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混住社会論24 船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)

これは一九八五年に『問題小説』に「東京難民戦争・前史」の総タイトルで、「運河の流れに」(1月号)、「巣窟の鼠たち」(7月号)、「銃器を自由を!」(10月号)と三回にわたって連載され、残念なことにそのまま中絶してしまった作品である。その後、『男たちのら・ら・ば・い』(『問題小説傑作選』3、徳間文庫、九九年)に「運河の流れに」だけは再録され、読めるようになったが、他の二編は放置されている。これらの事情から、拙著『船戸与一と叛史のクロニクル』青弓社)においても、論じてこなかった。

 船戸与一と叛史のクロニクル

しかし未完に終わった「東京難民戦争・前史」は、八〇年代に船戸によってしか書かれなかった難民の「叛史」とでもいうべき物語であり、それは七七年にすでに提出されていた豊浦志朗名義の『叛アメリカ史』(ブロンズ社、後ちくま文庫)所収の「ヴェトナム難民の明日の選択」をベースにしていると判断できよう。それに『叛アメリカ史』は混住の「叛史」といっても過言ではないからだ。

叛アメリカ史
さて前置きはともかく、これらの三編の内容をたどってみよう。「運河の流れに」は「梶木のばばあがくたばったので、だれもが浮かれきっている」という一文から始まっている。梶木荘の家主である「梶木のばばあ」が脳溢血のために七十二歳で死んだのだ。川崎市の場末にあるこのみすぼらしいアパートは、ベニヤ板仕切りの三帖、台所と便所共用の劣悪な住環境にもかかわらず、家賃と光熱費と合わせて夏は五万円、冬は六万円ととんでもなく高かった。それには理由があった。

 おれたちは日本人じゃない。全員インドシナ半島からの難民なのだ。それも難民救済センターにちゃんと管理されているような模範的な難民じゃない。

「おれたち」というのはグエン、カオ、ボー、ダンのベトナム人四人、ロン、キュー、ヌーのカンボジア人三人、それにラオス人少女エオも含まれていて、グエンとカオは密入国者、他の者たちも難民救済センターの斡旋した職場や施設からの逃亡者だった。だから梶木荘以外に住む場所がなく、三年近く高い家賃を払い続けてきたのだ。難民の問題はまず住宅に集約して表われる。それは東日本大震災原発事故によって国内で「難民」とならざるをえなかった被災者たちを襲い、いまだもって解決されていない問題に他ならない。時代と背景は異なるにしても、思わずエンゲルス『住宅問題』村田陽一訳、大月文庫)なる一冊を想起してしまう。

住宅問題 大内兵衛訳、岩波文庫
また梶木荘の住人たちは劣悪な住居に加え、各自が厄介な事情を抱え、職にしても最低賃金の新宿の歌舞伎町や横浜中華街などの歓楽街での下積み労働しか得られず、「だれもがいまや日本には憎しみすら感じている。だが共通の言語は日本語しかないのだ!」という状況の中に置かれている。ここで植民地における言語問題も喚起されるけれど、そのことに踏みこむ余裕がない。このような状況下にあって、家主が死に、ボーの性的才覚により、「住宅問題」は解決するかに見えた。

しかし事件は別に起きていた。エオが強姦され、深夜に戻ってきたのだ。彼女はウェイトレスとして働いている喫茶店の客である三人の学生に輪姦されたのだ。「模範的な難民」ではない「おれたちはエオの強姦について日本の警察に頼るつもりはこれっぽちもない。それは全員の暗黙の了解事項なのだ」。二十九歳の最年長で、ベトナムで兵役と戦闘の経験があるグエンがリーダーとなり、エオの復讐を目論む。まずはアーミーナイフを買い揃え、車を手配し、三人の学生を運河のほとりにある倉庫に拉致し、処刑に至る。四人のベトナム人と三人のカンボジア人によるラオス人少女強姦者たちの処刑だ。

