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2017-06-23 古本夜話672 大日本雄弁会『高嶋米峰氏大演説集』

[] 古本夜話672 大日本雄弁会『高嶋米峰氏大演説集』

<前回、高嶋米峰を新仏教運動の中心人物、『新仏教』の編輯者、鶏聲堂と丙午出版社の創業者として紹介しておいたが、それらだけでなく、米峰は演説家としても著名だったようだ。それは本連載669の境野哲も同様だったとされる。その事実を伝えるように、『高嶋米峰氏大演説集』という一冊が編まれ、昭和二年に大日本雄弁会から刊行されている。

その「序に代えて……(雄弁私見)」で、米峰は自らが雄弁家の天性を備えていないことを知っていたので、「演説屋が何だ]という反感を抱いていたと始めている。ところが「同志のものと共に、新仏教徒同志会といふ団体を組織して、新宗教運動を起すこと」になり、雑誌での「筆の伝導」だけでなく、「演壇に立つて、口でから宣伝しなくてはならない」状況に向かい合い、今さらながらに軽蔑していて「演説屋」のことがうらやましくなってきたと告白している。本連載でも近代の社会運動はかならず出版活動を伴って推進されると繰り返し述べてきたが、確かに考えてみれば、それは、「口の伝導」ともいえる「演説屋」=「雄弁家の存在も不可欠であったのだ。

そうして米峰は二十年に及ぶ演説経験を語り、『高嶋米峰氏大演説集』にはその二〇編を収録しているのだが、ここでは「井上円了先生を憶ふ」を取り上げてみたい。米峰はそこで明治維新に伴い、欧米の物質文明とキリスト教の流入により、日本仏教は廃仏毀釈の名において打ちのめされてしまったと述べている。そのような中で、文科大学哲学科の学生だった井上円了は東洋思想と仏教を興隆し、キリスト教に対抗しなければならないと考え、明治二十年に『仏教活動』を刊行し、それは三巻に及び、仏教を哲学として検証し、社会化することを企てた。それは哲学の民衆化をめざすものでもあった。米峰は続けて語る。

 先輩及び同窓の友人を勧誘して、哲学会を起して『哲学雑誌』を発行し、また哲学書院といふを設立して、哲学や宗教に関する新刊書の出版販売をする等、(中略)今日、日本の学界思想界が、かやうに進歩発達するに至つたについては、その先駆者としての、我が井上円了先生が、かやうにその多大な貢献があつた(中略)。

 先生は、又、哲学は独り西洋にあるばかりではない、東京には又東洋の哲学があるといふ見地から、東洋学研究の必要を唱導し、遂にその研究所としての学校の設立を計画せられました。それが(中略)即ち哲学館でありまして、今から四十年前のことであります。これが日本に於て、私立学校で哲学を教授した最初のものです。(中略)

 先生のかうした思想は国粋保存運動ともなつて現はれたのでありまして、三宅雪嶺、杉浦重剛、志賀重昂等の人々と政教社を組織し『日本人』という雑誌を出して、大いに気を吐かれたものでありました。

その一方で、井上は民間の迷信を打破するために妖怪研究にいそしみ、『妖怪学講義』を刊行している。これはそのアンソロジーといえる平野威馬雄編著『井上円了妖怪学講義』(リブロポート、昭和五十八年)からもわかるように、妖怪に関するエンサイクロペディアだといっていい。円了のいう「妖怪」とは「宇宙のいろいろな現象で、普通の道理ではとても解釈がつかないもの」をさし、その一は外界に存する幽霊、狐狸など、その二は内界から生じるもので、他人の媒介を経る巫覡(みこ)、神降(かみおろし)など、及び自分自身に生じる夢、夜行などに大別されている。

