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2017-08-17 古本夜話690 ポール・ケラス、八幡関太郎訳『仏陀の福音』

[] 古本夜話690 ポール・ケラス、八幡関太郎訳『仏陀の福音』

前回のシカゴ万国宗教大会に関連して、もう一編書いてみる。大会の書記官長を務めたのがポール・ケーラスで、それをきっかけにして釈宗演は親交を結ぶようになり、釈は鈴木貞太郎=大拙をケーラスのもとに送ることになったのである。

大拙は明治三十年に渡米し、ケーラスが営むオープン・コート出版社に入り、編集者として働くかたわらで、英語で『大乗仏教概論』を出版した。そして四十二年に帰国したが、その間に本連載669671の森江書店や丙午出版社からケーラスの『仏陀の福音』や『阿弥陀仏』、四三年には有楽社からスエデンボルグの『天界と地獄』を翻訳出版している。ケーラスとオープン・コート出版社、スエデンボルグの関係は本連載247「鈴木大拙訳、スエデンボルグ原著『天界と地獄』」を参照されたい。これらの三冊の翻訳は岩波書店の『鈴木大拙全集』第二十五巻に収録されているので、現在でも容易に読むことができる。

『鈴木大拙全集』第二十五巻

ところがさらに二冊、ポール・ケーラス(ケラス)の『仏陀の福音』があって、一冊は大原嘉吉訳、もう一冊は八幡関太郎訳で、後者は昭和十年に発行者を渡辺龍策とする南光社版を入手している。その「序」は武者小路実篤によるもので、彼『釈迦』を書いた際にはこの本が念頭にあったと記され、またこれが再版であることも伝え、もうひとつの「序」は柳宗悦によって書かれ、こちらは一九一九年、大正八年の初版時のものだとわかる。

釈迦

そして「訳者の序」が続き、ちょうど二十年前に『仏陀の福音』を読み、「初めて東洋の大聖仏陀を知り、仏陀の教理の大要を知つた」と述べている。その感激を具現しようとして翻訳に取りかかり、「四年後の大正八年、とにかく一書に纏め、当時五千の善き読者を得た」。だが機会があれば、誤訳などの訂正本を出したいと考えていたので、ここにようやく再出版となったと記している。ちなみに初版は誠文堂から出され、翌年には使命社版も刊行されているので、南光社版は三回目の出版ということになる。

またさらに「原著者の序」も置かれ、そこには『仏陀の福音』のテーマが提出されている。

 この本は(中略)真の仏教徒が皆共通の基礎としてゐる理想的命題をとつた。かやうにこの仏陀の福音の調和的な組織的な形式の配置は、全体として、この本の独創的な特徴である。(中略)而して編者の狙ひは、新約書の第四福音書の作者がナザレのイエスの生涯の叙述を用ひたことを思ひ、同じ方法で自分の材料を取扱ふことにあつた。編者は彼等の宗教哲学の趣旨に鑑みて、仏陀の一生の既知件を示すことを敢えてした。(後略)

つまり簡略にいってしまえば、ここでケラスは『新約聖書』の「ヨハネ伝」を範とする「仏陀の一生」、即ち『仏陀の福音』を編むと述べているのである。またケラスはキリスト教と仏教が世界の二大宗教で、マックス・ミュラーの仏書の中にキリスト教と同じ趣旨を発見することは喜びであるとの言も引いているし、それは本連載654の藤無染の『二聖の福音』をも想起させる。そして実際に『仏陀の福音』はその誕生から入滅までがたどられていく構成となっている。

この八幡関太郎訳と大拙訳の『仏陀の福音』の相関は定かでないが、武者小路実篤や柳宗悦の「序」からして、明らかに八幡は白樺派の近傍にいたと見なせるので、八幡訳は文学や芸術方面、大拙訳は新仏教運動へと影響を及ぼしていったと考えられる。しかも前者の「当時五千の善き読者」は大拙訳を上回っていたかもしれないし、文学や芸術の領域にあっても、ひとつの水脈となっていったのかもしれない。

しかし八幡に関してもずっと探索していたのだが、そのプロフィルはまったくつかめないままで、長い時間が過ぎたことになる。ところが最近になって、ようやくネット上の「はこだて人物誌」に八幡の立項を見出すことができたのである。詳細はそちらを見てほしいが、とりあえず彼に関するラフスケッチを提出しておく。

