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2017-01-20 古本夜話621 棟田博『台児荘』

[] 古本夜話621 棟田博『台児荘』

火野葦平『麦と兵隊』と並ぶベストセラーとして、 棟田博『分隊長の手記』があり、その続々編というべき『台児荘』まで三作が刊行されている。

麦と兵隊分隊長の手記 f:id:OdaMitsuo:20161215113022j:image(『棟田博兵隊小説文庫』版)

上田広や日比野志朗と異なり、棟田は戦後に『拝啓天皇陛下様』講談社)を出し、渥美清主演で映画化されているし、また光人社から『棟田博兵隊小説文庫』全九巻などもの刊行もあるので、彼らよりは知名度が高いと思われる。それでもまずは『日本近代文学大事典』における立項を引いておく。

拝啓天皇陛下様(光人社NF文庫)  拝啓天皇陛下様

 棟田博 むねだひろし 明治四一・一一・五〜昭和六三・四・三〇(1908〜1988)小説家。岡山県の生れ。早大国文科中退。昭和一二年、支那事変勃発とともに八月応召。赤柴部隊の歩兵上等兵として、同年一二月済南入城。翌一三年五月徐州作戦に従って南下中、台児荘の戦闘で負傷し、九月帰還した。一四年、長谷川伸を中心とする雑誌「大衆文芸」に、『分隊長の手記』を連載(昭一四・三〜一七・五。のち新小説社刊)、好評を博した。済南作戦の出発から入城まで、一分隊長としての戦場体験を叙したもので、発刊後二ヵ月余に三〇版を記録し、前年発刊された火野葦平の『麦と兵隊』につぐベストセラーとなった。一七年同じく戦場での体験を素材とした『台児荘』で、第二回野間文芸奨励賞を受けた。(後略)

これを補足訂正しておくと、『分隊長の手記』は『昭和戦争文学全集』第二巻所収の一部しか読んでいないのだが、『続分隊長の手記』も含め、昭和十二年の支那事変における済南戦の始まり、その占領と入城までを描いているはずだ。そして『台児荘』において、そこでの同十三年四、五月の敗北を記録することになる。それを受けて徐州作戦が発せられ、この作戦に従軍し、火野は『麦と兵隊』を書いたのであり、刊行は逆だが、『分隊長の手記』三部作のほうが戦争の時間軸としては先で、棟田博は「徐州作戦に従って」いない。

続分隊長の手記

『分隊長の手記』は未見だけれど、『台児荘』は手元にある。版元は本連載428でふれた新小説社で、昭和十七年十一月初版八千部、同十二月改訂八千部と奥付に示されている。この「改訂」とは伏字処理を意味しているであろう。ただこの部数から考えると、『分隊長の手記』ほどではないにしても、それなりの売れ行きだとわかる。その奥付裏には「棟田博著作集」として、記述の二冊の他に、『続分隊長の手記』、小説集『中華理髪店』、小品と随筆集『背嚢』の五冊が並び、棟田博が当時の新小説社を担うベストセラー作家だったことをうかがわせている。

それもあってか、棟田は『台児荘』の「序章」において、『分隊長の手記』が中絶してしまったのは「否が応でも、台児荘戦線(筆を進めてゆかねばならないところへまえ来てしまつ」たからだと述べている。日本軍が敗れ、支那軍が勝ったとされる台児荘戦とは何であったのか。それが「激烈な戦闘」だったことは確かだが、何が起きていたのか。棟田はその山東省の最南端にある台児荘のプロフィルを次のように提出している。

 台児荘―といふ、何の変哲もない、支那の田舎の街の名を、かくまでに、忘れ得ず胸に肝にきざみこまれ彫りつけられようとは、いったい何処の誰が思つてゐたであらう。

 如何にも台児荘は、なんの変哲もない小さな街である。人口はやつと一万といふところであつた。

 たゞ、こゝが、往昔からの古い城市であつたことは、その城壁が話して聞かせて呉れる。この街には惜しいほどのまさに端厳たる城壁である。

またこの街は果てしなき大耕地に囲まれ、落花生、葉煙草、棉花、山繭などの膨大な農産物の集散地であり、そこが支那軍の大集団で埋まり、もはや「街」ではなく、「要塞」と化してしまった。そこに日本軍も押し寄せ、すさまじい攻防戦が展開されていくことになる。これが「台児荘戦」に他ならない。