井上円了妖怪学講義

本連載651の『新仏教』創刊号の巻末広告に哲学書院の新刊案内が掲載され、そこには井上の『続妖怪百談』が荒木平次郎『日清韓三国千字文』とともに並んでいる。明治時代後期において、拙稿「心霊研究と出版社」(『古本探究3』所収)でふれておいたように、英国の心霊研究協会(SPR)のメンバーたちの著書の翻訳、また本連載247などにも新仏教運動に影響を与えたと思われるスウェーデンボルグや神智学のことを伝えてきた。だがそれらが井上円了と立場を異にするものであっても、その妖怪研究も新仏教運動の近傍に置かれていたし、それは米峰が語っている円了の歩みとも結びついていたといっていいだろう。

『続妖怪百談(復刻) 古本探究3

それとともにあらためて『新仏教』の巻末広告を見ると、『東洋哲学』の第七編第六号の案内があり、そこに『新仏教』編輯員の加藤玄智と田中治六が論説を寄せている。『東洋哲学』は哲学館の機関誌として、井上円了が創刊し、米峰が編集助手を務めていたはずだ。また巻末一ページは「哲学館入館生募集」と、その「仏教普通科講義」の内容案内で占められ、発行所の哲学館の名前が大きく打たれている。

先に新仏教運動は東西本願寺に多くの焦点が当てられているけれども、哲学館=東洋大学と併走していたのではないかと既述しておいたが、それは見逃してはならない事実のように思える。

それに加えて、この『高嶋米峰氏大演説集』の巻末広告を見てみると、永井柳太郎、鶴見祐輔、尾崎行雄、賀川豊彦、濱口雄幸などの『大演説集』の他に、『泰西雄弁集』『青年雄弁集』といった多くの類書が並び、明治から昭和にかけてが、紛れもない「演説」や「雄弁」の時代だったことを教えてくれる。そして講談社が大日本雄弁会を名乗っていたことが時代の表象であったことをあらためて実感する。

しかし九ページの及ぶ偉人伝、立志伝、修養書、漫画や漫文の雑書、時代小説や少年少女小説、傑作小説を見ていると、新仏教運動のかたわらには、このような講談社の出版物もあったことにもなる。例によって講談社も全出版目録が出されていないので、この全貌をつかめないが、リンクしていたのは米峰だけではないようにも思われる。


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2017-06-20 古本夜話671 高嶋米峰と丙午出版社

[] 古本夜話671 高嶋米峰と丙午出版社

仏教運動と出版に言及するのであれば、境野哲や杉村縦横(楚人冠)と同様に、『新仏教』編輯員だった高嶋玉虬=高島米峰にもふれなければならない。それに新仏教運動に寄り添う出版の第一人者として高嶋を挙げることに誰も異存はないと思われるからだ。その意味においても、まずは『出版人物事典』の立項を引くべきであろう。しかもここでは高楠順次郎の次に並んでいて、新仏教運動の出版における二人の重要な人物が揃って顔を見せていることになる。また本連載653ゴルドン夫人『弘法大師と景教』も既述しておいたように、高楠訳により、丙午出版社から刊行されたのである。

出版人物事典

  [高嶋米峰 たかしま・べいほう、号・大円]

一八七五−一九四九(明治八〜昭和二四)丙午出版社創業者。新潟県生れ、哲学館(現・東洋大)卒。新仏教同志会を組織、『新仏教』を出すとともに廃娼運動、禁煙運動に関係、社会主義者にも同情を示した。一九〇一年(明治三四)鶏聲堂を創業、書籍・雑誌を販売、さらに〇六年(明治三九)共同出資で丙午出版社を創業、出版を始める。一一年(明治四四)、友人、堺利彦のすすめで、当時、大逆事件で獄中にあり、死刑執行寸前に脱稿した幸徳秋水『基督抹殺論』を出版、注目された。晩年には、東洋大学学長、日本文学報国会理事長などを務めた。

基督抹殺論

幸いなことに米峰には戦後になってからだが、『高嶋米峰自叙伝』学風書院、昭和二十五年)が出されているので、それをたどって補足してみる。その前にふれておけば、この学風書院は米峰の息子の高嶋雄三郎が設立し、米峰の死の翌年に残された自伝の刊行を見たことになろう。