八幡は明治二十六年に函館に生まれ、札幌中学卒業後、二十四歳で上京し、『白樺』の同人となる。そのために武者小路実篤と柳が「序」を寄せていたことが了承される。それを確認するつもりで、『日本近代文学大事典』の『白樺』の立項を見てみると、大正の『白樺』中期の同人として倉田百三犬養健尾崎喜八、新城和一、木村荘太、涌島義博たちと並んで、確かに八幡の名前も見える。この時期に志賀は『城の崎にて』を発表し、武者小路は「新しき村」の建設に情熱を燃やし、『幸福者』の連載を始め、小泉鉄が編集の中心になっていたとされる。

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大正七年に八幡は函館から池袋に移した雑誌『太陽の都』を編集し、千家元麿、武者小路、小泉たちが寄稿者となっていた。その一方で、千家、倉田、尾崎などと『白樺』の兄弟雑誌というべき『生命の河』を創刊するが、これは数号で廃刊となり、八幡はさらに『使命』を刊行するに至る。おそらく第二版の使命社とはこの雑誌と関連しているのだろう。その後、中国文学を志し、東洋美術研究家として知られ、名著とされる『支那画人研究』(明治書房)、明末清初の画家の評伝『石涛』などを著し、後者はただ一人の門弟とされる福田恒存の手で出版されたという。また日本最初の金石文字(古代文字)研究の先駆者ともされ、昭和三十年に函館で亡くなっている。

ただ残念なことに、八幡における『仏陀の福音』の翻訳とその再版については語られていない。だが同書に挿絵=口絵写真として「仏陀の像」が収録されていることからすれば、おそらくその翻訳が東洋美術史研究のきっかけになったにちがいないと思われる。


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2017-08-15 古本夜話689 釈宗演、シカゴ万国宗教大会、佐藤哲郎『大アジア思

[] 古本夜話689 釈宗演、シカゴ万国宗教大会、佐藤哲郎『大アジア思想活劇』

本連載670で釈宗演が今北洪川の弟子にして、鎌倉円覚寺で、夏目漱石や杉村楚人冠の参禅に寄り添ったことを既述した。釈については『日本近代文学大事典』に立項が見えるので、まずそれを示す。

 釈 宗演 しゃくそうえん 安政六・一二・一八〜大正八・一一・一(1859〜1919)禅僧、歌人。若狭高浜の生れ。号は洪岳、楞伽窟。幼名は常次郎。明治四年生家一瀬氏と俗縁のあった京都妙心寺の越渓による得度、一一年鎌倉円覚寺の今北洪川に参ずる。一八年慶應義塾に入り、二一年にはセイロンに渡航、厳格な戒律のもとに修業した。二五年洪川没後円覚寺派管長に推され、二六年にはシカゴの万国宗教大会に日本仏教者を代表して参加する。夏目漱石が円覚寺の塔頭帰源院に参禅し、宗演の提撕をうけたのは二七年末から二八年正月にかけてであった。三六年建長寺派の管長も兼ねる。外遊すること数次、禅の挙揚弘布につとめる。寂後一山中与開山の称を円覚寺派から贈られた、短歌もつくっていて、その三周忌には佐佐木信綱によって『楞伽窟歌集』(大一〇・一一 東慶寺)が編まれた。『釈宗演全集』一〇巻(昭和四〜五 平凡社)が刊行されている。

実はすでに十年近く前になるのだが、浜松の時代舎の全集在庫案内で、最後のところに挙げられている『釈宗演全集』を目にした。そこで購入するつもりでいたけれど、倉庫の奥深いところに在庫が置かれているようで、いまだもって入手に至っていない。それゆえに釈についての言及を『全集』を読み終えてからと考えていたが、それを待っていると、いつのことになるかわからないので、ここで書いておくことにする。

釈宗演全集(第9巻)

そうしたこともあり、釈の著書は本連載266の京文社から昭和四年に出された『叩けよ開かれん』しか入手していない。最も取り上げておきたかったのは、立項にも記されている明治二十六年のシカゴの万国宗教会議に関してで、『全集』の代わりに佐藤哲郎の『大アジア思想活劇』サンガ、平成二十年)を読み、そこに「シカゴ万国宗教大会 仏教アメリカ東漸」の章を見出したのである。またその口絵写真にはシカゴ万国宗教大会のものまで収録されていたのだ。

