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古本夜話221 佐々木邦、長隆舎、山縣悌三郎の内外出版協会

 浜松の時代舎で東亜堂の佐々木邦訳『全訳ドン・キホーテ』を見つけたのであるが、その同じ棚には三十冊以上の佐々木の戦前の小説が並んでいて壮観であった。そのうちの一冊も購入してきたので、その本のことも書いておこう。それは昭和十六年に長隆舎書店から出された『変人伝』で、『佐々木邦全集』補巻5所収の「著作年表」に掲載はなかった。すべてを確かめたわけではないけれど、時代舎の棚にあった佐々木の小説は「著作年表」に挙げられていないものが多くあったと思われる。それを裏付けるかのように、「著作年表」作成者の岡保生も「佐々木邦の著作は、翻訳もふくめて、きわめて多数にのぼり、未調査に終わった部分が少なくない」と断わりが入っている。

 私が『変人伝』を買い求めたのは本連載14で記述しているが、この長隆舎が大正時代に村山知義たちのリトルマガジン『マヴォ』、村山の最初の著作『現在の芸術と未来の芸術』、萩原恭次郎の『死刑宣告』の版元だったからである。あの菊判の、大正末のアヴァンギャルド運動の生々しさを伝えているかのような、村山たちによる造本の『死刑宣告』と比べると、『変人伝』は四六判並製の粗末な体裁で、同じ出版社の本とは思えず、池部釣による表紙絵がかろうじて救いになっている印象を与える。発行者は畑郁三郎とあるから、大正時代の発行者畑鋭三郎の縁戚者と見て間違いないだろう。奥付広告には矢田挿雲、村松梢風、鷲尾雨工などの時代小説が並び、かつての前衛出版社の面影はなく、大衆文学を刊行する凡庸な版元へと変貌することによって、この時代までの二十年近くをサバイバルしてきたのであろう。

死刑宣告 (愛蔵版詩集シリーズ)

 しかしもう一度佐々木の「著作年表」に戻ってみると、昭和に入ってから佐々木はほとんど講談社や主婦之友社を始めとする大手出版社の雑誌に作品を発表し、全集や単行本出版も明らかにそれに準じていた。ところが戦時下に入り、長隆舎から『変人伝』が出た昭和十六年から、東成社、太白書房、大都書房、輝文堂書房、文松堂、白林書房といった知名度の低い小出版社からの刊行が多くなり、それは戦後を迎えても半ば存続し、太平洋出版社、東方社、駿河台書房、東京文芸社なども新たに顔を見せている。これらは貸本屋市場に向けた出版を志向していた版元であり、佐々木の人気は大正後半から昭和十年代初期までがピークで、それ以後は衰退し、昭和四十年代になって、佐々木が作品を連載した『少年倶楽部』の復刻『少年倶楽部名作選』が出され、四十九年に講談社から『佐々木邦全集』が企画されて復権するまでは、忘れ去られようとした作家の位置にあったのではないだろうか。それは佐々木だけでなく、ユーモア文学の受容と正味期限、もしくは戦時下におけるユーモア文学の問題とも絡んでいるのかもしれない。そのように考えてみると、ふとロベルト・ベニーニが監督・脚本・主演を兼ねた『ライフ・イズ・ビューティフル』が思い出される。

ライフ・イズ・ビューティフル (角川文庫)

 佐々木文学の受容のことでいえば、英語教師を務めながらマーク・トウェインなどを訳し、自らもユーモア小説を書くに至り、大正期自由主義を代表する大衆作家となったともされている。その彼の明治末期の『いたづら小僧日記』に始まるデビュー時に寄り添っていたのはずっと内外出版協会であり、「著作年表」を見ても翻訳も含めて十冊に及んでいる。

 内外出版協会は山縣悌三郎によって明治二十一年に創刊された『少年園』営業部の後身である。『少年園』は投稿も取り入れた近代少年雑誌の源流にして画期的なものとされ、その投稿部門を『少年文庫』とし、同二十八年に『文庫』と改題し、『少年園』を廃刊、『青年文』を創刊した機会を得て、内外出版協会と称することになった。

 幸いにして内外出版協会については山縣悌三郎自伝として『児孫の為めに余の生涯を語る』(弘隆社、一九八七年)が刊行されたことで、そのかなりの詳細が明らかになっている。山縣によれば、『文庫』は小島烏水や河合酔名などが編集に携わり、文壇新人の登竜門として、寄稿家より後年名を成せる人々が多く出て、出版も「汎く文学、伝記、修養、家庭、人生問題等に関する図書を発行すること二百余種の多きに及んだ」とされる。

山縣は安政五年に近江に生まれ、明治五年に上京し、東京高師に学び、愛媛師範校長となり、文部省御用掛として教科書の編集の仕事を経て、教育学や博物学の先達として、『少年園』を創刊したことになる。そのような山縣と内外出版協会の性格から、同じく教職にあった佐々木が投稿者の一人だったと考えても不自然ではない。しかし残念なことに山縣の自伝に佐々木のことは出てこない。だが出版点数二百冊余のうちの少なくとも十冊を佐々木の著書が占めていることからすれば、意外な気もするが、それは経営者の山縣というよりも、編集者と佐々木の関係が強かったからかもしれない。

 しかしそのような山縣と内外出版協会であっても、出版事業は過酷であり、自伝は明治四十四年の経営悪化、大正三年の内外出版協会の終焉を伝えている。それはリアルこの上ないレポートとなっていて、出版社の終焉のひとつの典型であったと思われる。「是れより以後の事、余又多く言ふを欲せず。噫、内外出版協会玆に其の終焉を告げぬ」と山縣は記している。内外出版協会の「以後の事」は次回に論じるつもりだ。

こうした内外出版協会の経営悪化と終焉によって、佐々木は出版のホームグラウンドを失いつつあった。だが大正時代の新たな出版社の台頭、すなわち講談社、主婦之友社、実業之日本社などの新興雑誌出版社がめざましい成長をとげようとしていた。そのことによって佐々木は新たなホームグラウンドを得て、大正期におけるユーモア文学を開花させていったと思われる。その佐々木の「以後の事」は最初に述べたとおりだ。

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