棟田は『台児荘』において、『分隊長の手記』のような一人称の語りを採用せず、「台児荘戦」を取り巻く国際状況、支那や日本の動向を描くために、ポリフォニックな手法を導入することによって「激烈な戦闘」の背景を探索しているかのようだ。「序章」でも様々な人物たちが語られている。南京政府の軍事顧問として渡支していきたドイツの軍事的思想の唯一の正統的後継者ハンス・フォン・ゼークト、彼が蒋介石に与えた軍事的影響、国民党と共産党の抗日合作計画、スメドレーが伝える共産軍=第八路軍の実態、日本からの蒋政権大使館の消滅、支那軍の徐州への終結、ソ連からのオレルスキー新駐支大使の着任、満洲国承認と日支問題に関するヒトラーの演説、これらのすべてが複雑に絡み合い、乱反射するかたちで、「台児荘戦」へと投影され、「激烈な戦闘」をもたらしたのだといっているかのようだ。

そのようなポリフォニックな語りは続いていき、これまでの「棟さん分隊長」の視点からの手記ばかりでなく、伊賀上等兵の覚え書、秋山一等兵の日記、片山上等兵の手記なども重層的に挿入される。彼らは『分隊長の手記』でお馴染みの兵隊たちである。そして森本一等兵の戦死も伴う中で漢口に終結する英米独仏などの駐支大使たちの各国外交戦、国民党臨時全国大会=六全大会がほとんど伏字だらけで報告される。それに棟田の日本の兄への長い手紙もはさみこまれる。しかしそれでも終わりは近づいてくる。それは棟田の分隊を始めとする決死隊の選抜であった。中隊長はいう。「吾が中隊は光栄ある決死隊である。(中略)今更、われらは何も云う事はない。一死君国に殉ずるのみである。中隊長も死ぬる。みんなも死んで貰ひたい」と。そこから棟田分隊が中央小隊として夜の麦畑の中を前進していくと、支那軍の銃撃が始まり、突っ込んでいく中で、棟田は負傷し、部下たちに助け出される。ここで棟田は「こゝから先きを書きかけてみましたが、どうにも駄目なのです」と記し、「こゝで、この章のペンを擱きたいと思ふ」と書き、唐突に『台児荘』を閉じている。「激烈な戦闘」とは自らも負傷し、多くの戦死者を出したこの決死隊の闘いを主としてさしているのだろう。このクロージングはよく闘った者ほどそれを語らないということを告げているようにも思える。


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2017-01-17 古本夜話620 上田広『緑の城』

[] 古本夜話620 上田広『緑の城』

本連載618の日比野志朗のところで、日比野や火野葦平と並んで上田広も「帰還作家」として文名をあげたと書いておいた。上田も陣中小説『黄塵』(改造社、昭和十三年)や『建設戦記』(同、同十四年)が評判作となったとされる。それもあって、これまでずっと参照してきた『昭和戦争文学全集』第二巻に、前回の林芙美子『北岸部隊』、火野の『麦と兵隊』、日比野志朗の『呉淞クリーク』とともに、上田の『建設戦記』も収録されているのだろう。

f:id:OdaMitsuo:20161214111731j:image:h120『昭和戦争文学全集』第二巻(『昭和戦争文学全集』第二巻) 北岸部隊麦と兵隊 呉淞クリーク

上田のこの二冊は所持していないが、昭和十九年に新興亜社から刊行された『緑の城』は入手している。これは前述の二作の北支戦線を背景とするものではなく、サブタイトルに「バタアン・コレヒドール戦話集」とあるように、南方を舞台としている。奥付の著者紹介には「鉄道省教習所機械科卒業後鉄道省勤務。支那事変勃発と同時に出征。帰還後大東亜戦争陸軍報道班員として南方にて活躍す」と記されているので、「南方」での体験を小説・記録化したものと見なせよう。