大アジア思想活劇

佐藤は『大アジア思想活劇』の前向上において、京都生まれの講談師野口復堂、本連載652などでふれたアメリカ人神智学者オルコット、スリランカの仏教者にして民族主義者ダルマパーラを召喚し、そのサブタイトルにある「仏教が結んだ、もう一つの近代史」を始めている。それは野口のインド旅行からオルコット来日に至る詳細、ダルマパーラとの出会い、神智学とインドの関係などに関して、知らなかったことの教示に満ちているのだが、ここではシカゴ万国宗教大会のことだけに言及したい。

一八九三(明治二十六)年にコロンブスのアメリカ大陸発見四百年を期し、シカゴでコロンブス記念万国博覧会が開催された。これに合わせて、J・H・バローズを中心とするアメリカの自由神学者、知識人を発起人として、シカゴ万国宗教大会(The World’s Parliament Religions)が企画される。それは会期を九月十一日から二十七日とするもので、世界中の異なる宗教的指導者が一堂に会し、平等の立場で討議を行なうという史上初めてのイベントであった。

ダルマパーラは大菩提会を主宰し、一八九二年にカルカッタでその機関誌『大菩提雑誌』(The Maha Bodhi Journal)を創刊した。これはアジア諸国に散らばる仏教徒のネットワークの確立をめざしたもので、欧米にまで読者は広がっていた。バローズも読者だったことから、セイロン仏教界の代表として、ダルマパーラを招待したのである。彼はロンドン経由でアメリカに向かい、ロンドンでは神智学協会の歓迎を受け、アニー・ベサントたちとともにシカゴに着いた。

日本からは釈宗演(臨済宗)、土宜法龍(真言宗高野山派)、芦津実全(天台宗)、八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の四人が参加した。バローズからは本連載513の島地黙雷や同525の南条文雄も招待されていたが、日本仏教界においてはこのイベントに関する不信感もあり、そのために出席を辞退していた。なお日本のキリスト教会を代表して、小崎弘道、同じく神道からは柴田礼一が出席している。

通訳としては野口復堂、貿易商の野村洋三が彼らとともに渡米し、本連載139でふれた平井金三もまた前年からアメリカで仏教講演活動を続けていたので、シカゴで合流した。また釈宗演の演説草稿を英訳したのは鈴木貞太郎、後の大拙だった。そして大会前に釈はかつてセイロンで相知ったダルマパーラと再会している。なお訳は大会の書記官長を務めたポール・ケーラスとも親交を結び、大拙を彼のもとに送ることにつながり、土宜法龍は閉会後にヨーロッパに渡り、ロンドンで南方熊楠と親しむことになる。

開会当日の九月十一日の大会会場のレークフロント・アートパレスには各国の代表二百数十名、聴衆五千七、八百人であふれるほどだった。言葉が通じないにしても、釈や土宜の講演はその人格力で仏教の玄妙を説き、アメリカ知識人に強い印象を与えたとされるが、とりわけ観衆の人気を博したのは黒髪をたたえ、白いローブをまとったダルマパーラで、それは仏教使節というよりも、イエス・キリストをイメージさせたのである。それはキリスト教の代表たちの誰ひとりとして、そのような印象を与えることはなかったのである。

佐藤はそのダルマパーラの写真を掲載し、現地の新聞記事を引用しているので、それを紹介しておこう。

 黒くカールした(カーリー・ロックス)髪を広い額から後ろへかきあげ、鋭く澄んだ瞳で聴衆をじっと見すえ、長い褐色の指で響きわたる演説を強調する。彼にはまさしく伝導者(プロパガディスト)のおもむきがあった。かかる人物が、すべての仏教徒を結集せしめ、文明化した世界のいたるところに「アジアの光」を広める運動の先頭に立っていることを知って、人々は恐れおののいた。

佐藤はそれが「袈裟をまとって頭を丸めた坊さん」であれば、そのような反響を呼ぶことはなかったであろうと記し、実際に感動して、仏教に帰依したアメリカ人の例を挙げ、ここに「仏教は本当にアメリカに上陸したのである」と述べている。そして同時に「結果としてこの万国宗教大会は植民地支配下で貶められていた東洋の精神文明を、西欧社会に宣揚する一大イベントと化してしまった」ことも。

