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混住社会論2 桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)

OUT 上 OUT 下



桐野夏生『OUT』を最初に取り上げたのは、この作品が拙著『〈郊外〉の誕生と死』青弓社)の上梓とほぼ同時に刊行されていることに加え、私が本連載の「序」で示した八〇年代に顕著になり、九〇年代に入って定着した郊外の風景やファクターが出揃い、『OUT』という物語のフレームとバックヤードを形成しているからである。それはまったく同世代の桐野と私が同じ問題意識を共有しながら、やはり同じ時期に郊外をテーマとする小説と評論を書き続けていたことを意味していよう。
〈郊外〉の誕生と死

その事実はともかく、桐野の『OUT』において前提となっているのは、タイトルにこめられているように、まさに郊外が「OUT」の空間を表象していることだ。この英語の副詞の「OUT」は多くの意味を含んでいるにしても、ここでは「外れて」「狂って」「間違って」といった訳語と解釈を採用すべきだろうし、それは物語と登場人物たちにもそのまま当てはまるものである。それは九〇年代にはいって起きたバブル経済の崩壊、阪神・淡路大震災オウム真理教事件なども否応なく反映されていると見なせるだろう。

そして『OUT』は「駐車場には、約束の時間よりも早めに着いた」と書き出されていくのだが、その冒頭の文章に続いて、まず登場人物たちが働く弁当工場が出現する。それは次のように説明されている。

 弁当工場は武蔵村山市のほぼ中央、広大な自動車工場の灰色の塀が続く道に面してぽつんと立っている。周囲は埃っぽい畑地と小さな自動車整備工場群。空のよく見える平べったい土地だ。工場の駐車場はさらにそこから徒歩で三分、荒涼とした廃工場の先にある。

物語の進行につれて、この何気ない叙述と描写の中に、「弁当工場」が物語の重要な象徴的トポスとして、すでに提出されていることに気づかされる。

それゆえに引用部分に表出している固有名詞に注釈を施しておこう。

「弁当工場」はコンビニのためのもので、昼夜稼働し、深夜でも「不夜城」のように蛍光灯の照明を青白く輝かせ、聳えていた。百人近い夜勤者は三分の一がブラジル人、その他のほとんどは四十代、五十代の主婦のパートだった。業態とすれば、コンビニをめぐって形成された協力企業の工場、コンビニコングロマリットの一社と見なすべきだろう。

それは武蔵村山市に位置している。1996年版『民力』朝日新聞社)によれば、「武蔵村山都市圏」は自動車などの工業とみかんやなしの観光農業が主たる産業で、近年の大規模な都営住宅の建設や大型工場の進出を機に「変転した住工都市」と説明されている。これらの事実は「武蔵村山都市圏」が中央線沿いの三多摩地域と異なり、八〇年代から九〇年代にかけて急成長したことを告げていよう。これは一九六五年に首都圏整備法が改正され、実質的に当初の田園都市的構想は否定され、郊外のさらなる開発が是認されたことと連鎖し、七〇年代以降に「武蔵村山都市圏」へとも波及してきたことを示唆している。
民力『民力』2012年

また私も拙著で、都心と武蔵村山市を結ぶ新青梅街道が八〇年代末に、全国でも有数のロードサイドビジネスの集積地であることを紹介しておいたが、それは2002‐3年版『首都圏ロードサイド郊外店便利ガイド』昭文社)に掲載された武蔵村山市新青梅街道の地図を見ると、さらに実感してしまう。残念なことにコンビニは収録されていないけれど、ロードサイドビジネスの驚くほどの増殖と群棲から考えても、同様に多くのコンビニが存在しているはずだ。「弁当工場」の前にとまっている白いトラックは、おそらく新青梅街道を中心とするコンビニに向けて、弁当を迅速に運んでいくのだろう。コンビニの名前は出てこないのだが、「弁当工場」のメニューやシステムからすれば、それはセブン-イレブンではないだろうか。

「広大な自動車工場」とは日産自動車だと見なせば、カルロス・ゴーンによるリストラが始まっていて、それが「小さな自動車整備工場群」へとも跳ね返っていくことを暗示しているかのようだ。これはその後に記される「荒涼とした廃工場」にも象徴されているようにも思える。その実態は引用部分に出てこないが、「夏草の茂る暗渠の向こうに廃屋となった旧弁当工場や閉鎖されたボーリング場などが続く、寂しく荒れた場所だった」との言及が後に見られる。

