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2016-07-26 古本夜話572 クリスティー『奉天三十年』と岩波新書

[] 古本夜話572 クリスティー『奉天三十年』と岩波新書

前回の衛藤利夫選集ともいうべき『韃靼』に収録されなかった一冊があって、それは昭和十年に大亜細亜建設社から刊行された『満洲生活三十年・奉天の聖者クリステイの思出』である。その理由はこれがクリスティー著、矢内原忠雄訳『奉天三十年』のタイトルで、昭和十三年に岩波新書の第一、二冊として出されたことによっている。つまり著作権の問題から収録が見送られたと考えていい。

韃靼(中公文庫版) 奉天三十年(上巻)奉天三十年(下巻)

実際に矢内原もその「訳者序」において、衛藤の同書は「本書を底本とした叙述であるが、殆んど大部分は翻訳と言つてよい(全訳ではないが)。私は訳文訳語につき此の書物を参照し、それに負ひたる所少くない。記して謝意を表する」と述べている。

同書に関しては衛藤も先の『韃靼』所収の『満洲夜話』の中で、次のように語っている。

 それは一八八二年、即ち明治十六年に奉天入りをして、(中略)医術を以て伝道に従事したドクトル・クリステイこと、司督閣と言ふ英人があつて、居ること四十年、数年前に高齢に達して英国に引き上げたが、この人に奉天生活三十年(Thirty years in Moukden, By D.Christie)と言ふ著書がある。当時世の中から忘れられた東洋の一辺陬に入つて、種々な迫害と戦ひ乍ら、神の道と共に、満洲に初めて西洋医術を輸入して、奉天といふ廃都が、日清、拳匪、日露の戦争を経て、一種の眼まぐるしい推移を自分の直接経験の思ひ出として書いたもの(後略)。

またこのクリスティーの著書は現在でも類書が少ない歴史資料として参照されているようで、最近読んだ小村英夫『〈満洲〉の歴史』講談社新書、二〇〇八年)にも引用されていた。

〈満洲〉の歴史

あらためて『奉天三十年』を読んで見ると、奉天の市街の風景、最初に定住した外国人であるローマ・カトリック教のフランス人神父たち、支那の病気と医術、気候と洪水、訪れてきたイザベラ・バードのこと、診療所から病院の建設、日清・日露戦争野戦病院などが縦横に語られている。それらは三十年間を奉天で暮らした伝道医師から見られたリアルな記録であると同時に、紛れもない満洲の歴史を形成していて、それはクリスティーの叙述がそのまま奉天史であることをも意味している。おそらくそのような定点観測としての奉天史を残し得たのは、外国人のクリスティーだけだったのかもしれない。ちなみにイザベラ・バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫)にも奉天のことが書かれていたのを思い出し、確認してみた。するとキリスト教を好意的に受け入れている奉天とクリスティーのことが語られ、また奉天の写真が二枚収録されていた。

朝鮮紀行

そしてまた衛藤がこの『奉天三十年』に触発され、『韃靼』所収の「黒竜江を下つた二人の仏蘭西羅馬カトリック僧の話」などを書き、『満洲生活三十年・奉天の聖者クリステイの思出』を著した事情がわかるようにも思われた。

それは岩波新書も創刊に際して、この『奉天三十年』が選ばれた理由と事情も、そのようなクリスティーの記述に起因しているのではないだろうか。矢内原は書いている。翻訳は岩波茂雄の慫慂によるもので、「氏は本書を読んでクリスティーの無私純愛なる奉仕的生涯に感激し、今や満洲及び満洲人に対し従来よりはるかに大なる責任を取るに至りし我が国民に本書を提供し、以て満洲をして真に王道楽土たらしむるに資せしめようと欲せられたのである」。岩波が読んだのは衛藤の著書だったことはいうまでもあるまい。

そのような岩波の思いは、彼の名前が出された昭和十三年の「岩波新書を刊行するに際して」に反映されたはずである。それは次のように始まっている。

 天地の義を輔相して人類に平和を与へ王道楽土を建設することは東洋精神の神髄にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられた世界的義務である。日支事変の目標も亦茲にあらねばならぬ。世界は白人の跳梁に委すべく神によつて造られたるものにあらざると共に、日本の行動も亦飽くまで公正明大、東洋道義の精神に則らざるべからず。東洋の君子国は白人に道義に尊さを誨ふべきで、断じて彼等が世界を蹂躙せし暴虐なる跡を学ぶべきでない。

安倍能成『岩波茂雄伝』、及びこの全文を掲載している小林勇『惜檪荘主人―一つの岩波茂雄伝』(いずれも岩波書店)によれば、「発刊の辞」は編集者の吉野源三郎が書いたが、岩波はそれが気に入らず、親しい学者たちに見てもらったうえで、引用に始まる一文を差し換えたという。それは多くの共感と右翼の反発をも招いたとされる。

岩波茂雄伝 惜檪荘主人―一つの岩波茂雄伝(講談社文芸文庫版)

また岩波新書発刊の動機は日支事変にあり、国に関するものをできるだけ入れることを目的としていたので、岩波が『奉天三十年』を第一、二篇に選んだとも伝えている。しかし『奉天三十年』を虚心に読むならば、これが戦争と日本批判の一書でもあり、「満洲をして真に王道楽土たらしめる」ことを触発するようには書かれていない。岩波の思いこみの読書はともかく、時代状況によって、一冊の書物が様々に読まれてしまうことを示唆していよう。