それは日本にとっても同様であった。佐藤は「シカゴ万国宗教大会 仏教アメリカ東漸」を次のような一文で閉じている。

 明治初頭の廃仏毀釈から立ち直った日本仏教は、このシカゴ万博を契機として、ようやく日本の精神文化の一役を担う存在として「宗教面での国威掲揚」を果たした。それ以上にダルマパーラ、釈宗演、土宜法龍といった個々の仏教者にとって、世紀末シカゴで花咲いた能天気な夢の祭典は、その後の半生の(ママ)方向づける大きなターニングポイントになったのである。

なおこのシカゴ万国宗教大会資料として、The World’s Congress of Religions(Edition Synapse,2005)、研究としてR.H.Seager, The World’s Parliament of Religions : The East/West Encounten, Chicago,1893(Indiana Univ.Pr,2009)などが刊行に至っている。


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2017-08-13 古本夜話688 ウォーレス『馬来諸島』と窪田文雄『南洋の天地』

[] 古本夜話688 ウォーレス『馬来諸島』と窪田文雄『南洋の天地』

前回、『南方年鑑』を取り上げたこともあり、ここで南洋協会に関してもふれておきたい。

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この南洋協会から昭和十七年にA・R・ ウォーレスの『馬来諸島』が刊行されている。彼は『岩波西洋人名辞典』に立項が見出せるので、まずはそれを示す。

『岩波西洋人名辞典

 ウォーレス Wallace Alfred Russed 1823.1.8−1913.11.7

イギリスの博物学者、社会思想家。初め土地測量や建築業に携わっていたが、のち植物学に興味をもち、昆虫学者(H・W・)ベーツと共にアマゾン及びリオ・ネグロ地方に旅行を試み(1848−52)、またマレー半島に赴いて長期滞在し(54−62)、生物生態系および地理学に貢献し、バリ島とロンボク島の間に動物分布上有名な〈ウォーレス線〉を画した。自然淘汰説をたて、論文を(Ch.)ダーウィンに送り、彼の論文と共にリンネ学会で発表された。彼は社会悪の原因が、土地および資本の私有相続制にあるとし、所有の配分、教育普及等について論じている。(R・)オーエンの影響下に土地国有論を主張し、(J・S・)ミルとも交渉をもった。また心霊現象や道徳問題についても論じ、種痘には反対を唱えた。(後略)

(後略)としたのはウォーレス=ウォレスの原文タイトルリストで、『馬来諸島』The Malay archipelago 1969 とある。これは平成時代を迎え、『マレー諸島』として、宮田彬訳、新思索社新妻昭夫訳、ちくま学芸文庫版の刊行を見ているし、また後者の新妻によるA.C.ブラックマンの評伝『ダーウィンに消された男』(羽田節子共訳、朝日新聞社)及びウォーレス論『種の起源をもとめて』(同前)も出版されるに至っている。

宮田彬訳、新思索社(新思索社マレー諸島(ちくま学芸文庫)ダーウィンに消された男 種の起源を求めて

それらに先行する『馬来諸島』は菊判函入、上製七〇〇ページに及び、巻頭に収録された「馬来諸島」地図にはMR.WALLACE’S ROUTES=「ウォレス線」も示されている。しかもその地図に続いて、社団法人南洋協会名での「改訂再版之序」、内田嘉吉による昭和六年八月付の「訳者序」なども置かれ、それらの記述から、『馬来諸島』が昭和六年に柳生南洋記念財団から『南洋』として刊行され、「此度の大東亜戦争勃発に際会し本書の持つ使命によく加重され来つた」ことで、ここに再刊されたとわかる。

内田の「訳者序」などによれば、翻訳事情は以下の通りである。彼は逓信省官管船局長だったが、明治四十三年に佐久間台湾総督の要請に応じ、台湾民政長官として、その開発に従事することになった。後には台湾総督にも就いている。その際に『馬来諸島』を読み、南洋に通じる航路の関門にして気候風土も類似する台湾のことも考え、南洋の事情を知るための必読書だとの認識に至った。そこで大正の初めに総督府勤務の松岡正男に翻訳を委託し、自らはその校閲に従ったが、二十年あまり徒らに筐底に蔵するばかりだった。ところが昭和五年に学友の故柳生一義の遺志により、南方事業の指導開発を目的とする柳生南洋記念財団が設立の運びとなった。柳生は台湾銀行を主宰し、南洋開発を国策上の重要事としていたのである。