米峰は大学卒業後、明治三十年に金沢の北国新聞記者を務めていたが、翌年帰京し、前々回ふれた大内青巒の『浄土三部経』の和訳の仕事に携わる。それはやはり弟子の安藤正純が継承し、森江書店から出版に至ったという。これも前々回の境野哲『印度仏教史綱』の巻末広告を確認してみると、それが大内青巒先生演訳、安藤正純和訳『浄土三部作妙典訳解』だとわかる。


それをきっかけにして、米峰は帝国東洋学会の復刻版の梵漢字書編集の仕事に就くことになった。しかもそこは本連載558の文明堂ともつながっていた。

 当時、帝国東洋学会の事務所が文明堂の二階に在つて、僕が毎日通勤して居るという関係と、及び文明堂が開店する当時、桜井義肇君から、二三相談せられた事があつた因縁で今度僕が本屋を開業するといふについては、大に助力をして呉れ、定期刊行物は勿論、その他の書籍も、極めて便利に分けて貰つたし、又当時は、小僧を貸して、用をたさせて呉れたこともあつた(後略)。

これは小石川原町の東洋大学前に鶏聲堂を開業した明治三十四年当時の事情を語っていることになる。『新仏教』創刊は同三十三年であるから、鶏聲堂の開業も新仏教運動と密接につながっていた。それはここに登場する桜井義肇も同様で、彼はこの時期に『中央公論』編集主幹の地位にあったので、鶏聲堂に対しても「大に助力」を与えることができたのであろう。それは定かではないけれど、米峰の記述からすると、これも書店を兼ねていた文明堂の開店も支援していたと推測できる。

そのような経緯と事情もあって、桜井が大谷光端によって『中央公論』を追われ、明治三十七年に『新公論』を創刊するに際し、桜井を支援して米峰たちが編集や執筆が加わったことになろう。そのような系譜を引き継ぎ、明治三十九年米峰は丙午出版社を設立に至る。それは山中孝之助や柘植信秀の協力を得てで、黒岩涙香『人生問題』を処女出版として始まった。これは涙香が『新公論』の執筆者だったことに由来すると思われるし、この最初の一冊が好評だったために、幸先のよいスタートを切ったとされる。

ところで米峰の丙午出版社に寄り添った山中孝之助だが、彼は本連載525で既述しておいたように、南条文雄の「通俗仏教講義」シリーズを刊行していた井冽堂の発行者である。井冽堂は正式名を上宮教会出版部井冽堂とするもので、この教会長の要職にあったのは、やはり新仏教運動に参画していた加藤咄堂で、山中はその上宮教会の情宣月刊誌『聖徳』の編集に関わっていた。実際に加藤は新仏教徒同志会にも入会し、社会主義者たちとの交遊もあったことから、それが『新仏教』の誌面にも反映され、先の立項の秋水の『基督抹殺論』の出版へともリンクしていった。

しかし山中は明治四十二年に亡くなり、丙午出版社は昭和九年まで米峰の個人経営で続けられ、宗教や哲学を中心とする出版によって、とりわけ宗教界に大きな貢献を果たしたとされるが、三百点に及んだというそれらの書籍についてのまとまった目録や研究はまだ出現していないと思われる。ただひとつだけいえるのは、文明堂や井冽堂が初期の新仏教運動に同伴する出版社だったと見なしていいが、丙午出版社はそれらを引き継ぎ、ひとつの宗教出版の範を示すことになったのではないだろうか。

しかし昭和九年に開店時から鶏聲堂を引き受けていた姉の松枝を失い、それを閉じるとともに、丙午出版社も譲渡するに至り、米峰は東洋大学教授に就任した。すでに昭和四年に『新仏教』も廃刊となっていたし、ここに新仏教運動とそれに寄り添った出版も終わりを迎えたことになるのだろう。だがこのように新仏教運動と出版をたどってみると、それらが東洋大学と密接な関係にあったことが浮かび上がってくる。坂口安吾のような存在もまたその系譜に属しているのかもしれない。


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2017-06-19 古本夜話670 今北洪川『禅海一瀾』