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2016-07-24 古本夜話571 衛藤利夫『韃靼』と翻訳書

[] 古本夜話571 衛藤利夫『韃靼』と翻訳書

これも三回続けてイブラヒムがタタール人=韃靼人であること、大日本文明協会のこと、嶋野三郎が満鉄の東亜経済調査局で『露和辞典』を編んだことを取り上げてきたが、これらに関連する人物と著書があるので、それにもふれておきたい。

それは衛藤利夫『韃靼』で、昭和三十一年に編集発行者を衛藤利夫記念事業会とし、発売所を丸善として刊行されている。彼はその三年前に亡くなっているので、前回の『嶋野三郎』と同様に遺稿集と見なしてもいい。同会は衛藤が奉天図書館長や日本図書館協会理事長時代の関係者を世話人として、発起人依頼から始まっているが、その中には大川周明の名前もある。

韃靼(中公文庫版) 嶋野三郎

本連載564で、満鉄の植民地経営のソフトな文化戦略としての満鉄調査部の発足があり、その系譜上に大連図書館や奉天図書館も設立されたのではないかと記しておいたが、衛藤はその中心人物であった。彼については山口昌男の『「挫折」の昭和史』岩波書店)の中の石原莞爾に関する「『夕日将軍』の影」という章に「衛藤利夫の軌跡」が置かれ、「満洲に於ける図書館文化とでも言うべき潮流の中で、指導的な立場にあったのが衛藤利夫である」と述べられている。また同じく山口の『内田魯庵山脈』晶文社)においては、「亜細亜図書館建設の理念」という一章が立てられ、さらに詳しく衛藤が論じられていることも付け加えておこう。

『「挫折」の昭和史』 内田魯庵山脈

『韃靼』所収の「衛藤利夫略歴」と山口の記述などにより、彼の「軌跡」をたどってみる。衛藤は明治十六年に熊本に生まれ、五高に進むが、大川周明たちとストライキを起こしたことで退学する。上京して東京帝大選科に入り、美学を専攻し、大正四年に東京帝大図書館長の和田万吉に招かれ、その司書となる。そして八年から満鉄大連図書館司書、奉天簡易図書館主事を経て、十一年に満鉄奉天図書館長に就任する。自らが企画し、同年に落成したアメリカと中国の折衷様式の美しい図書館は当初六千冊ほどの雑本だけだったが、二十万冊の蔵書を有する大図書館へと推移し、東亜研究の稀覯文献をも網羅し、満州内外の学者や研究者もよく訪れるトポスともなった。それに加え、図書館管理運営に関しても優れた業績を残し、総合目録や辞書体目録についても先鞭をつけたとされる。昭和十七年にその図書館長を辞し、日本図書館協会理事となり、戦後はその理事長も務めている。なおこれは蛇足かもしれないが、やはり同時代に満鉄調査部から満鉄鉄嶺図書館長となったのは東海林太郎であった。

さて衛藤の『韃靼』は奉天図書館時代の著作を主とするもので、いわば彼の選集でもある。それは五部構成で四冊の単行本を主としていて、それらのタイトル、出版社、刊行年を示す。

 1 『韃靼』    満鉄社員会、朝日新聞社 昭和十三年
 2 『満洲夜話』  吐風書房        昭和十五年
 3 『短檠』    満鉄社員会       昭和十五年
 4 『図書分類の理論的原則』  間宮商店  大正十五年
 5 『小論集』

1の『韃靼』は以前に中公文庫に収録されていたが、『中公文庫解説目録1973〜2006』で確認してみると、残念なことにずっと品切れのままである。衛藤の真骨頂はこの八編からなる古の韃靼の地の記録をたどった一冊にこめられているように思う。それは「序」を寄せている「後進」の加藤新吉の言葉にも表出している。ここに示されている「韃靼」とはかつては「中央亜細亜」、あるいは韃靼海峡の涯から西方に向かう「土耳其斯担」に至る一帯を故地とし、それが現代では「満洲」や「蒙古」という「新しき名と形」で登場している。「日本を指導者とする東亜民族の復興、明日の新しき歴史は正に既に韃靼の故地に於てその第一頁が書き始められてゐる」。それゆえにこのタイトルの「韃靼」は「古き名」であると同時に「新しき名」でもあるのだ。つまり衛藤はここで「韃靼」の古と新しさをリンクさせようとしている。おそらくそうしてイブラヒムとイスラム教も表象され、日本において受容されたのであろう。

この『韃靼』だけでなく、オリジナルに編まれた5の『小論集』を除いて、2の『満洲夜話』、3の『短檠』、4の『図書分類の理論的原則』にしても、いずれも編集や出版は満鉄や図書館関係者の手に担われ、上梓されている。しかし『韃靼』や『短檠』の編集者尼崎晋之助の行方はまったく不明だと伝えられているし、それは『満洲夜話』を処女出版した吐風書房の山中泰三郎も同様だと思われる。満洲における日本人による出版の茫洋さと不可解さを彷彿とさせる。

だがそれは衛藤の満洲図書館人となる前の時代も同様で、明治四十五年に東京帝大を出てから、大正八年に満鉄大連図書館司書となるまでは、代々木に住み、主として翻訳によって生計を立てていたようだ。また内田魯庵の知遇を得たことで、魯庵が編集していた丸善の『学燈』の寄稿者だった。『短檠』には「魯庵翁の思ひ出」というエッセイも収録されている。その翻訳は六冊ほどあり、大日本文明協会から三冊出ているのだが、著者や署名がはっきりしないので調べてみると、次の三冊だとわかった。

