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古本夜話310 小笠原白也『女教師』と青木嵩山堂

二回大阪の和本に関して続けたので、もう一回それについて書いてみる。これもまったく偶然なのだが、脇阪要太郎が『大阪出版六十年のあゆみ』で語っている大阪の近代文芸書の草分けで、駸々堂と並ぶ青木嵩山堂の一冊でもある。

それは痛みの激しい菊判二百八十ページ弱の和本で、濃い水色の表紙に『小説女教師』との題が付されている。表紙をめくると、すぐに本文で、タイトルが再び置かれ、小笠原白也著に続いて、第一回として「上福島浄正橋筋は、大阪市でも先(まづ)賑(にぎやか)な通である」と始まっている。

著者の小笠原白也については『日本近代文学大事典』で、次のように立項されている。
日本近代文学大事典

 小笠原白也 おがさわらはくや 生没年不詳。小説家、新聞記者。大阪府下の人。本名語咲(ごさく)。もと教育者で府下中島村小学校長であったが、大阪毎日新聞懸賞小説に当選、『嫁ヶ淵](明四〇・一・一〜三・一六)によってデビューした。ついで『女教師』(明治四二・一〇)を刊行、大阪毎日に入社し、同紙に『妹』(中略)『三人の母』(中略)などを発表、家庭小説で名声を上げた。

この立項は岡保生によっているが、残念なことに小笠原の名前は彼の『近代文学の異端者』(角川書店)にも、筑摩書房の『明治家庭小説集』(『明治文学全集』93)にも見えていないので、これ以上のことはわからない。

『女教師』はまさに小学校の先生の小石芳子を主人公とし、その受け持ちの二人の女生徒をめぐって展開される物語で、教師と学校と家庭の物語コードを三位一体化させた小説と見なすことができよう。また小石芳子という名前が壺井栄の『二十四の瞳』の大石久子を連想してしまうが、これは偶然であろうか。しかしここでは小笠原と『女教師』の嵩山堂について書いておきたい。

『女教師』の奥付を確認しておくと、小笠原の立項にあるように、明治四十二年青木恒三郎を発行者、発行所を青木嵩山堂として出されている。その住所は大阪市東区心斎橋筋博労町角と東京市日本橋通一丁目角の二ヵ所となっている。青木恒三郎は『出版人物事典』でも立項され、私も以前に別のところで書いているし、その後青木の曾孫である青木育志の「青木嵩山堂の出版活動」(吉川登編『近代大阪の出版』創元社所収)などが発表され、青木恒三郎の写真、大阪と東京の青木嵩山堂の図絵を見ることができるようにもなった。

出版人物事典 近代大阪の出版

明治二十年代半ばに創業し、大正十年頃に廃業したとされる青木嵩山堂について、その五千点に及ぶ出版点数、幸田露伴の『五重塔』などの文学作品の刊行、また多岐にわたる出版から、青木育志は「東の博文館、西の青木嵩山堂」といわれたと書き、『出版人物事典』もそれを踏襲している。しかし小川菊松の『出版興亡五十年』や湯川松次郎の『上方の出版と文化』において、青木嵩山堂は自社出版物と他社の出版物を目録化して通信販売を行なっていた元祖ではないかと述べられている。
出版興亡五十年

それらのことに関し、大正七年の東京書籍商組合員の『図書総目録』を参照し、もう一度考えてみたい。青木育志が『大正書籍総目録』とよんでいるのも、これと同じであろう。この目録には嵩山堂の出版物が二十八ページ、千百点ほどが掲載されている。最初から見ていくと、まず村上浪六の四十点近い小説があり、幸田露伴の『五重の塔』(ママ)などが続き、それから前述の小笠原の『女教師』『見果ぬ夢』『妹』の三点、江見水蔭、稲岡奴之助、小栗風葉がそれぞれ二十点前後に及んでいる。

これらの小説の次には歴史物、戦記、スポーツ、各種講義、教科書、地図、法律、農業、狩猟、漁業、料理、中国古典、漢文、辞典、占い、千字文、習字、囲碁、英語リーダー、語学書がずっと挙げられていく。挙げた分野はそれなりに点数が出されているものであるが、それでいて同じシリーズは少ない。そうしたシリーズでも嵩山堂編と明記されているのは、中等教育などの「問答」と「地図」シリーズで、これらの他に嵩山堂編とある二十点ほどは嵩山堂のオリジナル出版だと見なせるにしても、ここに挙げられた目録明細はスキゾフレニックな出版という印象を与える。

確かに「東の博文館」もこの『書籍総目録』に、多くの分野に及ぶ四十六ページの掲載を見ているが、『太陽』を筆頭とする十七種の雑誌のもとに、長い「叢書」や「シリーズ」が配置され、専門的な単行本企画も雑誌を介して生まれたのではないかとも察せられる。

しかもその一方で、博文館は最大の取次である東京堂を擁し、出版社・取次・書店という近代出版流通システムに君臨し、流通販売の要も押さえたことになる。したがって博文館の出版物はすべてがオリジナルで、その流通販売のバックヤードも確保されていたことを意味している。

ところが嵩山堂の目録からはそのような一貫性が伝わってこない。それはこの目録が出版社というよりも取次、しかも自社と他社の出版物をアマルガムさせたディスカント通信販売目録だと見なしていいように思われるからだ。その実例を挙げていけば、きりがないのだが、ひとつだけ本連載307と関連して取り上げると、田中宋栄堂の「詩学叢書」二十九点が並び、近藤元粋の『李太白詩集』も含まれ、定価も五十五銭となっている。田中宋栄堂の昭和六年二十二版が定価一円二十銭であり、ロングセラーだったことは見たばかりなので、大正七年時点においても田中宋栄堂の出版物であったのは間違いないと思われる。

とすれば、嵩山堂は、東京における大阪の出版社の取次や書店も兼ねたディスカント通販業者だったとの小川や湯川の証言は的を射ていたというべきだろう。このような複合性に加え、駸々堂の『当世書生気質』にみたような、東京から大阪へと至る譲受出版なども重層的に絡み、青木嵩山堂の多面性から、出版社としての虚像が成立したようにも思われる。

その廃業にしても、青木嵩山堂が近世出版流通システムと通販をメインとしていたためであり、雑誌を委託とすることで急激に増加した書店に象徴される近代出版流通システムに敗退することになったゆえだと思われる。

なお例によってこの一文も以前に書いたものであり、アップするに際しネット検索していみると、ブログ「詩の散歩道」に「田所出身作家・小笠原白也のこと」が連載され、彼の詳細なプロフィルが明らかにされている。

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