内田はその財団に参画し、その記念事業として、ウォーレスの『馬来諸島』の翻訳刊行を提唱したところ、賛同を得て、昭和六年に「本邦に於ける通称」に従い、『南洋』として発刊されたのである。つまり『馬来諸島』はほぼ十三年後に出された『南洋』の改訂新版ということになる。さてこの版元の南方協会だが同じく財団法人ではあるけれど、別の団体で、おそらく南洋庁とは関係の深い、出版も兼ねた研究機関と見なせるだろう。

実は手元に窪田文雄の『南洋の天地』という一冊がある。これはやはり昭和十八年に大日本雄弁会講談社から刊行された「少国民向科学書」の一冊と考えられる。初版は一万部で、多くの写真も配し、「南洋の約三分の二は、日本軍が占領し、日本軍政部が治めてゐるので、内治同様となり」、そのために「南洋とはどんなところかを、よく理解して、南洋のよい指導者」になることをめざし、送り出されている。

f:id:OdaMitsuo:20170813220711j:image:h115(『南洋の天地』)

この窪谷に関しては幸いにして、「著者略歴」が提出されているので、それを引いておこう。

 明治三十二年、長野県に生まる。早稲田大学商学部卒業。南洋の経済及び民族問題について研究、南洋協会に入り、文化工作課長として、もっぱら南方文化工作の仕事に当る。昨年同協会辞任。「南洋の子どもたち」の著書あり。

学術書の『馬来諸島』から「少国民向」の『南洋の天地』に至るまで、大東亜戦争下においては夥しい南洋書が出版されたにちがいない。その一端をこれまた見てきたが、大日本雄弁会講談社にしても、それらの多くを刊行していたはずだが、全出版目録を出していないので、それらの全貌をつかむことができない。

また学術書の分野においても、南洋関連書の名目で刊行されたと思われるし、実際に大東亜戦争下の出版物として上梓されている。それらに関してはまとめてふれることになろう。


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2017-08-10 古本夜話687 東邦社『南方年鑑』

[] 古本夜話687 東邦社『南方年鑑』

戦前の地理学に関連して、三編ほど古今書院にふれてきたが、もう少し南進論絡みを続けてみたい。

大東亜戦争下における南進論を象徴するような一冊がある。それは『南方年鑑』で昭和十八年版として、日本橋区本町の東邦社から刊行されている。年度版だが、この大冊はこれしか出版されていないと思われる。四六倍判、二段組み、一六九四ページ、厚さは十センチに及ぶ大冊であり、編纂名は南方年鑑刊行会、発行者は三ツ木隆治となっている。出版社にしても発行者にしても、ここで初めて目にするもので、双方のプロフィルは定かでない。

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入手した経緯も記しておけば、古書目録に『南方年鑑』の出版社として東邦社ではなく、「東方社」とあったので、『FRONT』を出していた版元だと思い、注文したところ、届いてみてそれが誤植だとわかったのである。ちなみに古書価は四七二五円だった。しかしそれでも、この南進論の集大成ともいうべき『南方年鑑』は見たことも聞いたこともなく、まったく未知の一冊であり、入手できたのは幸いであった。背に貼られた「禁帯出」と数字の入ったラベルからすれば、図書館、もしくは研究所の蔵書だったことは明らかだが、見返しや本表紙にはそれを注意深く隠蔽したというしかない痕跡があり、『南方年鑑』という一冊の由来と存在を暗示させているようにも思える。

その十八年九月付の「序文」は次のように書き出されている。

 大東亜戦争の輝かしい戦果は、大東亜に於ける、否世界に於ける吾国の地位を、今や確固不抜のものたらしめた。日満支を中核とし、之に南方を加へた大東亜共栄圏の確立は、吾国に課せられた重大な使命であると共に、それは吾国の将来を決定する重要なカギとなつた。大東亜共栄圏の中核が日満支たる事は今更云ふまでもないが、南方はその政治的・経済的・文化的の凡ゆる観点から云って、共栄圏確立の為に不可欠の条件である。蓋し、南方の護りを固くする事は共栄圏の政治的独立性を維持する為の必要な要件であり、南方圏の経済的価値、特にその資源的価値は、大東亜の自給経済圏を形成する為の必須の前提であり、南方諸民族の文化の本質を把握する事は、大東亜の民族共栄の基礎をなすものである。