[] 古本夜話670 今北洪川『禅海一瀾』

前回は森江書店の、発行者を森江佐七とする麻生区飯倉町の森江本店の境野哲『印度仏教史綱』を取り上げたが、今回は本郷区春木町の森江英二の森江分店の書籍にもふれてみたい。後者が前者の養子で、独立して書店兼出版社を営んでいることも既述したばかりだ。

それはB6判よりも一回り小さい和本仕立ての一冊で、今北洪川禅師著『禅海一瀾』である。奥付には大正七年発行、昭和九年八版と記され、発兌元は本郷春木町の森江書店、発売所は麻生飯倉の森江本店、京都市木屋町の貝葉書店となっている。これは取次ルートの発売を意味し、東京は森江書店、京都は貝葉書店を窓口として、取次から書店へと流通販売されていったと推定できよう。

禅海一瀾 柏樹社版)

そのように流通販売の回路は推定できるけれど、読者のイメージが立ち上がってこない。それはこの『禅海一瀾』が漢文によっているからで、しかもそれなりに版を重ねているということは、昭和に入っても、まだそのような読者が層をなしていた事実を教示していることになる。

著者の今北に関しては、『新撰大人名辞典』に立項があるので、まずそれを紹介してみる。

 イマキタコーゼン 今北洪川(一八一六―一九八二)は徳川末期より明治時代に亙る禅僧。諱は宗温、字は洪川、虚舟と号した。文化十三年摂津西成郡福島村に生る。初め藤澤東畡に儒典を学んだが、十九歳にて出家を志し、相国寺の大拙前史の道誉を聞くや、剃髪求道の至情を抑へ難く、二十五歳の時、父母及び愛妻と別れ大拙の下に刻苦精励し、その指図により諸師に讃辞、また諸寺を董した。四十三歳、吉川侯の聘によりて、周防岩国の水興禅寺に坐し、文久二年四十七歳にして、『禅海一瀾』を撰す。明治維新後次第に宗を負うて起つに至り、明治八年六十歳にして東京十山総黌大教師に任ぜられ、その十一月鎌倉円覚寺を董することになつたが、これより大いに禅風を関東の地に振はしめ、道俗の円覚寺を訪づれ或はその講座に列する者が頗る多くなつた。十三年権大教正となり十五年七山管長の職に就き、道誉をいよいよ謳はれたが、二十五年没、年七十七。著書に『禅海一瀾』の外『広録五巻』(門弟等の輯録)がある。弟子に釈宗演、宮路宗海らがある。

洪川についても、『禅海一瀾』についても、これ以上のことは付け加えることはできないが、洪川と鎌倉円覚寺によって、「大いに禅風を関東の地に振はしめ」るようになったのはわかるような気がする。新仏教運動との関係からすれば、洪川の死後になるけれど、明治二十八年に杉村広太郎(楚人冠)たちが円覚寺の釈宗演のもとで参禅している。また同時期に夏目漱石浜口雄幸も参禅している。小林康達『七花八裂』現代書館)も日清戦争後の時代に、学生や知識人の間にあって禅学流行の兆しがあり、それが新仏教運動とも関係していたと指摘していた。

七花八裂

それらのことを考慮に入れると、『禅海一瀾』のロングセラー化も理解できるし、その巻末に収録された七十点ほどの禅に関連する仏教書のラインナップが了承される。森江本店の森江佐七は大正六年に亡くなっていることからすれば、実質的に森江書店の出版を継承したのは森江英二だといえるだろう。だが新仏教運動に同伴する出版はすでに高嶋米峰の丙午出版社がそのコアを占めていたので、森江本店が明治二十年代末の禅学流行の頃から出版していた関連書をメインとすることによって、昭和円本時代以降をサバイバルしようと試みたのではないだろうか。