その表紙はマニラ湾より見られたバタアン半島を描いた絵で装幀され、その装幀者の永井保も「陸軍報道班員としてバタアン半島総攻撃に参加、陸軍美術協会、新制作派協会展に出品、現在、文化奉公会々員」とある。ちょうど『北岸部隊』の林芙美子藤田嗣治が同行していたことを想起させる。またそのことを喚起するように、バタアンへの進軍、コレヒドールの風景、ボートに乗る著者などが口絵写真として掲載され、冒頭の三編からなる中編『緑の城』は「西岸部隊」、それに「敵前上陸」「要塞」が続いている。

『緑の城』において、年代は明記されていないけれど、この中編は昭和十七年の日本軍によるフィリピンのバタアン半島攻略とコレヒドール島占領の従軍記録であり、まずバタアン半島はまさにタイトルのように出現している。

 オロンガポ、マヤガホ、モロン、バガツクと、曲折に富んだ海岸の美しさは、いったいに多い椰子の林や、檳榔樹や、マンゴ樹や、バナナ畑に光る陽光によけいだ。したたらんばかりに緑葉が、陸地を覆うて風に見舞はれるとごに一枚一枚ひるがへりかがやくさまのあかるさ、あかるさにうづもれた静けさ。そのあかるさこそ、そのしずけさこそ……南方的で、そこがわれわれの戦場であるのを思ふと、皇軍出師の意義を考へるまでもなく、自らなる大らかさが得られるのである。サマツト、マリベレスに遁入した敵は、米比あはせて数万と云はれてゐるが、その数万の敵をも、われわれの兵力をも、いだき持つた自然を、ときにわれわれは客観視してよいであらう。

こうした「緑の城」のような「われわれの戦場」は携行した寒暖計の目盛を超えてしまう「暑熱」の中にあり、飲料水も不足し、密林が待ち受け、デング熱マラリアが蔓延するところだった。「弾丸に死すとも病に死すな」という戦場の言葉がこれほどリアルな場所もなかった。そのような中を西岸部隊は給水、衛生、兵站、鉄道、輓馬に携わる班や部隊とともに闘い、バタアン半島総指揮官キング少将率いるアメリカ、フィリピン軍は白旗を掲げるに至る。

その後に残されているのは難攻不落を誇るコレヒドール島要塞であり、「敵前上陸」を敢行し、地下道へと突入し、「要塞」を占拠することになる。コレヒドール島は「きわめて怪奇に映じ」、兵隊たちから「沈まざる軍艦」「鉄の鯨」などと呼ばれてきた。その実態が初めてここで描かれることになる。いってみれば、日本軍によるアメリカの軍要塞の占拠の光景が出現するのである。破壊された岸壁のトーチが、銃身の折れた機関銃と米兵の死体、無数の弾痕をとどめて横たわる軍用道路、これも完璧に破壊された島最大の要塞砲と弾薬庫、地下道で捕虜となった一万二、三千人の米兵たち。その地下道の奥には炊事場、食堂、洗面所、便所まであり、さらに数ヵ月分に当たる食糧が積み上げられた糧秣倉庫、負傷兵、若いアメリカ人やフィリピン人看護婦のいる病院、放送室、冷房装置を備えた司令室まであった。

そしてコレヒドール島のアメリカ軍本部にも向かう。

 南に面した島の最高地をトップ・ヒルと呼んでゐる。そこには大きな兵舎があり、附近にも附属建物が多い。何れも鉄筋コンクリートでかためられた堅固なものだがわが爆撃、砲撃のため原形を失つてゐる。その兵舎の中央には、前日まで、星条旗がかかげられてあつたのだが、いまは輝かしき日章旗が、東海を照らす日輪となつて、ヘンぽんとひるがへつてゐる。人気のない兵舎内へはいつてみると、(中略)椅子もテーブルもひつくりかへり、トランクの中から、軍人が持つてゐたと思へない服が、半ばひきだされたままになつてゐるのも、何かあはれを感じさせる。婦人の衣服らしいものも相当に見えて、彼らの変つた陣中生活がうかがへる。兵舎の各部屋は、大半破壊されてゐるのだが、玉台、ピンポン台等をもつ娯楽室なども見られた。

このような兵舎の光景は上田からすれば、「日章旗」から「星条旗」を表象し、そのことで「何かのあはれを感じさせ」、「彼らの変つた陣中生活」が浮かんでくることになるのだが、これこそは日支事変の従軍小説や記録に見られなかったもののように思われる。