モーリス・ベアリング『露国民』(大正二年)
エドワード・シンクレア・メイ『軍事世界地理』(大正三年)
エミール・ルカ『恋愛の進化』(大正五年)

いずれも未見であり、著者も内容も不明だし、どのような経緯と事情で、このようにまったく内容が異なる翻訳に携わったのかわからない。もっともそれは大日本文明協会叢書の翻訳に共通していることではあるけれど。それから大正七、八年に衛藤は新潮社のツルゲエネフ『薄倖の少女』、セレチヤル編『露国十六文豪集』といった小説の翻訳もしている。だがそこで衛藤の翻訳者の時代は終わり、満洲の図書館界へと向かったことになる。


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2016-07-22 混住社会論147 伊井直行『ポケットの中のレワニワ』(講談社、二

[] 混住社会論147 伊井直行『ポケットの中のレワニワ』(講談社、二〇〇九年)

ポケットの中のレワニワ ポケットの中のレワニワ


本連載23から26 にかけて、一九八〇年代に日本へと漂着したベトナム難民やインドシナ半島のボートピープルをテーマとする小説を取り上げてきた。二〇〇九年に刊行された伊井直行の『ポケットの中のレワニワ』は、その難民たちの二一世紀に入ってからの行方を描こうとしている。

この小説には「付録」として「ベトナム難民と日本をめぐる小史」が収録され、そこで当初日本政府はベトナム難民ボートピープルの受け入れを拒否したが、一九八〇年代半ばになって、それらの受け入れを三千人、五千人、一万人と段階的に拡大し、八九年には次のような状況を迎えたと記している。

 難民資格認定制度が開始される。家族と共に日本に定住するベトナム難民が増加、インドシナ出身者が集中して居住する団地が出現した。交通不便な団地も多く、受け入れの実質的な窓口となった地方自治体による一種の「隔離」だったという説もある。総計、一万数千人が日本に定着した。

それと相前後して、ベトナム政府は海外脱出者の一時帰国を許可し、日本に定住した難民とベトナム間の中古品貿易が行なわれるようになり、ベトナムでも経済の自由化が徐々に進められていった。

このような日本におけるベトナム難民クロニクルとベトナム状況の推移を背景として、この混住小説に他ならない『ポケットの中のレワニワ』は紡ぎ出されている。

主人公の「俺」=アガタ=安賀多真一は職場のコールセンターで、小学三年の時に同級だった町村桂子=グエン・ティアンに再会した。「俺」が通っていた向洋台小学校は親がベトナム人やカンボジア人、中国人である生徒が多く、ティアンもその一人だった。ただ彼女は五歳になる前に来日したので、日本語は話せたけれど、ベトナム語はカタコトだった。二人は孤独さを共有していたことから、港見学という「デート」をしたこともあり、その秋に転校してしまったが、「俺」にとっては最も印象に残っている女子だった。

だがそれは「運命の再会」というよりも、彼女の身も蓋もない言に従えば、「同じ貧乏な団地に住んでいた者どうし、結局同じように恵まれない職場にたどりついた」ことになる。しかしそうはいっても、ティアンのほうは正社員の統括主任、「俺」は中学でいじめにあって不登校になり、そのために底辺高校からFランク大学に進学し、卒業しても就職できず、フリーターニートにはならなかったが、やっと見つけたのが派遣社員の仕事だった。つまり彼女は日本とベトナムの名前を持っている上司として、日本人の「俺」の目の前に現れたのである。

そしてティアンは「俺」に対して、親会社の野球部の試合がかつて通い住んだ小学校と団地のある向洋台球場で行なわれるので、一緒に応援にいこうと誘う。それは親会社の社員でコールセンターに出向している徳永さんに頼まれたからだ。これらの説明が付されたイントロダクションにふれただけで、二一世紀になって進行した職場における格差と待遇をめぐる状況が浮かび上がってくるし、それがベトナム難民がたどった日本での二一世紀の回路、及び国内における日本人の難民化とも重なり、『ポケットの中のレワニワ』のベースを形成していることに気づかされる。

その途中で、二人はやはり小学校と団地を同じくしたチュオン・キム・ハン=山本泉と出会う。彼女の声は「学齢になってから日本に住むようになった東南アジアの女性が身につける日本語の間合い。向洋台団地にいた間、鳥の鳴き声のように耳に入って」きたもので、やはり彼女もベトナム難民なのだ。ティアンとハンが携帯アドレスを交換する一方で、「俺」の携帯にもいくつかのメールが入ってきていて、『ポケットの中のレワニワ』においても、携帯とメールが物語に同伴するメディアと化している。それらは先述した職場の階級構造、日本人とベトナム人の混住とパラレルに、携帯やメールが日常生活の通信インフラとして定着したことを告げている。そうして物語は進み、小学校や団地も姿を見せていく。

 歩を進め、球場方向へと下って行く直前の小高い場所に立つと、団地の敷地の半分ほどが姿を現し、隣接する向洋台小学校の校舎も見える。だが同時に、近所にある工業団地が視野に入ってしまい、その先は田畑と住宅と工場や倉庫の混在する美的とはいいにくい地域だ。(……)