そのことをうかがわせているのは『禅海一瀾』や『臨済録』などの「縮刷」という表示である。しかしそうした明治期とほとんど変わらない和本の仏教漢文書や古典の出版は専門家、もしくは高度な教科書にはふさわしくても、一般の読者層を得ることは次第に難しくなったと思われる。それはポピュラーな著者たちの不在となって表われていた。例えば、昭和十四年に春陽堂から「禅の講座」全六巻が刊行されている。これは一冊しか入手していないけれど、井上哲次郎、宇井伯壽、鈴木大拙を監修とするもので、その第一の特色として、「禅の大衆化」が謳われている。四六判箱入、津田青楓による装幀は明らかに円本を踏襲していて、仏教書をめぐる出版も、森江書店の『禅海一瀾』の和本と漢文によるものとまったく異なる時代に入ったことを伝えているようだ。

そういえば、米峰の丙午出版社が譲渡されたのも昭和九年であり、仏教ルネサンスの時代の終わりを告げていたことになろう。新仏教に限らず、何らかのムーブメントが起きれば、そこには必ず出版活動が併走している。それは近代の文化現象に他ならず、本連載でも繰り返し言及してきたが、時代はすでに大東亜戦争下へと向かおうとしていた。昭和十年以後の森江書店の消息はほとんど聞かれていないように思われる。


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2017-06-15 古本夜話669 境野哲『印度仏教史綱』と森江書店

[] 古本夜話669 境野哲『印度仏教史綱』と森江書店

仏教運動にはずっとふれてきた世界文庫刊行会だけでなく、多くの出版社が併走していたので、それらもトレースしてみる。

『新仏教』の発行者兼編輯者が堺野哲であることは本連載651で既述したが、彼は『日本近代文学大事典』に境野黄洋として立項されている。

日本近代文学大事典

 境野黄洋 さかいのこうよう 明治四・八・一二〜昭和八・一一・一一(1871〜1933)仏教学者。宮城県名取郡秋保村(現・仙台市)生れ。本名哲(さとる)。東京哲学館(現・東洋大学)卒。「仏教書林」の編集、「仏教」の主筆として活躍。仏教清徒同志会(明三三)に参画し、「新仏教」の編集にあたり、新仏教運動の推進者の一人。この間『日本仏教史要』(明治三四・八 鴻盟社)『支那仏教史綱』(明治四〇・四 森江書店)を著し仏教史の基礎を固めた。東洋大学教授、学長、駒沢大学教授を歴任。東京朝日新聞記者も兼ねる。

ここに挙げられているニ書は未見だが、『印度仏教史綱』は入手している。奥付には明治三十五年発行、大正五年九月第五版とあるが、なぜか井上哲次郎の「序」も境野の「序言」にしても、明治三十八年五月二十日付で記されている。それに関連するのか、奥付の「不許複製/著作権所有」のところには著作権が著者ではなく、版元にあることを伝える森江本店の印が押されている。中扉には森江書店と記載されているけれど、奥付表記は森江本店、森江分店もあるとわかる。

考えられることは明治三十五年に私家版が出され、これがあらためて森江本店から刊行されるに至って、井上と境野が「序」や「序言」を寄せた。だが原稿は買い取るかたちをとったので、著作権は版元に属することになった。おそらく明治後期時代の仏教書の単行本出版とは、このような印税が発生しないシステムに則っていたのではないだろうか。

ただそうはいっても手元にある『印度仏教史綱』は裸本で、二一八ページの薄い一冊だが、菊判の堅牢な上製本に仕上がっていたはずだ。そうした仏教書ならではの造本を考えれば、製作コストが高かったことを意味しているし、印税はないけれど、出版リスクも念頭に置かれた企画だったのであろう。この『印度仏教史綱』はやはり森江書店の対となる『支那仏教史綱』に先行する海外の仏教に関する出版であったからだと思われる。

しかしそれらは森江書店が新しい出版社であることを伝えるものではない。森江書店は文政九年創業とされる東京屈指の老舗で、多くの宗派の仏教書を出版する仏教書肆、及び中等教科書などの取次としてよく知られた存在であった。発行者の森江佐七は明治三十五年から四十一年にかけて東京書籍商組合評議員を務めていたし、森江分店はその養子の森江英二によって営まれた出版社と書店を兼ねるものだった。