私は繰り返し、太平洋戦争とは当時の産業構造から見て、日本=農耕社会とアメリカ=消費社会の闘いだったと述べてきたが、このシーンこそ、それを象徴的に浮かび上がらせているように見える。この兵舎に見られる軍人らしくない服、女性兵士も含められていることを示す婦人衣服、娯楽室の存在こそは「あはれ」でも「変つた陣中生活」などではなく、前述した食糧の詰まった糧秣倉庫と同様に、消費社会の軍隊にとっては必然的な生活と装備だったのである。

それらばかりか、密林の島はトップ・ヒルから中央部の低地まで電車の軌道が走り、電車が往復し、水道設備も完備され、コンクリートで固められたテニスコートの下が貯水池になっていたのである。これが日本の兵隊たちから見て、「コレヒドール島そのものの実体が、きわめて怪奇に映じた」理由となろう。ここでは言及しなかったが、あの「バターン死の行進」もまた、このような「日章旗」と「星条旗」の「陣中生活」ギャップが生じさせたとも考えられるのである。

またこれに書いてから、ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の『コレヒドール戦記』という映画があったことを思い出した。どこかにあったはずなので、あらためて見ることにしよう。

コレヒドール戦記


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2017-01-15 古本夜話619 林芙美子『北岸部隊』

[] 古本夜話619 林芙美子『北岸部隊』

これは小説でないけれど、前回の日比野士朗『呉淞クリーク』と刊行を同じくして、やはり昭和十四年に中央公論社から林芙美子『北岸部隊』が出版されている。

呉淞クリーク 北岸部隊

昭和十三年八月の支那事変における漢口攻略戦に伴い、林は従軍ペン部隊の一員として上海に派遣され、北岸部隊とともに漢口に至る。その九月十九人から十月二十八日にかけての四十日間の日記がこの『北岸部隊』である。この日記形式はその前年に発表された火野葦平『麦と兵隊』のかたちを踏襲している。それは火野の場合、「陣中小説」と称せられたが、林にしてみれば、そのままの従軍日記として報告せざるをえない状況の中にあったと思われる。そのようにして『北岸部隊』のプレリュードともいえる『戦線』朝日新聞社)も十三年末に刊行している。

麦と兵隊 戦線(中公文庫版)

それと同時に、この『北岸部隊』を従軍日記として補足し、印象づけているのは表紙写真及び十六枚に及ぶ口絵写真である。とりわけ表紙写真には帆船と河を背景にして、はしけらしき舟に乗っている林の姿が掲載されている。これは『林芙美子』(「日本文学アルバム」20、筑摩書房)などで確認すると、長江武穴での写真とされる。また隣には一人の男の姿も写っていて、これは言及を見出せないけれど、『北岸部隊』に名前が出てくる藤田嗣治だと見て間違いないだろう。先の『林芙美子』の中に、「中支戦線揚子江を九江へ下る輸送船(左藤田嗣治)」というキャプションが付された写真があり、そこに映っている藤田と表紙写真の姿はまったく重なるものだからだ。『北岸部隊』にも九江に出て武穴に向かうことが記されているので、その際に藤田と同行したのであろう。彼も従軍画家として派遣されていたのである。

林は九江で佐藤春夫杉山平助吉屋信子菊池寛小島政二郎吉川英治、浜本浩たちに会っている。林と異なり、彼らは海軍から派遣されてきたのである。『日本全史』講談社)の昭和十三年のところに彼らの従軍出発写真などを見ることができる。おそらく当時の新聞や雑誌を通じて広範に伝播したもので、従軍アイコンとしての文学者たちの姿が伝わってくる。その他にも、林は深田久彌、詩人の月原橙一郎、石川達三立野信之、片岡鉄平、西条八十、滝井孝作などとも会っている。

日本全史

石川は昭和十二年に中央公論社特派員として、南京攻囲戦に従軍し、『中央公論』に『生きてゐる兵隊』を発表し、発禁処分を受けたばかりであった。滝井もこの記録を「戦場風景」として残しているが、当時は発表されず、戦後の二十五年になって『群像』に掲載された。なお「戦場風景」は『北岸部隊』と同様に、『昭和戦争文学全集』第二巻『生きてゐる兵隊』同三巻に収録されている。また藤田のほうも、この漢口攻略にまつわる絵を残しているのだろうか。