しかし「大東亜戦争勃発の前後から、南方関係の調査・研究・紀行・随筆等が、文字通り市場に氾濫した」こともあり、その正当な理解の一冊として、この「『南方年鑑』を世に贈る」とも明記されている。

この序文は編集委員の板垣興一、岡田宗司、浜田恒一、山田文雄、雪竹栄の五人の名前で示され、次ページには南方関係研究者六十五人の執筆者名が掲載されている。これらの全員の執筆分担を挙げることはできないけれど、その「上篇」に当たる「南方共栄圏」、及びその概観の地域別詳細の主たる担当者を挙げてみる。それらは一貫して「大東亜建設の理念」に基づくものとされる。

 1 南方圏地政学/江澤譲爾
 2 南方圏の自然環境/武見芳二
 3 南方圏の民族/清野謙次
 4 南方圏の宗教/古野清人
 5 南方圏の文化/三吉朋十
 6 南方圏の社会/馬淵東一
 7 南方圏の経済/浜田恒一、岡田宗司
 8 南方華僑の現勢/田村壽
 9 南方植民政策論/浜田恒一
 10 邦人南方発展史/奥田博夫、川本邦雄
 11 大東亜共栄圏の建設/山田文雄
 12 仏領印度支那/逸見重雄
 13 タイ/宮原義登
 14 ビルマ/蒲池清
 15 マライ/浜田恒一
 16 東印度/山田文雄、板垣興一
 17 フィリッピン/三宅晴輝
 18 太平洋諸島/岡田宗司
 19 濠州連邦片山龍二
 20 ニュージーランド/長谷川了
 21 印度伊藤敬
 22 印度洋諸島/岡田宗司

これらのメンバーの中で、それなりのプロフィルがつかめる人物は少ない。編集委員である板垣は東京商科大出身で、この当時はアジア経済などの研究者、戦後には一橋大学教授を務めている。同じく岡田は東大新人会に属し、労働調査研究所や無産大衆党を経て、人民戦線事件で逮捕されているが、戦後は日本社会党結成に参加し、国会議員にも当選している。この二人は『現代日本朝日人物事典』に立項が見えるけれど、昭和十年代後半のポジションが定かでない。

[現代日本]朝日人物事典

それでもこの二人が『南方年鑑』の編纂委員に名を連ねていることからすれば、アジア経済を専門とする板垣、左翼から南進論へと傾斜していったと見られる岡田が中心となり、アジア人類学や民族学の清野謙次、馬淵東一、古野清人、南方圏各国の研究者たちがそれこそ動員され、大冊の『南方年鑑』が送り出されたことになる。

それからこれは詳細をつかんでいないが、「序文」にあるように、台湾総統府がやはり年度版の『南方年鑑』を刊行していた。これは昭和十六年に南洋群島協会から出された『南方年鑑』で、東邦社版はそれを範とし、また執筆者たちも多くが引きつがれたと考えてもいいかもしれない。

なお国会図書館を確認してみると、東方社版とある一冊も見出された。これは単なる間違いなのであろうか。


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2017-08-08 古本夜話686 北原白秋『橡』、「多磨叢書」、靖文社

[] 古本夜話686 北原白秋『橡』、「多磨叢書」、靖文社

前回の「アララギ叢書」と併走するようにして、同じく歌集を中心とし、出版社も重なる「多磨叢書」が刊行されていた。古今書院と「アララギ叢書」にふれる機会を得たこともあり、これも続けて取り上げておきたい。

この叢書を知ったのは、昭和十八年に靖文社から出された『橡(つるばみ)』を入手したことによっている。ただかなり疲れた裸本ゆえに、箱や装丁は不明というしかない。白秋は十六年に鬼籍に入っているので、没後の刊行の歌集であり、「後記」を寄せている木水彌三郎によれば、「本来は短歌五百三十一首及び長歌八首計五百三十九首」を含む第十歌集で、近刊の『渓流唱』と合わせ、「乾坤二部」をなすという。

私はかつて「阿蘭陀書房と『異端者の悲み』」(『古本探究』所収)を書いた際に、白秋の全集や評伝などにも目を通していたのだが、彼が歌人でもあったことはすっかり失念していた。『橡』には収録されていないけれど、木水が引いている晩年の一首に次のものがある。