 向洋台団地は離れ島だった。子供にとっては、それが世界のすべてに思えるような。だから、俺や、団地の子どもたちにとって、成長するとは、世界が団地の外にあると気づくこと、世界がもっと広いものだと知ることと同じだった。

 しかし、いつか世界は反転し、俺たちをまた狭苦しい場所に閉じこめようとする。さらに年齢を重ねると、世界の広さと自ら住む世界の両方を知ることになるのだ。俺は狭い子供の世界が嫌いで、早く大人になりたいと願っていた。要するに、俺はバカだったってことだ。こんな大人になってしまったのだから。……

「俺」と「貧乏人どうしでくっついて」見ている親会社の社員たちの野球はティアンにとって、「火星人のやっているわけの分からない遊びみたい」だったし、「俺」にしても、彼女とのデートや結婚を望んでみたいが、「ハケンから抜け出す道も、いつか家族を持つイメージ」が湧いてこない。

だが「俺」も試合に駆り出されているうちに、ティアンの姿が見えなくなったので、彼女を探しに団地に向かうと、今は住民も半分以上が一九八〇年代以降日本に帰化したり、定住した外国人となっていた。最初はベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ三国からの難民が中心だったし、九〇年頃にティアン一家も団地に越してきていた。それが今ではイラスト入りの大きな看板が立てられ、日本語、ベトナム語、中国語、カンボジア語、ラオス語、英語の六ヵ国語で、ゴミ捨て、近隣騒音、防犯などの生活上の注意書きが記されていた。それはかつてなかったもので、団地が荒れ始めた九三年以降だったら、落書きだらけになっていただろう。当時はゴミが散乱し、埃が舞い、部品をとられた自転車やバイクが放置され、道端にはしゃがんで通行人をにらんでいる若者たちがいた。不思議なメロディとわけのわからない歌詞のカラオケ、サイレンの音、酔っぱらいの喧嘩、高層棟の上層階で起きる火事、怒号と泣き声などの中にあって、解放されたような気分も味わっていた。だが団地が荒れ始めてから、経済的余裕のある家は越すことが多くなり、県の勤労者の平均年収以下の世帯しか団地に住めなくなった。そして九〇年代後半には住民の半分以上が入れ替わり、主体は老齢世帯と外国系世帯となり、小学校生徒は減少し、その半数以上が「外国とつながる」生徒で占められるようになった。それもあってか、かつての荒んだ気配が消え、こざっぱりと清潔になっていた。

ポケットの中のレワニワ(文庫版)

このような八〇年代から九〇年代にかけての向洋台団地の推移は、難民や日系ブラジル人を受け入れ、混住することで変容せざるを得なかった全国各地の団地の姿であったといえよう。それはまたアメリカの町における黒人の増加によって郊外へと移住していった白人家庭、フランスにおける移民や難民の団地への隔離的収容をも想起させる。そうした環境と状況を「俺」やティアンたちはくぐり抜け、二一世紀へとたどり着いたことになる。

その向洋台団地にあって、以前は東芝の特約小売店だったところがベトナム料理店になっていて、そこにはやはりベトナム人のヒエンもいて、ベトナム人の経営する廃品回収、中古品販売会社に勤めていた。「俺」とティアンとヒエンはレワニワを媒介とする仲間だった。レワニワのことを言い出したのは高校の生物教師だった「俺」の父親で、小学校二年生の時だった。レワニワはインドシナ半島の奥地に生息する両生類と爬虫類の中間に属する動物で、まだ生態はつかめておらず、「生物学上の謎」とされ、水辺で目撃されることが多いが、陸上も自由に動くことができる。妖精の場合、大きさは十センチから二十センチで、団地の隣の棟の軒下にも出たという。それで「俺」は父親とその軒下を見たが、妖精は見つからなかった。これは後になってわかったのだが、その棟にはベトナムで女優だったすごい美人の奥さんが越してきていて、父親は彼女を見るためのダシに息子を使うつもりで、レワニワというものを考え出したのである。しかしレワニワは団地の子供たちの心の中で生きのび、実在化することになった。

それは次のような事情によっている。向洋台の子供たちは工業団地の近くを流れる水が茶色く汚れた浜川に、片目のないフナや背骨の曲がったボラなどの変な魚がいることを知っていた。その上流の田や畑の間を流れる小川の近くに住む生徒が変な動物を見たといってきた。その絵からすると、レワニワのようがったが、レワニワは東南アジアに生息するもので、しかもその地域でも今は幻の動物のはずである。そこで工業高校の教師の父親は自転車のエンジニアになるつもりで入学したベトナム人のクアンを呼び、その絵を見せると彼は驚き、レワニワに関して語り始めた。

父母の子供時代、ベトナム中部の農村にはどこにでもいて、珍しい生き物ではなかった。しかし一九六〇年代半ばにベトナム戦争が本格化すると、レワニワは村の周辺では見つからなくなった。ところが村が北ベトナムの軍に占領され、再教育のために一家は山奥の未開の地に送られた。クアンはそこの近くの泥川でレワニワを見つけた。レワニワに話かけると言葉を覚え、仲のいい友達になるし、言葉を教えてくれた人の願いをかなえる力を持っている。だが決して願い事をしてはいけない。願い事を聞いたレワニワはその欲望に染まった心を養分にして巨大化し、人間化して、ついには人食い鬼になるからだ。それでもクアンはレワニワとつき合っていたが、言葉を覚えたかどうかわからないうちに、一家はその村を逃げ出すことになり、二度と戻ってこれないことを自覚した。そこでクアンはレワニワをつかまえ、ポケットの中に入れ、舟に乗った。

