよいスタートを切ったとされる。

ところで米峰の丙午出版社に寄り添った山中孝之助だが、彼は本連載525で既述しておいたように、南条文雄の「通俗仏教講義」シリーズを刊行していた井冽堂の発行者である。井冽堂は正式名を上宮教会出版部井冽堂とするもので、この教会長の要職にあったのは、やはり新仏教運動に参画していた加藤咄堂で、山中はその上宮教会の情宣月刊誌『聖徳』の編集に関わっていた。実際に加藤は新仏教徒同志会にも入会し、社会主義者たちとの交遊もあったことから、それが『新仏教』の誌面にも反映され、先の立項の秋水の『基督抹殺論』の出版へともリンクしていった。

しかし山中は明治四十二年に亡くなり、丙午出版社は昭和九年まで米峰の個人経営で続けられ、宗教や哲学を中心とする出版によって、とりわけ宗教界に大きな貢献を果たしたとされるが、三百点に及んだというそれらの書籍についてのまとまった目録や研究はまだ出現していないと思われる。ただひとつだけいえるのは、文明堂や井冽堂が初期の新仏教運動に同伴する出版社だったと見なしていいが、丙午出版社はそれらを引き継ぎ、ひとつの宗教出版の範を示すことになったのではないだろうか。

しかし昭和九年に開店時から鶏聲堂を引き受けていた姉の松枝を失い、それを閉じるとともに、丙午出版社も譲渡するに至り、米峰は東洋大学教授に就任した。すでに昭和四年に『新仏教』も廃刊となっていたし、ここに新仏教運動とそれに寄り添った出版も終わりを迎えたことになるのだろう。だがこのように新仏教運動と出版をたどってみると、それらが東洋大学と密接な関係にあったことが浮かび上がってくる。坂口安吾のような存在もまたその系譜に属しているのかもしれない。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

2017-06-19 古本夜話670 今北洪川『禅海一瀾』

[] 古本夜話670 今北洪川『禅海一瀾』

前回は森江書店の、発行者を森江佐七とする麻生区飯倉町の森江本店の境野哲『印度仏教史綱』を取り上げたが、今回は本郷区春木町の森江英二の森江分店の書籍にもふれてみたい。後者が前者の養子で、独立して書店兼出版社を営んでいることも既述したばかりだ。

それはB6判よりも一回り小さい和本仕立ての一冊で、今北洪川禅師著『禅海一瀾』である。奥付には大正七年発行、昭和九年八版と記され、発兌元は本郷春木町の森江書店、発売所は麻生飯倉の森江本店、京都市木屋町の貝葉書店となっている。これは取次ルートの発売を意味し、東京は森江書店、京都は貝葉書店を窓口として、取次から書店へと流通販売されていったと推定できよう。

禅海一瀾 柏樹社版)

そのように流通販売の回路は推定できるけれど、読者のイメージが立ち上がってこない。それはこの『禅海一瀾』が漢文によっているからで、しかもそれなりに版を重ねているということは、昭和に入っても、まだそのような読者が層をなしていた事実を教示していることになる。

著者の今北に関しては、『新撰大人名辞典』に立項があるので、まずそれを紹介してみる。

 イマキタコーゼン 今北洪川(一八一六―一九八二)は徳川末期より明治時代に亙る禅僧。諱は宗温、字は洪川、虚舟と号した。文化十三年摂津西成郡福島村に生る。初め藤澤東畡に儒典を学んだが、十九歳にて出家を志し、相国寺の大拙前史の道誉を聞くや、剃髪求道の至情を抑へ難く、二十五歳の時、父母及び愛妻と別れ大拙の下に刻苦精励し、その指図により諸師に讃辞、また諸寺を董した。四十三歳、吉川侯の聘によりて、周防岩国の水興禅寺に坐し、文久二年四十七歳にして、『禅海一瀾』を撰す。明治維新後次第に宗を負うて起つに至り、明治八年六十歳にして東京十山総黌大教師に任ぜられ、その十一月鎌倉円覚寺を董することになつたが、これより大いに禅風を関東の地に振はしめ、道俗の円覚寺を訪づれ或はその講座に列する者が頗る多くなつた。十三年権大教正となり十五年七山管長の職に就き、道誉をいよいよ謳はれたが、二十五年没、年七十七。著書に『禅海一瀾』の外『広録五巻』(門弟等の輯録)がある。弟子に釈宗演、宮路宗海らがある。

洪川についても、『禅海一瀾』についても、これ以上のことは付け加えることはできないが、洪川と鎌倉円覚寺によって、「大いに禅風を関東の地に振はしめ」るようになったのはわかるような気がする。新仏教運動との関係からすれば、洪川の死後になるけれど、明治二十八年に杉村広太郎(楚人冠)たちが円覚寺の釈宗演のもとで参禅している。また同時期に夏目漱石浜口雄幸も参禅している。小林康達『七花八裂』現代書館)も日清戦争後の時代に、学生や知識人の間にあって禅学流行の兆しがあり、それが新仏教運動とも関係していたと指摘していた。

七花八裂

それらのことを考慮に入れると、『禅海一瀾』のロングセラー化も理解できるし、その巻末に収録された七十点ほどの禅に関連する仏教書のラインナップが了承される。森江本店の森江佐七は大正六年に亡くなっていることからすれば、実質的に森江書店の出版を継承したのは森江英二だといえるだろう。だが新仏教運動に同伴する出版はすでに高嶋米峰の丙午出版社がそのコアを占めていたので、森江本店が明治二十年代末の禅学流行の頃から出版していた関連書をメインとすることによって、昭和円本時代以降をサバイバルしようと試みたのではないだろうか。

そのことをうかがわせているのは『禅海一瀾』や『臨済録』などの「縮刷」という表示である。しかしそうした明治期とほとんど変わらない和本の仏教漢文書や古典の出版は専門家、もしくは高度な教科書にはふさわしくても、一般の読者層を得ることは次第に難しくなったと思われる。それはポピュラーな著者たちの不在となって表われていた。例えば、昭和十四年に春陽堂から「禅の講座」全六巻が刊行されている。これは一冊しか入手していないけれど、井上哲次郎、宇井伯壽、鈴木大拙を監修とするもので、その第一の特色として、「禅の大衆化」が謳われている。四六判箱入、津田青楓による装幀は明らかに円本を踏襲していて、仏教書をめぐる出版も、森江書店の『禅海一瀾』の和本と漢文によるものとまったく異なる時代に入ったことを伝えているようだ。

そういえば、米峰の丙午出版社が譲渡されたのも昭和九年であり、仏教ルネサンスの時代の終わりを告げていたことになろう。新仏教に限らず、何らかのムーブメントが起きれば、そこには必ず出版活動が併走している。それは近代の文化現象に他ならず、本連載でも繰り返し言及してきたが、時代はすでに大東亜戦争下へと向かおうとしていた。昭和十年以後の森江書店の消息はほとんど聞かれていないように思われる。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら