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2012-06-15 古本夜話209 金鈴社と矢野文夫訳『悪の華』

[] 古本夜話209 金鈴社と矢野文夫訳『悪の華

私も『悪の華』は金園社の、矢野文夫のペンネームである北上二郎訳から入ったのであるが、金園社は所謂実用書出版社に属し、ボードレールの詩集の版元として似つかわしくなかった。しかし金園社のおそらく優に千点は超えるであろう、あまりにも散文的な実用書のラインナップと多くの著者名を見ているうちに、金園社が様々な人々にとってのひとつのアジールであることに気づいた。だからこそ『悪の華』が金園社から戦後になって刊行されたことも、セオリーにかなっていたことになる。しかしこれらの事情と経緯は戦後編にて本格的に言及するつもりなので、ここではこれ以上立ち入らない。

f:id:OdaMitsuo:20120612134730j:image:h120(北上二郎訳、創人社版)悪の華堀口大學訳、新潮社版)


だがひとつだけ『悪の華』の出版事情に関して付け加えておくと、昭和十三年に出版を担った金鈴社は金園社の前身ゆえに、戦前戦後と出版社を同じくして刊行されたのである。金鈴社は特価本や見切本を手がけるマツキ書店の出版部門で、奥付に記された発行者の松本玉之助は博文館の倉庫係を務め、残本整理に従事していたことから、月遅れ雑誌販売の権利を得て、独立に至ったと思われる。そのマツキ書店に、同じく月遅れ雑誌や赤本の取次と出版を兼ねていた春江堂の久保木春吉が養子に入り、戦後になって金鈴社を金園社と改称し、全国出版物卸商業協同組合初代理事長に就任している。そのような事実を背景にして『悪の華』は出版されてきたといえる。

しかしこれらのことは『悪の華』出版史であって、その前史はいかなるものであったのか、あるいは矢野の経歴に関しても、それらは前回もふれた舷灯社の『矢野文夫芸術論集』所収の「全訳『悪の華』の思い出」や「年譜」に目を通すまでは詳らかでなかった。「年譜」によれば、矢野は明治三十四年神奈川県小田原町に生まれ、一家で上京、本籍地の岩手県一関町への帰郷に伴い、一関中学を卒業後、大正八年早稲田大学文学部予科に入学するが、後に中退し、読売新聞社や婦女界社に勤める。そのかたわらで、いくつかのリトルマガジンに詩論や美術評論を寄稿し、昭和三年に詩集『鴉片の夜』(交蘭社)を刊行し、五年に書肆邦画荘を立ち上げ、哲学芸術書を出版し、九年に『悪の華』全訳と『ボオドレエル研究』刊行に至っている。その時矢野は三十三歳で、「年譜」はまだ平成七年の九十四歳での死まで続いているが、ここで止め、『悪の華』に関してたどってみる。

大正十一年に矢野は一関町の天主公教会に通い、その神父にしてフランス語の師父であり、「永久に忘るべからざるマトン氏」からボオドレエルの生涯を教えられ、一巻の『悪の華』を『聖書』として手離すことがなかった。そして既述したように、高橋新吉の勧めと長谷川玖一郎の助言を得て、神楽坂の芸術倶楽部というぼろアパートに引きこもり、飢えに追われ、虚無と放浪と無頼の混沌とした環境の中で完成に至ったという。その日本の自由詩に範をとり、美辞麗句を排除し、素朴さを重んじ、詩によっては童謡的な翻訳について、『悪の華』の「後書」で、矢野は次のように述べている。

 しかし私の語学は余りにも貧しく、才藻余りにも乏しい。世には数段の優れたるボオドレエル学者あり、万巻の書冊の間に埋れて研讃(ママ)倦むなき研究家は、枚挙に暇がない。恐らくは、私の暴挙を諸氏は、ひそかに嘲笑ふであらう。もとより私は、それを覚悟している。たゞ私の内心の止むなき熱情と崇拝が、この大業を敢てせしめた。貧しい巷の詩人として「悪の華」の最初の全訳を、例え曲りなりにも成就し得たことを、わが孤独の慰めとしやう。(後略)

そして「全訳『悪の華』の思い出」には「手垢で表紙などが、よれよれになっていた」と写真でもわかる Calmann-Lévy版原書、及び翻訳に使用した白水社『模範仏和大辞典』(初版大正十年)の書影が掲載され、とりわけ後者は私もゾラの翻訳において参照しているので、感慨を覚えた。この小さな辞書を通じて、どれだけ多くのフランス語の書物が日本語へと翻訳されてきたことであろうか。

それらはともかく、「後書」や「思い出」には明治文学談話会の山室静土方定一への謝辞があり、『悪の華』版元の耕進社は小さな印刷所を兼ね、明治文学談話会の機関紙の発行元で、山室が経営者の須合慶治に紹介したことによって、全訳出版が実現の運びとなったのである。彼らの名前の他にも、林達夫や小松清や三木露風、画家の長谷川利行や野村守夫、矢野が『ボオドレエル研究』に収録することになる論稿を寄せていた『詩と音楽』『詩聖』『日本詩人』『近代風景』などのリトルマガジンも挙げられ、大正から昭和前半にかけて、マイナーポエットといっていい矢野が置かれていた文化環境と人脈が浮かんでくる。そうした一端と、矢野が金鈴社に象徴される出版環境へと移っていった経緯は、昭和四十九年に美術選書の一冊として刊行された『長谷川利行』の中に描かれ、その後の矢野の軌跡を暗示させているように思える。

長谷川利行


だが矢野の人生は『悪の華』全訳刊行後、まだ六十年もあったわけで、書肆邦画荘、出版物、いくつもの創造雑誌や新聞、画家としての矢野茫土など、詩人や作家としてばかりでなく、多くの謎が秘められ、それらはまだ明らかになっていない。

数年前に所用で一関に出かけ、一泊した朝に、宿泊したホテルからさほど遠くない天主公教会を訪ねたことがあった。もちろん大正時代の教会とは異なっていたけれど、ここで矢野がフランス人神父からフランス語とボオドレエルを教えられたかと考えると、感無量の思いに捉われた。矢野が述べているように、大正期は戦争の暗雲がやや遠のき、大正デモクラシーの不思議な明るさの後で、関東大震災による暗さと憂愁がもたらされた時代でもあった。矢野がボオドレエルを知った翌年に関東大震災が起き、『悪の華』は大地震の到来とパラレルに読まれていったことになる。

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