古本探究

我敢て道に云はずも読み読みて 盲ひしふたつの眼(まなこ)かくあり

これは白秋が糖尿病と.腎臓病による眼底出血のために視力を失い、薄明の中で詠んだ歌だとわかる。やはり「読み読みて」失明したバベルの図書館長ともいえるボルヘスに捧げたくなる、白秋の一首である。

この『橡』の巻末に「多磨叢書」の目録が掲載されているので、それを示す。

1 北原白秋短歌の書』(河出書房)
2 乾北原白秋『渓流唱』(靖文社)
2 坤北原白秋『橡』(靖文社)
3 北原白秋『鑕(かなしき)』(靖文社)
4 北原白秋『多磨第一歌集』(アルス)
5 穂積忠『雪祭』(八雲書林)
6 北原白秋編『多磨第二歌集』(アルス)
7 北原白秋『黒檜』(八雲書林)
8 木俣治『高志』(墨水書房)
9 北原白秋編『多磨第三歌集』(多磨短歌会)
10 北原白秋牡丹の木』(河出書房)
11 北原白秋編『多磨第四歌集』(墨水書房)
12 木俣修『白秋研究』(八雲書林)
13 鐸木孝『氷炎』(墨水書房)
14 多磨短歌会編『多磨第五歌集』(墨水書房)
15 北原白秋『真名井』(靖文社)
16 北原白秋『日本古武道』(靖文社)
17 北原白秋『薄明消息』(アルス)
18 木俣修『白秋襍志』(白秋襍志社)
19 北原白秋『父母頌』(アルス)
20 北原白秋短歌私史』(河出書房)

これに補足しておけば、14以後は近刊となっている。『橡』の刊行が昭和十八年十二月であることからすれば、20まで順調に出版されたとは考えられないので、未刊のままで終わったものもあるだろう。幸いなことに『日本近代文学大事典』に「多磨叢書」が立項され、12までがリストアップされている。その解題には「多磨叢書」が戦後も刊行され、15や18もその中に含まれているとの記述が見える。

あらためて白秋の生涯をたどってみると、彼は昭和十年に多磨短歌会を興し、その機関雑誌として『多磨』を創刊している。それは浪漫精神の復興、日本における第四期の象徴詩運動、近代の幽玄の樹立を主張し、現実主義に則っていた当時の歌壇に大きな反響をもたらしたとされる。そこから生まれた歌集が『白南風』(アルス)や『夢殿』(八雲書林)で、その文学運動の成果として「多磨叢書」が企画され、白秋の死後も刊行され続けたことになろう。

夢殿

先にリストアップしておいたように、「多磨叢書」の多くは白秋自身の歌集であるが、昭和十三年刊行の3『鑕』から始まり、それに4『多磨第一歌集』が続いている。『鑕』は「添削実例」とあるように、白秋が多磨短歌会と『多磨』を通じて実際に行なった添削の記録集で、多摩短歌会において、バイブル扱いされていた。そのようなプロセスを経て、『多磨第一歌集』が編まれ、『同第四歌集』まで続刊されていったのである。 

白秋にしても、『橡』は昭和十年から十二年、7『黒檜』は十二年から十五年にかけての短歌長歌を収録し、前者は象徴詩風の一究極、後者は薄明の中での幽玄的悟道に達したとされる。また1『短歌の書』はこれらの晩年の短歌制作の歌論であり、そうした意味においても、「多磨叢書」は白秋の晩年に寄り添うと同時に、その弟子たちによる野辺送りの叢書でもあったことになろう。ここでも『橡』から一首引いておこう。

   ほのあかく花はけむりし夜の合歓 風そよぐなり現(うつ)し実(み)の莢(さや)

この『橡』の版元である靖文社は大阪市天王寺区を住所とし、発行者を南方靖一郎としているが、脇坂要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』に掲載された昭和十一年時の大阪出版組合会員名の中には見当たらない。木水が「発行書肆なる小弟南方」と呼んでいることからすれば、南方は木水の弟であると同時に、おそらく多磨短歌会の大阪在住者だったのではないだろうか。その関係から靖文社は在阪の会員の歌集刊行のために設立された出版社とも考えられる。それゆえに大阪出版組合には加盟していなかったとも推測されるのである。


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