だが両親と妹は遭難し、兄とクワンとレワニワは生き延び、難民として日本へとたどりついた。そして向洋台に越してくる前に、異国での難民として願い事をしないためにレワニワを手離す決意を固め、日本の川に流し、それからレワニワを見たことがなかった。だが浜川で生きているという事実は、まだ誰もレワニワに願い事をしていないことを意味していた。ここまできてレワニワ伝説が造型される。レワニワとは日本人とベトナム人の合わせ鏡のような欲望を体現化する存在であり、それは同時に難民を表象してもいるのだ。それゆえにそのイメージを日本人もベトナム人も共有することになり、それは次第に現実の姿をも招来させていく。

父親はレワニワのことを「秘密」にしておかなければならないといったが、「俺」は親友の吉田君に話し、彼はヒエンにも伝えたので、三人に説明するはめになり、レワニワ探検隊も結成され、さらにそのメンバーは増えていった。三年になって、カンボジア人のミアン君がレワニワのことを言い出し、レワニワ伝説が広まっていることを知った。その伝説の広範な伝播は向洋台団地にベトナム、ラオス、カンボジア難民の家族たちが住めるようになったという友愛の雰囲気の中で起きたことだった。

 それまで日本語だけの世界だった団地の小学校に、突然外国からの生徒が来たのだ。混乱するのは当然だった。先生も困ったし、生徒もとまどった。もちろん転校してきた側も。

 でも悪い雰囲気ではなかった。

 お互い何とか交流を持とうとし、仲良くなろうと努力した。吉田君は、積極的に話しかけた一人だった。そういう子供はほかにもいた。当時は、外国から来た子と仲良くするのはなかなか格好いいことだったし、なによりも楽しかった。お互いに言葉を教えあい、うまくいっても、いかなくても笑い合った。

 先生たちも、多くは新しい事態に懸命に対応していた。生徒に、ベトナムがどこにある国か教え、歴史についてかたった。低学年のくらすで、生徒がどれほど理解したのかわからないが。同じ国民同士で争う戦争があったこと、そこから小さな舟に乗って逃げ出した人たちが、命からがら日本に来て団地に住むようになったこと、話のうまい先生のクラスでは生徒が泣いてしまったこともあるらしい。泣いたのは日本人の生徒だ。学校は新しい刺激を受けて活気づいた。

 ヒアンはこの友情の場を守りたいと思っていたのに違いない。(……)

そこには難民としてのレワニワ伝説も寄り添っていた。そして日本人と「外国から来た子」が混住する第2次レワニワ探検隊が結成され、それは捕えてベトナム語を教えることを目的としていたので、その活動は「レワニワ狩り」と呼ばれていた。浜川の捜索だけでなく、レワニワはもう大人サイズになり、陸上では人間に変装して活動するともされていたので、団地に入ってくる不審な人物を見つけ、行動を監視したり、記録したりもした。そうして同級生の母親の愛人がレワニワではないかとの発見もなされてしまったのである。ただそれはレワニワを妖精的ファクターから忌むべき凶々しい存在へと転化させるきっかけでもあった。

それを機にしてのように、向洋台小学校にあった友愛の雰囲気は消え、団地のムードもすさんでいき、外国系の人々と日本人の間の溝が深くなっていった。だがその一方で、バブル時代に入り、民間アパートの家賃は急上昇していたが、団地の家賃は安く、住みやすかった。

 これと時を同じくして、向洋台団地への外国系住民の転入、定住が始まった。それは、世間からは注目されない地味な異文化接触だった。継続的で、生活丸ごとの接触。それがなんの準備も心構えもないままに始まった。引っ越して空き住居になった部屋に、次に越してきたのが言葉の通じない、異なる生活習慣を持ち、日本の文化についてあまり知識のない人だった、というわけだ。そういう人たちが、一挙にというほどではないが、かといって徐々にというほど控えめでもなく、団地の住民となっていった。

まさに混住の葛藤がいきなり表出してきたことになる。そうしてもはや学校も団地もかつてと異なるものになり、その合わせ鏡のようにして、レワニワはその混住から生じる「ホラ話の生け贄の中で増殖し」、ティアンたちをも巻きこんでいったのである。またそれが「俺」とティアンの「デート」のきっかけだったし、小学三年生の時の思い出でもあった。

しかしティアンとの再会をきっかけにして、レワニワがあらためて姿を現してくる。それは「俺」のコートのポケットの中に見出され、難民のような生活を送っている「俺」の相談相手にもなり、告白もするし、会社を辞めてしまったティアンを探す手立てをも教えようとする。

ここにきて、レワニワは単なるアジアの妖精めいた生物ではなく、混住の「ホラ話の生け贄で増殖した」神のような位置に接近したことになる。そしてゆくりなく、本連載29 の篠田節子『ゴサイタン・神の座』を想起してしまう。まだ『ポケットの中のレワニワ』のクロージングまでは見届けていないけれど、ここで閉じることにしよう