生きている兵隊 中国への進撃(『昭和戦争文学全集』第二巻、『中国への進撃』)中国への進撃(第三巻、『果てしなき中国戦線』)

林は揚子江北岸部隊と行動をともにする。これは九州部隊であるので、彼女は生れ故郷の兵隊と一緒にいたいと思ったのだ。それは彼女の撮った口絵写真にも表われ、北岸部隊と兵隊と林を中心にして構成されているけれど、そこは戦場や戦闘の風景は映っていない。それは林が『北岸部隊』の中で描いている日常の生活を彷彿とさせる。

しかし写真にも見えている部隊のトラックで、広済から漢口へと近づくと、支那兵士たちの死体を目撃し、野砲の音や散弾の破裂音を聞くようになる。その中をさらに進んでいくと、まさに戦場そのものの光景を呈してくる。漢口まで二十里の地点である。

 夜、七時頃新洲城外へ着く。敵も味方も入りみだれの状態で、暗い城内ではさかんに銃声の音がしてゐた。時々流弾がひゆうひゆう飛んで来る。私たちはすぐ棉畑のなかへ降りてアンテナを張る。あつちもこつちも、支那兵の死骸だらけだ。今日はこの死骸達と同居で一夜をあかすことになる。(中略)棉畑では、すぐ篝火のやうに、炎々と焚火が燃え始め、炎が、あつちでもこつちでも、夜討ちのやうに美しく火の粉を散らしてゐる。

火野が『麦と兵隊』で描いたのはどこまでも続く一面の麦畑だったが、漢口周辺では棉畑とうことになり、その「見渡すかぎりの一面の棉畑」で部隊は露営するのだ。そして林は書きつけている。

 私は思ふのだ。

 内地へ再び戻れることがあつても、私は、この戦場の美しさ、残酷さを本当に書ける自信はないと考へる。残酷であり、また、崇高であり、高慢である、この戦場の物語を、実践に参加した兵隊のやうには書けないのだ。だけど、そのくせ妙になにか書きつけたい気持は何時も噴きあがり、私の頭の中はパリパリと音がしそうなのだ。

ここに従軍小説や陣中小説、従軍ルポルタージュにまつわる共通のトーンがある。だがこのような感慨は敗戦によって深化し、突き抜ける地平へと向かったように思える。それは戦後に書かれた『浮雲』に表出している。ちなみに『浮雲』本連載608の『風雪』に連載され、昭和二十六年に同607の六興出版社から刊行されている。

浮雲

これこそは敗戦小説そのものであり、冒頭においてヒロインのゆき子は、敗戦によって仏印から日本へ帰還してきた女として登場してくる。それは従軍を終え、内地へと戻ってきた林の姿に重なるものでもある。そして最後にゆき子は屋久島へと逃れ、熱病で死んでいく。彼女のその生涯こそは、もうひとつの「戦場の物語」に他ならないことを告げているかのようだ。

それとともに成瀬己喜男の映画『浮雲』における屋久島の雨のシーンが思い出されるが、『北岸部隊』も「暗い夜明けだ。雨が降つている」から始まり、雨の記述に満ちている。これは単にこの時期における中国が雨期だったことによっているのだろうか。

浮雲

それとともにもうひとつの映画が思い出される。それは三池崇史監督、哀川翔主演『極道黒社会/RAINY DOG』である。この映画は台湾を舞台とし、タイトルに示されているように、いつも雨が振っているシーンに覆われていた。これも雨期だったからであろうか。それともかつて植民地と戦場の記憶によってもたらされたものであるのだろうか。

極道黒社会/RAINY DOG


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2017-01-12 古本夜話618 日比野士朗『呉淞クリーク』と杉森久英『大政翼賛会