「旧弁当工場」はコンビニの急激な成長によって生産が追いつく規模ではなくなり、撤退してしまったもの、「閉鎖されたボーリング場」は七〇年代のボーリングバブルの痕跡である。いずれも郊外特有の土地活用の関係から解体費が捻出できず、そのまま捨て置かれていると考えていい。

そこは痴漢が出没し、パート主婦たちが被害に遭っていた。その右手には農家や小さなアパートが並び、後者には工場で働くブラジル人たちが住んでいた。夫婦者が多く、ポルトガル語で喧嘩する男女の声が聞こえてきていた。工場やアパートの周囲にある「埃っぽい畑」や「庭の広い農家」といった記述から、その一帯がかつては農村だったことが伝わってくる。

そして「駐車場」。前述したように『OUT』は「駐車場には、約束の時間より早めに着いた」と書き出されている。ヒロインの雅子がまずそこに登場する。「駐車場は簡単に整地しただけの広い空き地」で、弁当工場の従業員やパート主婦たちの車が停められ、雅子も車体に傷のある古いカローラで通っているのだ。これも拙著で既述しているが、車社会の進行に伴い、九三年に乗用車保有台数は4000万台を超え、九四年に女性免許保有者は2400万人に至り、その結果、男女運転免許保有者割合は57%対43%となっている。これは雅子たちもそうであるように、八〇年代から女性も自ら車を運転し、通勤したり、買物に出かけることが日常化した事実を告げている。

また実際に八二年に有配偶女子有業率は50.8%と半数を超え、「働く主婦」が「専業主婦」を上回り始めていた。それはパート主婦を主たる労働者とするロードサイドビジネスに代表される郊外の就業状況を反映している。これは八〇年代における郊外とロードサイドビジネスと車の三位一体の成長を物語るものであり、『OUT』の「駐車場」も作者が意図的でないにしても、それらの八〇年代から九〇年代にかけての社会の変貌の一端を表出させていることになろう。

この「駐車場」から「弁当工場」へは徒歩で3分だが、その道行は「寂しく荒れた場所」を通っていくゆえに、暗く凶々しいイメージがつきまとっている。それは「午前零時から朝五時半まで延々と休みなく、ベルトコンベアで運ばれる弁当を作り続けなければならない。パートにしては高い時給だが、立ちずくめのきつい作業」が待っているからだ。そればかりか、その「寂しく荒れた場所」で、雅子は日系ブラジル人に襲われたりもするし、そこはまた物語のクロージングの場、不可欠の舞台としての機能を果たすことになる。いや、考えてみれば、一貫して『OUT』のすべての舞台となるところは「寂しく荒れた場所」に他ならないのだ。

さらに日系ブラジル人にふれるならば、九〇年代に入って出入国管理法改正により、ブラジルなどからの出稼ぎが急増し、九〇年代半ばの20万人近い日系人のうち、日系ブラジル人はその7割を占めるに至ったとされている。『OUT』の「弁当工場」で働くブラジル人たちもそれらの出稼ぎ者であり、九〇年代の郊外が彼らとの混住社会を形成するに至ったことも露出させている。

『OUT』の冒頭に近い「弁当工場」に関する一連の文章に長い注釈を施してきたが、これは七〇年代以後に形成されることになった郊外の風景と生活に端を発するもので、新青梅街道を埋め尽くしているロードサイドビジネスの誕生と軌を一にしている。そしてそれらの風景は全国に普及し、郊外の風景を均一化させていったのである。その流れは九〇年代における郊外消費社会の隆盛と繁栄へとつながっていく。

桐野の『OUT』は、均一的な風景によって演出された郊外消費社会の隆盛と繁栄、コンビニエンスなシステムの背後に潜む生産と流通と消費のメカニズムを描き出している。コンビニの弁当はこのようにして工場で生産され、「この工場で働いている限り、心身に溜る鬱屈は何をしても癒されはしない」という労働環境を通じて送り出され、それは不可視のままで消費されていくのだと。そして雅子を始めとしてそこで働くパート主婦たちも工場と同様に、「OUT」状況に置かれていること、それはすなわち郊外消費社会もまた「OUT」状況にあることを告知しているように思われる。

桐野は『OUT』を書くにあたって、実際に「弁当工場」で働いたと伝えられているし、武蔵村山市新青梅街道を中心とするトポロジーも念入りな取材に基づいていると考えられる。それが第一章の「夜勤」の生々しいリアリズムへと結晶しているのであろう。

今回は『OUT』という物語のフレームとバックヤードに終始してしまったが、次回は登場人物たちと事件に入っていこう。

次回へ続く。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」1