ゴサイタン・神の座


◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」146  吉田修一『悪人』(朝日新聞社、二〇〇七年)
「混住社会論」145  窪 美登『ふがいない僕は空を見た』(新潮社、二〇一〇年)
「混住社会論」144  畑野智美『国道沿いのファミレス』(集英社、二〇一一年)
「混住社会論」143  森絵都『永遠の出口』(集英社、二〇〇三年)
「混住社会論」142  本間義人『国土計画を考える』(中央公論社、一九九九年)と酉水孜郎『国土計画の経過と課題』(大明堂、一九七五年)
「混住社会論」141  『田中角栄『日本列島改造論』(日刊工業新聞社、一九七二年)
「混住社会論」140  『佐久間ダム建設記録』(ジェネオン、二〇〇七年)
「混住社会論」139  デイヴィッド・グターソン『殺人容疑』(講談社文庫、一九九六年)
「混住社会論」138  ニーナ・ルヴォワル『ある日系人の肖像』(扶桑社ミステリー、二〇〇五年)
「混住社会論」137  アップダイク『カップルズ』(新潮社、一九七〇年)
「混住社会論」136  トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮社、一九六七年)と高村薫『冷血』(毎日新聞社、二〇一二年)
「混住社会論」135  山上たつひこ、いがらしみきお『羊の木』(講談社、二〇一一年)
「混住社会論」134  古谷実『ヒミズ』(講談社、二〇〇一年)
「混住社会論」133  小田扉『団地ともお』(小学館、二〇〇四年)
「混住社会論」132  篠原雅武『生きられたニュータウン』(青土社、二〇一五年)と拙著『民家を改修する』(論創社、二〇〇七年)
「混住社会論」131  江藤淳、吉本隆明「現代文学の倫理」(『海』、一九八二年四月号)
「混住社会論」130  Karen Tei Yamashita , Circle K Cycles(Coffee House Press、二〇〇一年)
「混住社会論」129  高橋幸春『日系ブラジル移民史』(三一書房、一九九三年)と麻野涼『天皇の船』(文藝春秋、二〇〇〇年)
「混住社会論」128  邱 永漢『密入国者の手記』(現代社、一九五六年)
「混住社会論」127  宮内勝典『グリニッジの光りを離れて』(河出書房新社、一九八〇年)
「混住社会論」126  江成常夫『花嫁のアメリカ』(講談社、一九八一年)と有吉佐和子『非色』(中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」125  トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』(原書一九四九年、毎日新聞社一九七八年)
「混住社会論」124  スティーヴン・グリーンリーフ『探偵の帰郷』(早川書房、一九八五年)とリチャード・ピアス『カントリー』(ポニー、一九八四年)『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」123  『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」122  カムマーン・コンカイ『田舎の教師』(勁草書房、一九八〇年)
「混住社会論」121  谷恒生『バンコク楽宮ホテル』(講談社、一九八一年)
「混住社会論」120  矢作俊彦『THE WRONG GOODBY ロング・グッドバイ』(角川書店、二〇〇四年)
「混住社会論」119  スタインベック『怒りの葡萄』(原書、一九三九年、第一書房、一九四〇年)とピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(東洋経済新報社、二〇〇七年)
「混住社会論」118  ゾラ『大地』(原書、一八八七年、論創社、二〇〇五年)と長塚節『土』(春陽堂、一九一二年)
「混住社会論」117  渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、一九九八年)と久米邦武編『特命全権大使 米欧国回覧実記』(新橋堂、一八七八年)
「混住社会論」116  ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』(原書、一八八三年、論創社、二〇〇二年)
「混住社会論」115  M・M・ジンマーマン『スーパーマーケット』(経済界、一九六二年)
「混住社会論」114  『大和ハウス工業の40年』(同編集委員会、一九九五年)
「混住社会論」113  安土敏『小説スーパーマーケット』(日本経済新聞社、一九八一年)とテーラー『科学的管理法』(産業能率短期大学出版部、一九六九年)
「混住社会論」112  藤田 田『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ、一九七二年)と『日本マクドナルド20年のあゆみ』(同社、一九九一年)
「混住社会論」111  ジョージ・リッツア 『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、一九九九年)
「混住社会論」110  藤原伊織『名残り火』(文藝春秋、二〇〇七年)
「混住社会論」109  ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』(藤原書店、二〇〇六年)と矢崎葉子『それでも家を買いました』(大田出版、一九九〇年)
「混住社会論」108  庄野潤三『夕べの雲』(講談社、一九六五年)
「混住社会論」107  宮部みゆき『理由』(朝日新聞社、一九九八年)
「混住社会論」106  黄 春明『さよなら・再見』(めこん、一九七九年)
「混住社会論」105  日影丈吉『内部の真実』(講談社、一九五九年)
「混住社会論」104  ウェイ・ダーション『セデック・バレ』(マクザム+太秦、二〇一一年)
「混住社会論」103  松本健一『エンジェル・ヘアー』(文藝春秋、一九八九年)
「混住社会論」102  村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」101  赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1 

2016-07-19 古本夜話570 嶋野三郎と『露和辞典』

[] 古本夜話570 嶋野三郎と『露和辞典』

本連載564「大川周明、井筒俊彦、東亜経済調査局」の最後のところで、やはり大川と同様に東亜経済調査局に在籍し、ロシア語辞典を編纂し、代々木上原に回教寺院を建立した嶋野三郎の名前を挙げておいた。

かつて竹林滋他編『世界の辞書』(研究社)を読んでいたら、磯谷孝の「ロシア語の辞書」のところに、「日本人の手による初めての本格的露和辞典は島(ママ)野三郎を中心とする南満州鉄道株式会社東亜経済調査局編『露和辞典』(1928年、同人社)である。この辞典は収録数15万語の大型辞典で、まず大川周明の序に驚かされる」と記されていた。