[] 古本夜話618 日比野士朗『呉淞クリーク』と杉森久英『大政翼賛会前後』

前々回、『猶太人ジユス』を取り上げたこともあり、同じく中央公論社の小説、それに関連する何編かをはさんでおきたい。それは昨年の十月上旬に刊行した北村正之、河津一哉『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(「出版人に聞く」シリーズ20、論創社)に関連して、大政翼賛会を調べ、本連載593でもその前身ともいえる昭和研究会についても書いたからだ。

f:id:OdaMitsuo:20161206102025j:image:h110 「暮しの手帖」と花森安治の素顔

昭和十四年に中央公論社から刊行された日比野士朗の『呉淞クリーク』 という一冊がある。これは同十二年の支那事変における上海作戦に加わった体験をベースとする四編からなる連作集で、その中心を占めるタイトルと同じ中編「呉淞クリーク」は、集英社の『昭和戦争文学全集』の第二巻『中国への進撃』(昭和三十九年)にも収録されている。その編集委員橋川文三が編んだ巻末の「年表」には、「9・25/第一〇一師団呉淞クリーク先頭に参加。10・6/呉淞クリーク強行渡河成功(津田部隊第三大隊。10・11/加納部隊長(一〇一師団所属戦死。)」とある。まさにこの戦闘を「呉淞クリーク」は作品化したことになる。なお注釈を加えておくと、「呉淞(ウースン)」は上海近郊の地名で、「クリーク」とは英語のcreekを意味し、中国の平野部などの多い排水、灌漑、交通を目的とした小運河をさす。

呉淞クリーク(中公文庫) 中国への進撃

B6判並製二八六ページの中央公論社版『呉淞クリーク』を購入した理由は、その斬新な装丁に少しばかり魅せられたからだ。表紙の一番上の部分に横書きタイトルが置かれ、左端に突撃するかのような兵士の姿、その下の部分には背の低い茂みが描かれ、その間は広く空白となっていた。装丁、装画は誰かと思い、見てみると鳥海青児とあった。二人の関係は定かでなないが、日比野は「後書」で鳥海を「畏兄」と呼んでいて、さらにそこには中央公論社の青木滋、後の青地晨を通じて上梓に至った経緯も記されていた。また巻末には林芙美子『北岸部隊』丹羽文雄『還らぬ中隊』などが掲載され、支那事変従軍文学も台頭してきているとわかる。

北岸部隊

日比野は『日本近代文学大事典』に立項が次のように見えていた。明治三十六年東京生れ、八高中退、昭和九年河北新報に入社し、東京支社に勤務中の十二年に支那事変勃発とともに応召。呉淞クリーク渡河戦に従い、負傷して内地送還となり、除隊後、創作集『呉淞クリーク』で池谷信三郎賞を受賞。火野葦平、上田広などとともに「帰還作家」として文名を挙げ、一七年には大政翼賛会文化部副部長となる。

日本近代文学大事典

これによって、先の『中国への進撃』に林の『北岸部隊』のみならず、火野の『麦と兵隊』、上田広の『建設戦記』が揃って収録されている理由を知らされるのである。これらの作品にしても、日比野の『呉淞クリーク』にしても、兵士と従軍者の側から見た戦争の日常を描いた戦記文学と称すべきものだが、火野の『麦と兵隊』とともに戦記文学の範を示したのではないだろうか。

麦と兵隊(改造社版)

その日比野が杉森久英『大政翼賛会前後』文藝春秋、後ちくま文庫)の中に出てくる。

大政翼賛会前後(ちくま文庫

 文化部の副部長の日比野士朗氏とも、私は旧知だった。日比野氏はその数年前「呉淞クリーク」という戦争小説で文壇へ出て、まだ新進作家というところだったが、岸田国士氏が文化部長になったとき、副部長に迎えられたものであった。愛想のいい人で、ときどき廊下で会うと、立ち話をしたが、私と深いつきあいはなかった。

杉森は中央公論社で、日比野と知り合っていたのだろう。そして後にもう一ヵ所、「日比野副部長」の名前を見出せる。それは十七年に文化部長が岸田からドイツ文学者の高橋健二に代わった頃で、同じ副部長として風間道太郎の名前も挙げられていた。風間は高橋や尾崎秀実と一高、東大を通じて同窓であり、彼は戦後になって、『尾崎秀実伝』法政大学出版局)を刊行している。風間のことはともかく、杉森は興亜局企画部から文化部へ移ったのとほとんど入れ替わるように、日比野は副部長を辞し、その後任は第一書房の『セルパン』の元編集長の福田清人だった。