それらを示すように、『印度仏教史綱』の巻末広告には多くの仏教書が掲載され、その中には同時代に東洋大学学長だった大内青巒の『仏教の根本思想』などの四冊が並んでいるので、境野も大内を通じて森江書店から出版するようになったのかもしれない。そして仏教書の老舗出版社に他ならなかった森江書店にしても、必然的に新仏教運動に同伴していったと考えられる。

それは井上哲次郎の「序」にも表われている。

 然れども仏教をして大に変化せる新時代に応化せしむると否とは、一に其人にありて存す。苟も其人なしとせんか、仏教は早晩其生命を失ひ、文明の背後に排擠せられん。是故に仏教をして存続せしめんが為めには屢く革新を行はざるべからず。是れ新仏教の忽然社会の一隅に起れる所似なり。然れども仏教としては如何に革新を加ふるも、其印度に淵源せる原始的の主義と一貫せる所あるを知らざるべからず。是れ印度仏教研究の亦決して忽にすべからざる所似なり。

つまりこれも大きく巻末広告に見える境野の次著『支那仏教史綱』も同様の試みということになろう。

井上から「境野君は蚤に新仏教を主張し、仏教をして我邦の新時代に応化せしめんとするもの」と称された境野自身も、その「序言」において、『印度仏教史綱』は『新仏教』に「通俗印度仏教梗概」として掲載したものだという断わりを述べてもいる。そして釈尊以前の印度宗教から始まり、釈尊の小伝、仏教略説、原始仏教をたどり、それらは全十五章に及び、大乗仏教、小乗仏教、そして印度本土における仏教の絶滅までが追跡されていく。

そのいわんとするところは、印度仏教が新時代に応化する革新をなしえなかったゆえに、絶滅へと追いやられてしまったのであり、日本の新仏教運動はその轍を踏まないようにする試みだと見なしていいだろう。その『印度仏教史綱』に対して、『支那仏教史綱』は内容紹介のコピーの一文を引けば、「印度仏教徒支那仏教との関係を明にし唐大諸宗勃興の巨細を詳らかにし下ては華、天密、禅の由来及び相互の関係を論じ理脈條然且つ其の間皆各宗教外の大綱をも記述解釈」したものと判断していい。これらの二書に先の立項にある『日本仏教史要』を加えれば、仏教清徒同志会と『新仏教』創刊、それに連なる新仏教運動の歴史的バックボーンを形成する新仏教史三部作と呼んでいいのかもしれない。


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2017-06-13 古本夜話668 川辺喜三郎と「フリーメーソンリー」

[] 古本夜話668 川辺喜三郎と「フリーメーソンリー」

しばらく続けて世界文庫刊行会の『世界聖典全集』とその別巻ともいうべき『世界聖典外纂』に関してふれてきたが、とりあえず終えるに当たって、少し異なる最後の一片を付け加えておきたい。それは川辺喜三郎の「フリーメーソンリー」についてである。

世界聖典全集

どうして「フリーメーソンリー」が『世界聖典外纂』に収録されるに至ったのかは、高楠順次郎の同巻チャートに他ならない「世界宗教概説」に述べられているように、「世界秘密同盟主義のフリーメースン教」として把握されていたからだろう。高楠はその前章の鈴木貞太郎=大拙による「スエデンボルグ」などと並べて、フリーメースンを「別立宗教主義」と分類し、「その主義の参考書乏しく、この外纂に依て初てこれを知り得る宗教主義」と見なしている。当代の碩学の高楠にしても、フリーメースンに関してはそのような認識下にあったと考えられるが、その背景には日本におけるフリーメースンの動向も見え隠れしていたにちがいない。

吉村正和『フリーメイソン』講談社現代新書)によれば、フリーメイソンは明治初期にイギリス軍隊内の「ロッジ」として横浜に上陸している。それとほぼ同時期に日本人として最初にフリーメイソンになったのは、オランダに留学した西周と津田真道であり、帰国後に西は哲学書を著し、「哲学・主観・客観・理性・帰納」といったタームを創案し、津田は法律制定に尽力している。また荒俣宏『フリーメイソン』角川oneテーマ21)は明治三十年代に入って、三宅雪嶺が政教社の『日本人』において、初めてフリーメイソンの存在を知らせる一文を書いた。それに対し、暁星中学や仏英和女学校の創設に関わった東京天主堂のフランス人リニュエール神父が明治三十三年に『秘密結社』を刊行し、このフリーメイソンは「唯物論的な陰謀団」であり、日本は警戒を怠ってはならないと警告したという。