世界の辞書

そのうちにこの『露和辞典』や嶋野の著作に出会えるだろうと思っていたのだが、それらを入手できないままに十年以上が経ってしまった。ただその代わりというべきか、満鉄会・嶋野三郎伝記刊行会編『嶋野三郎』原書房、昭和五十九年)は購入しているので、この機会に嶋野についてもふれてみる。それは各種人物事典などにも、嶋野の立項が見出されないからでもある。

 嶋野三郎

満鉄ソ連情報活動家の生涯」というサブタイトルを付した『嶋野三郎』は冒頭に一色達夫「嶋野三郎翁・硬骨の生涯」を置き、第一部「ロシア革命論編」は『この目で見たロシア革命』などの嶋野の著作からなり、第二部「講演編」は昭和四十九年の満鉄懇話会での講演三編を収録し、この第一、二部で同書の大半が占められている。そのことからすれば、同書は嶋野三郎遺稿集といっても差しつかえないだろう。

まず一色の伝記をたどってみる。嶋野は明治二十六年に金沢の豪商の家系に生まれたが、父が財を傾けるとともに、彼が十七歳の時に亡くなり、旧制中学は出たものの、父の遺志であるロシアで学ぶことを実現するためには、石川県のロシア留学生試験に挑むしかなかった。それは石川県青少年育英事業に基づく露国留学生制度によるもので、第一回は嶋野を始めとする三名が選ばれた。そして大正三年に嶋野はペトログラード大学に入学し、在学中に満鉄留学生となり、ロシア革命に遭遇し、その惨劇を目撃して帰国する。その惨劇レポートが後に書かれた『この目で見たロシア革命』であろう。大正六年から満鉄本社に勤務し、東亜経済調査局に入局する。昭和に入ると、満鉄からフランスやドイツに留学し、昭和九年からは調査部北方調査室に入る。この北方調査室は対ソ資料に関して完璧を誇り、満鉄調査部の中枢部門で、最盛期には一二〇名を有したという。

しかし嶋野は昭和十一年の二・二六事件に連座し、東條英機によって、二ヵ年の国外追放を受け、満鉄欧州事務所から東京の華北交通参与として敗戦を迎えたので、ソ連に逮捕、抑留されることから逃れたのである。伝記は二・二六事件連座の詳細を伝えていないが、嶋野の名前も挙がっている『国家主義運動(一)』(『現代史資料』4、みすず書房)から推測すると、嶋野もメンバーであった猶存社や行地社、大川周明や北一輝との関係から生じたもののように思われる。それらはともかく、嶋野は満鉄創業から敗戦まで最長在職者の一人、生え抜きのソ連調査の第一人者であり、昭和五十七年に八十九歳で亡くなっている。

国家主義運動(一)』

その著者や訳書も多く、それらは東亜経済調査局時代に同局から刊行されているが、まったく未見である。だがその中でも特筆すべきは先に挙げた『露和辞典』で、『嶋野三郎』の口絵写真にも昭和八年刊行の白水社の『露和大辞典』の書影が掲載されている。これは東亜経済調査局編纂として、本連載233234でふれた同人社から昭和三年に『露和辞典』、そして次に白水社から、『露和大辞典』として刊行に至っている。

『嶋野三郎』には満鉄東亜経済調査局大川周明の「序」の全文が引用掲載されているので、その最初の部分を引いてみる。

 茲に東亜経済調査局の名に於て刊行する露和辞典は、局員嶋野三郎君が精進十有余年の結晶なり。嶋野君が露和辞典の編纂に志し、初めて其稿を起こせるは実に大正三年君が尚笈を露西亜に負ひてペトログラード大学たりし時に在り。大正六年業を卒へて帰朝するや、職を南満州鉄道株式会社に奉じ、執務の全力を傾倒して稿を続けたりしたが、大正七年陸軍通訳官として西比利亜出征軍に従ひたるを以て、暫し其業を中止したり。征戦終りて後再び満鉄に復帰し、大正八年東亜経済調査局に勤務するに至り、調査局は該辞典の編纂を以て局の一事業となし、嶋野君をして専ら其事に当らしめたり。

そして大正十三年春に完成を見るのだが、関東大震災後でもあり、印刷に障害が生じ、容易に刊行に至らなかった。それでも関係者たちの奔走によって、おそらく満鉄の出版助成金を得て、同人社がその刊行を引き受けることになったと思われる。その同人社版を白水社が引き継ぎ、再版する際に、『露和大辞典』というタイトルに改称されたのである。

ここでは嶋野のプロフィル、満鉄『露和辞典』にしか言及できなかったが、イスラムについては『嶋野三郎』の中に、嶋野自身による「日本と回教との関係」という講演が収録されている。そこに代々木上原の回教寺院建立もふれられ、彼のマホメット工作者という別の一面も語られていることを付記しておく。


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2016-07-17 古本夜話569 大日本文明協会叢書『土耳其帝国』