尾崎秀実伝

しかしそこで大政翼賛会における日比野の姿は消えてしまう。その後の創作集として『梅の宿』(新太陽社)や評論集『戦ふ文化』(豊国社)などがあるようだが、未見であり、戦後は筆を折ったと伝えられている。私にしても『呉淞クリーク』を入手していなければ、文学者を含めて、多くの出版関係者が登場する『大政翼賛会前後』において、このように日比野のことを気にとめることはなかったであろう。杉森以外の著作においても、日比野への言及はなかなか見つからないと思われるので、ここで取り上げてみた。

それはさておき、大政翼賛会だが、これは本連載593で既述したように、近衛文麿シンクタンク的な昭和研究会をその前身とし、発展解消したものとされるけれど、酒井三郎の昭和研究会のような、実際にその内部にいた人物の詳細な記録は出現しておらず、杉森の著作が残された証言として貴重な存在であり続けている。もっともこの『大政翼賛会前後』というタイトルの「前後」に示されているように、前半が中央公論社、後半が大政翼賛会時代の記録ではあるのだが、そこで教えられたのは青少年読書運動なるものも大政翼賛会の文化事業だったという事実であった。これは本連載595でも少しふれているが、おそらくここに戦後の様々な読書運動やイベントも端を発しているのだろう。

それから大政翼賛会の職員規模は二百人から三百人規模だったとされる。しかし調べてみると、その傘下には実践部隊としての大日本翼賛壮年団、各都道府県支部を通じての町内会や部落会、さらには隣組にまで、その上意下達的なシステムが浸透していた。また大日本産業報国会、農業報国連盟、産業報国会、大日本婦人会、日本海運報国会、大日本青少年団という官製国民運動六団体も傘下組織として統合していたのである。

杉森も書いているように、また『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』でも言及しているように、花森はこのような大政翼賛会において、宣伝部の副部長を務めていた。同様に大政翼賛会に籍を置いていたのは、やはり戦後に『平凡』を創刊することになる岩堀喜之助と清水達夫であった。この三人の他にも、戦後を迎え、大政翼賛会から出版界に入っていった、あるいは戻っていった人たちが多くいたにちがいない。しかし彼らがそこでどのような仕事をしていたのかは、ほとんど明らかにされていない。


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2017-01-10 古本夜話617 ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』

[] 古本夜話617 ウージェーヌ・シュー『さまよえるユダヤ人』

前回の谷譲次訳『猶太人ジユス』に「不思議な異人」や「通り魔のやうな怪人」のメタファーとして、「漂泊(さまよ)へる猶太人」という言葉が何度も使われていた。これは原文を確認していないけれど、ウージェーヌ・シューの『さまよえるユダヤ人』(小林龍雄訳、角川文庫)の原文タイトル“Le Juit Errant”がそのまま引かれているのではないだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20161206102025j:image:h120 f:id:OdaMitsuo:20161208150403j:image:h120 Le Juit Errant

シューは新聞に十九世紀社会小説の典型とされる『パリの秘密』(江口清訳、集英社)を書き、新聞小説流行のきっかけとなった。続けて一八四四年から四五年にかけて書かれた『さまよえるユダヤ人』はそれ以上の成功を収めたと伝えられる。そのことからすれば、『さまよえるユダヤ人』はタイトルからして、ひとつのユダヤ人のステレオタイプなイメージを造型することに寄与した大衆小説と見なせるだろう。『猶太人ジユス』は一九二五年の作品であるから、それは欧米でも半世紀以上にわたって広範に伝播したユダヤ人伝説と絡み合っている。

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日本でも大正八年に『青銅のメダル』(福岡雄川訳、白水社)として翻訳されているが、こちらは未見である。しかし本連載でも繰り返し書いてきたように、日露戦争関係者たちがユダヤ問題に関する伝説を展開していった時期における翻訳なので、白水社版にも影響を与えたと思われる。角川文庫版の小林訳は戦後の昭和二十六年に刊行されているけれど、この時代は第一書房長谷川巳之吉角川書店の企画顧問のような立場にあったことからすれば、彼のルートを通じて上梓に至ったのかもしれない。