フリーメイソン フリーメイソン

この二つのエピソードは、フリーメイソンの日本におけるイメージのベースを造型したと思われる。いってみれば、ひとつは上流階級が属する謎めいた団体、もうひとつは拙稿「死者のための図書館」(『図書館逍遥』所収)や本連載614などでもしばしばふれてきた『シオン議定書』につながるユダヤ人秘密結社というものであろう。とりわけ後者は日露戦争後に広く流布するようになったはずで、大正時代に入ってからは宗教言説とのアマルガムのかたちで囁かれていたと推測できる。それを受けて、『世界聖典外纂』での「別立宗教主義」としての「世界秘密同盟主義のフリーメイソン教」が紹介されることになったと考えられる。

図書館逍遥 シオンの議定書

しかし川辺喜三郎の紹介は、そのような「秘密結社」や「陰謀団」といったメージを増幅するものではなく、「フリーメーソンリー」を「友愛道」と解釈し、次のように始めている。

 フリーメーソンリー(Freemasonry)はフランスではフラン=マソンネエリー(Franc‐masonnerie)、独逸ではフライマウレライ(Freimaurerei)と呼び、友愛協同を目的とする半宗教的道徳体系の一種である。だから従来わが国で用ひられた訳語『共済組合』または『組合共済主義』或は『組合共済会』などは、良くその意義と現はしてゐない。寧ろ『友愛道』といふのが適切だらうと思ふ。(中略)

 友愛道は、外部の者に解らない種々の特別表号や用語を有し、そして妙な信条や儀式をもつて居る為め往々世間から誤解されて、何か危険な行為を企てる秘密結社の類であると思はれたことも少なくない。(中略)併しその制度組織は略ぼ公然の者であるし、(中略)その目的は物質的並に精神的―近来は殊に精神的―協力互助修養にあり、且その従属的活動として社会事業救済事業等にも関係するのである。そしてその主義としては、人種別、宗教派別・政党別・国境別等を超越した、四海同胞教であつて、全人類の共同互助を目的とするものである。(後略)

ここでは日本において、フリーメーソンリーが「共済組合」的に知られていたことも示されている。川辺はこのようなフリーメイソンに関するこのような定義を前提として、そのエジプトにおける起源、中世の石工を中心とする発達をたどり、純粋の宗教ではないが、各個人の思想や信仰の自由を束縛しない「一種の反宗教的道徳体系」という結論を下している。それでいて、フリーメイソンは少なからず「アラビアの神秘説」とともに発生し、「殊にパラセルススやローゼンクロイツの神秘説が影響した」との一節も見えているので、パラセルススや薔薇十字団の存在もふまえての見解だとわかる。それらに加え、かなり詳細なフリーメイソンの「教義・信条・表号」と「規約憲法」への言及が続いている。

この川辺による「フリーメーソンリー」は『世界聖典外纂』において、前半の社会科学的記述と後半の具体的な教義などへの言及は異彩を放っているように映る。それはこの巻の執筆者たちの中にあって、川辺が宗教学や文学研究者ではなく、唯一の社会学者であることに求められるような気がする。彼は明治四十年に早稲田大学を卒業後、渡米し、シカゴ大学大学院でPh.Dを取得し、大正十年に帰国し、早稲田大学などの講師を務めていたようだ。したがって「フリーメーソンリー」は帰国早々に書かれたはずで、その教義などへの具体的言及から想像すれば、川辺はアメリカでフリーメイソンに属していたのではないだろうか。それゆえにその解説者として、『世界聖典外纂』に招聘されたのではないだろうか。

なお川辺にはフランク・R・ケントの『前人未踏政戦哲学』(万里閣書房、昭和五年)という訳書もあることを付け加えておく。


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