[] 古本夜話569 大日本文明協会叢書『土耳其帝国』

前回イブラヒムの『ジャポンヤ』において、繰り返し会談し、言及が多いのは大隈重信で、しかも早稲田大学も何度か訪れていたようだ。そのうちの一度は大隈講堂で、日暮里に住んでいたトルコ系エジプト人のアフマド・ファズリーの講演会が開かれた時だった。彼は若きムスリムのエジプト人将校で、英仏語を完璧に身につけ、その夫人は日暮里の村娘だが、日本で「初めてイスラムに帰依せし女性」で、彼は日本におけるすべてのムスリムの先達として、早稲田大学でイスラムに関する初めての英語講演をしたのである。それはイブラヒムが大隈に提案したもので、一九〇九年三月のファズリーの三時間に及ぶ講演には二千人の大学生が集まったとされるが、当然のことながら、聴衆は大学生ばかりでなく、当時の日本のイスラム関係者も動員されたと思われる。

ジャポンヤ

しかし驚かされるのは明治末の時代にあって、それだけ多くのイスラム関係者、及びイスラムに関心を有する人々がいたという事実であり、西洋でもキリスト教でもない東欧のイスラムへの注視の昂揚に他ならない。実際に大隈がイブラヒムに語ったトルコに対する見解は、その一端を示していると思われる。そこには日露戦争後のアジア、トルコ、ヨーロッパの地政学もまた反映されていると見るべきだろう。

そのような大隈の言を読んでいると、大隈が会長を務める大日本文明協会から『土耳其帝国』なる一冊が刊行されていることを思い出した。確かめてみると、それは明治四十四年六月の出版で、イブラヒムの来日やファズリーの講演とパラレルに企画編集が進められていたと推測できる。

菊判上製六三八ページに及ぶ『土耳其帝国』は、大日本文明協会を編輯兼発行者とするものだが、「同編輯局識」とする巻頭の「例言」によれば、著者は元トルコ大使秘書官サー・チャールス・エリオット(Sir Charles Eliot)、原文タイトルはTurkey in Europe で、その一九〇七年刊行の第二版の翻訳である。「例言」はトルコの政治状況に関して、次のように記している。

Turkey in Europe

 土耳其国の現在及び将来は共に一大疑問なり。昔は欧州第一流の強国として列国に恐怖せられたれど、近世其勢力次第に衰へ、十九世紀に至つて極度に達し、垂死の病者に比せらるゝに至れり。唯列国の均勢上土国を保全する事の近東に必要なるは、恰も極東に於て清国の保全を必要とすると同じく、之が為めに他国に併合せらるゝ事なく、其滅亡を免れたり。然るに一昨々年八年七月、久しく同国の改革を目的とせる青年土耳其党成功して革命をなし、爾来憲法を制定し、議会を開設し、専制主義のサルタンを廃し、新帝を擁立し、世人をして大に土国復興の希望を起さしむるに至れり。(中略)而して土国政治の困難は政権を握れる土耳其人の外に、人種、宗教、言語、風俗、全然相同じからざる異種民族の集合して同化し能はざる点に在り。現在斯くの如し、将来如何になるべきかは何人も予告し能はざる大問題なり。(中略)吾人は世界の開明国を学ぶと同時に、衰微せる国家の跡を察して自ら警戒するを要す。我国は土耳其国とは国状全く異なれど、土国人が其征服せる異民族を心服せしめ同化する事なく、単に威力のみを以て圧服せんとして今日の状態に陥りたるは以て自ら殷鑑とすべし。

この生々しき「例言」はトルコ現代史に寄り添うものであり、オスマン帝国の衰退、中東、バルカン半島をめぐる西洋列強の東方問題、青年トルコ党革命、民族、宗教をめぐる葛藤が語られている。そしてトルコはアジアにおける清国に擬せられ、また日本の植民地政策の在り方にも及んでいることになる。

それに目次が続き、トルコとヨーロッパの関係の歴史、トルコにおける多民族混住と宗教の実体という主内容が示され、次にトルコ、ルーマニア、ブルガリア、ボスニア、セルヴィアなどの「巴爾幹半嶋」の折り込み地図が収録されている。先の例言やこの地図を見ていると、この『土耳其帝国』の翻訳刊行の翌年、すなわち一九一二年から一三年にかけて、まさにの「巴爾幹半嶋」諸国間のバルカン戦争が起きたことを想起させる。要するにイブラヒム来日やファズリー講演、『土耳其帝国』翻訳刊行の時代はバルカン情勢が風雲急を告げていたことになり、それが大隈講堂での講演会を盛況に導いた理由であろう。

同書の翻訳は井上留次郎の手になるが、そのうちの第六章「モハメット教」は早稲田大学教授吉田巳之助、第七章「正統派教育」は生方敏郎によっている。井上と吉田は詳らかでないけれど、生方は『明治大正見聞史』(中公文庫)、本連載484『現代ユウモア全集』の『東京初上り』などの著者としてよく知られている。だがこの時代には大日本文明協会にも関わっていたことを教えてくれる。

明治大正見聞史 f:id:OdaMitsuo:20150210120518j:image:h110(『現代ユウモア全集』第5巻『生方敏郎集』)

この版元の大日本文明協会については、拙稿「市島春城と出版事業」(『古本探究』)や本連載152「草村北星と大日本文明協会」などで既述している。この『土耳其帝国』は明治四十一年から四十四年にかけて刊行された同叢書五十一巻のうちの第四十二回配本、第十九巻に当たるもので、あらためてこの翻訳シリーズの意義を認識させてくれた。やはり明治末から大正時代の重要な出版物として、大日本文明協会叢書を見直さなければならない。

古本探究


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