それはさておき、『さまよえるユダヤ人』は物語も登場人物も錯綜しているので、そのコアを要約紹介してみる。この小説は一八三一年から始まっているが、物語の発端は一六八二年の地方のカトリック司祭からもたらされた覚書に求められる。カトリックの頑強な敵である新教徒=プロテスタントのレーヌポンは反宗教的放蕩から財産が没収の危険にさらされ、カトリックへと改宗した。ところがそれは不敬な計略と見なされ、ルイ十四世の命により、レーヌポンの財産は没収され、彼自身も無期懲役に処せられたけれど、自殺によってその罪を免れた。ルイ十四世はカトリック教会のエスイタ会にその没収財産の利用を許した。しかしその財産からはパリの館と五万エキューの金貨が除かれ、館はカトリック信者の友人に譲渡され、金貨については誰の手に預けられたのか定かでないが、いずれも百五十年間保管され、金貨は利殖を計った上で、レーヌポンの子孫の間で分配されることになっていた。

その一方で、レーヌポンの家族たちは新教徒に対する禁令からフランスを追われ、ヨーロッパ中に四散し、後裔として残ったものは、様々な社会階級に属する七人であった。これらの遺産継承者たちは百五十年後の一八三二年二月十三日に、配られていたその日付を刻んだ青銅メダルを持参し、パリのその館に集合する手はずになっていた。カソリック側が四散した家族を百五十年間にわたって監視してきたのは、その年月によって遺産もまた莫大なものになったと考えられてきたからだ。貴種流離譚的登場人物たちと隠された遺産や財宝が、大衆小説の主たる物語コードであることはいうまでもないだろう。

『さまよえるユダヤ人』は物語が展開するにつれて、青銅のメダルを有するレーヌポンの遺産継承者たち、それらを追うカトリックのエスイタ会関係者とに分類され、これもパリの百五十年間保管された館における大団円へと向かっていく。それはユダヤ人が代々管理してきたのである。

『さまよえるユダヤ人』はカトリックと新教徒の後裔たちの間における財産の争奪戦の物語であるのだが、一方において、この財産をめぐる物語にはその利殖に精通したサミュエルというユダヤ人一家が併走していた。一六七〇年頃、レーヌポンはポルトガル旅行中に、宗教裁判で火あぶりの刑に処せられたユダヤ人を助けたことがあった。それが現在のサミュエルの祖父のイザックで、そのことをきっかけにして、フランスで莫大な財産を持つレーヌポンは、リスボンで両替屋を営んでいたイザックに財産管理をも依頼した。当時においてもユダヤ人排斥と不信は高まるばかりだったので、イザックは生命を救ってくれたことと自分を信頼してくれたことに二重に感激し、恩人のために自分の一生を捧げる決意をした。

ところがレーヌポンは迫害と破産に追いやられ、自殺してしまった。その際に彼はイザックに五万エキューの金貨を託し、それが代々受け継がれ、十七世紀から十九世紀へと橋渡しの役を果たした。そのかたわらで、サミュエル一族は最初に為替手形を発明し、十八世紀の終わり頃にはほとんど一手に両替や銀行業務に携わっていたので、レーヌポンの残した金貨もそこでの安全な利殖で、巨大な投資へと成長し、莫大な資本の増加が実現し、何と二億フランを超えるまでになっていたのである。

だから実際にはかつての「さまよえるユダヤ人」が金融資本家として成長することで、新教徒レーヌポンの「さまよえる遺産継承者たち」を助け、カトリック教会を敗北させる物語がシューの『さまよえるユダヤ人』だといっていい。だがそのタイトルは『猶太人ジユス』に見られたように、ステレオタイプ化され、十九世紀半ばの金融資本を牛耳るユダヤ人のイメージを確立することにつながっていったのかもしれない。

バブル経済と高度成長期ともいえる第二帝政期も始まろうとしていたし、そこにはカトリックやミスティズムの奇妙な動きがあったことは、ゾラの『プラッサンの征服』『夢想』(いずれも拙訳、論創社)などにもうかがわれる。それはおそらくドレフュス事件に象徴されるユダヤ人問題も絡んで、普仏戦争後も続いていたにちがいない。

プラッサンの征服 夢想

なおさらに付け加えておけば、エマニュエル・トッドが『シャルリとは誰か?』堀茂樹訳、文春新書)において、カトリシズムと反ユダヤ問題の関係にふれ、それがイスラム恐怖性へともリンクしていることを指摘している。

シャルリとは誰か?


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