それはグエンがエオの強姦をきっかけにして、難民の存在と日本での四年に及ぶ生活をあらためて考え、「おれたちは難民なのだ。国家や法律で保護されてる連中とはちがう。勝つためにはどんな方法でも使わなければならない」と決意したことの帰結でもあるのだ。そして船戸は次のグエンの独白の部分に対し、他の作品では見られない傍点を付している。それを引用しておくが、ただし傍点は省く。

 難民だから国家や制度に忠実である必要はない。この世のなかで活き活きとやろうと思ったら管理そのものをすさまじい勢いで突き抜けなければならない。

そうして「東京難民戦争・前史」は「巣窟の鼠たち」「銃器を自由を!」へと進んでいく。「巣窟の鼠たち」では韓国人密輸グループによる末端価格三億円に及ぶ覚醒剤をめぐるグエンたちの現金強奪と殺人、それにキューの死と拳銃の入手が伴い、「運河の流れに」では武器としてナイフしかなかったが、現金千百万円とともに火器をも手に入れたことになる。

次の「銃器を自由を!」において、横浜華僑の裏側の組織で、賭場や売春、麻薬などの非合法な商売を束ねる華人共生連合の利権絡みのトップ争いに、グエンたちは巻きこまれる。それには華僑内での文革派と反文革派の争いも絡んでいた。そのトップ争いをめぐって、グエンたちは覚醒剤の現金強奪の際にレンタカーを調達したことでつながった中国人から、ライバルを派手に殺してほしい、そのために拳銃四挺とカービン銃二挺を用意するとの依頼を受けたのである。その依頼には裏切りも含まれ、その仕事を成功させても報酬は支払われず、殺すつもりでいることが明らかだった。だがこの仕事を通じて、六挺の火器がグエンたちにもたらされるのだ。

そのような中で、グエンはかつて中華街で知り合った老中国人から聞いた話を思い出していた。第二次世界大戦後の日本のどさくさに闇市とよばれる自由市場ができ、東京の最大の闇市は新橋にあり、そこで大いに儲けた韓国人や台湾人が戦後の混乱が収まると、その儲けた金を集中的に赤坂に投資し始めた。日本の政策決定は国会議事堂ではなく、赤坂の怪しげな奥座敷で決定されるからだし、それはつまり赤坂を押さえる者が政治の裏側を押さえることになるからだ。そしてグエンは何の根拠もないのに、「唐突にこう思った。おれたちインドシナ半島からの難民は新宿を押さえなければならない!」と。この閃きは信念のようなものとして固まっていった。「銃器を自由を!」で、「東京難民戦争・前史」は中絶してしまうのだが、このグエンの閃きからして、物語がどのように展開されていくかを暗示させているといえよう。

「東京難民戦争・前史」は、すでに船戸が前述の「ヴェトナム難民の明日の選択」において予想していた、アメリカにおけるベトナム難民のアメリカへの回路とまったく重なっている。そこで船戸は五つの段階を挙げているので、それを示す。

1 都市への漂流
2 人種主義との本格的邂
3 スラムの形成
4 怨嗟の噴出
5 テロルの志願

これを「東京難民戦争・前史」に示されたグエンたちの回路に置き換えれば、1 新宿歌舞伎町を経て横浜中華街へ、2 難民救済センターが斡旋した職場や施設における篤志家然として経営者や偽善性に充ちた神父たちの存在、及び歓楽街の下積み労働しか得られない状況、3 梶木荘という難民特有のスラムの形成に伴う結束、4 エオが強姦されたことに対する怨嗟の噴出、5 犯罪を通じて、叛日本へと向かっていく構図となる。

つまりここに紹介した三編はまだイントロダクションであり、これから本編がまさに本格的に展開されようとしていたとわかる。すなわち八〇年代における最大のハードボイルドにして混住小説が出現しようとしていたのに、ここで中絶してしまったのである。

その代わりにはならないにしても、これらの三編に、ブックレット『東京難民戦争』(青峰社)所収の中絶の理由を含めた、船戸へのインタビューを加えた一冊の刊行を、ぜひ徳間書店に望みたい。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1